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天皇たちのうた1 愛国者学園物語112

 「千鳥ヶ淵の墓苑に対しては、無宗教の国立追悼施設にすべきだと言う意見や、その建設に強く反対する意見など、戦没者の慰霊に関する問題は、戦後80年近く経っても、未だ定まりません。難しいものです……。そういえば、千鳥ヶ淵の石碑に刻まれた、天皇たちの御製(ぎょせい)はどんな歌だったのでしょう?」
「すぐ調べよう」
西田はiPhoneの画面を見た。


「昭和天皇の歌は、
『くにのため いのちをささげし ひとびとの ことをおもえば むねせまりくる』
上皇陛下はえっと……、あった。
『いくさなきよを あゆみきて おもひいづ かのかたきひを いきしひとびと』」


「すみません、私が調べるべきでした」

「いやいや、気にしないで。昭和天皇の歌も、リアルすぎてなんと感想を述べたら良いものか。戦争前と戦争中は、彼は生ける神、現人神(あらひとがみ)としてこの世に存在していた。そして、無数の兵士や民間人が、天皇陛下万歳と叫んで、死んでいった。グアムだったかテニアンだったか、日本人入植者たちは米軍に捕まれば恐ろしい目に遭うと思って、天皇陛下万歳を叫んで、崖から飛び降りた。海は赤く染まり、その崖にはバンザイ・クリフとか、スーサイド・クリフという名前がついたそうだ。自殺の崖なんて、悲惨な名前だよね」
美鈴はすぐにiPhoneで検索した。
「バンザイ・クリフはサイパン島の最北端の岬です」

 「ありがとう。サイパンか、間違えた……。話を続けよう。昭和天皇も地獄を見た人だよね。彼が戦後『人間宣言』をして、神ではなく人間になったわけだが。

 それはそうと、米軍など連合国軍は沖縄を支配下に置いたあと、大規模な侵攻作戦を行って、日本本土に攻め入る予定だった。もしそうなっていたら、日本人は本土決戦を覚悟せねばならなかっただろう。

 そのダウンフォール作戦のことを初めて読んだ時、その余りの規模と内容に、私は本当に気分が悪くなったよ。それは、連合国軍が原子爆弾と大量の爆撃機、生物化学兵器などを使い、本土を攻撃するという作戦だ。

 世界には、日本に対する原爆の使用に賛成だと主張する人々が、今もたくさんいる。なぜなら、それにより戦争が早く終わり、犠牲者も少なくてすむから、という理由だそうだが、ダウンフォール作戦が遂行されていたら、世界は広島と長崎に加えて、さらにおぞましい現実を直視することになっただろう。

 この作戦では、連合軍によるノルマンディー上陸作戦をしのぐ、空前絶後の大作戦が2つ、計画されていた。九州南部に上陸するオリンピック作戦と、東京でのコロネット作戦だ。後者では大規模な部隊が二手に分かれて上陸作戦を敢行する。一方は千葉の九十九里浜から、もう一方は相模湾から。そして東京を攻撃する。

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 対する日本は弱い。本土決戦という総力戦なのに、日本は資源がないし、何年か続いた戦争で、武器の生産能力は落ちていた。また、日本の生命線であった海上通商路は、連合国軍によって海上封鎖が行われており、食料などの物資が日本に届かなくなっていた。だから、大量の物資を投入する作戦が得意な連合国軍に、限られた武器しかない日本軍か、ろくに武器を持たない一般人の群れが突撃して、@@の山を作ることになったはずだ。大量破壊兵器に、竹槍や農機具で立ち向かう日本人というわけだ。そして、日本は壊滅する。もしかしたら、朝鮮半島や東西ドイツのように国が分割されていたかもしれない。昭和天皇は捕らえられて、処刑されたかもね……。

 彼はそういう時代に生きていたのだ。幸い、ダウンフォール作戦は現実のものにならなかったから、日本の『最終戦争』は避けられた。だが、第二次世界大戦に参加したことで、日本は300万人以上を失い、無数の負傷者を出し、2発の原爆をくらって国土は焦土と化した。それどころか、戦後の日本は7年間連合国に、沖縄は1972年5月まで米国の支配下にあった。戦争を遂行した政治家たちは、御前(ごぜん)会議で昭和天皇に情勢の報告や重要な決定をしていたが、その多くは東京裁判で有罪になり処刑された。

 そういう歴史を思うと、私には
『くにのため いのちをささげし ひとびとの ことをおもえば むねせまりくる』
というその歌がとても心に響くんだよ。私があの時代に生きていたわけじゃないのにね」
西田は顔を上げて美鈴を見た。
「申し訳ない、話が脱線ばかりしている」
「いいえ、続きを聞かせてください」

 「上皇陛下の『いくさなきよを あゆみきて おもひいづ かのかたきひを いきしひとびと』も、考えてみると、実に印象深い。
『かのかたきひを』は、「あの困難の日々を」という意味だよね、私が誤解していなければ」
美鈴はその解釈に同意した。

 「戦後の日本はわざわざ言うまでもない、戦争がもたらした焼け野原から再出発して、世界有数の経済大国になるまで成長した。昭和天皇も、息子である上皇陛下もその様子を目にして喜ばれたに違いない。そして、戦争のない、平和な時代がどれだけありがたいものか。戦争体験者であり、日本の象徴である2人にはその大切さが誰よりも感じられたことだろう。戦争のない時代を生きることが出来る自分は、あの戦争当時の厳しく困難な日々を生きた人々に想いを馳せる……。彼らの献身と犠牲があって、今日の平和がある。あるいは、あの日々を生き延びた人々は今どうしているだろうか。私はそのような印象をこの歌から受けた」
2人はしばらく口を閉じていた。

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写真1枚目は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑正面入り口から見た、お堀。

2枚目は、靖国神社の遊就館にて。

3枚目と4枚目は昭和天皇の御製に関するもの。


1、3、4は、今年6月下旬に私が撮影。iPhoneで。

2は、7月上旬に撮影した。





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