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2021/05/15 現実へ逃げ込む

今日は朝から妙に外の空気や音が美味しく感じられる。

特段晴れているわけでもない。普通の曇り空の朝。なんだか久しぶりに故郷に帰ってきたときの朝の感覚。

しばらく集中して色んなことをしてきたからかもしれない。昨日はなんだか全て投げ出したくなって、サウナに入ってきて横になっていた。

今や僕がやるべきことや手がけていることは手元にない。パソコンとその画面に映った世界でほとんどのことが事足りる。会議も、資料も、コミュニケーションも、音楽や映像の娯楽も、書いているこの文章も、たかだか10数インチの画面にたくさん重なっている。今の自分の人生のほとんどがこの画面に重なっているかと思うと滑稽だなとすら思う。足りないのは生物として生命を維持するためのことばかりでそれすらもApple Watchとスマートフォンで管理されていたりする。自分が歩いている歩数すらデジタルの世界にあるありさまだ。

別に今の時代が嫌なわけではない。むしろ今の時代が来たからこそ自分の得意なことややりたいことが繋がって「幸せな生活」が送れていると言っていい。部屋から一歩も出なくても、目の前の画面に映っているものを目で視認して、頭で考えたものを入力していく。

淡々と作業をしているとき、これは自分の脳がパソコンの一部になっているのではないかと思うくらいの時がある。もちろんパソコンができるような単純作業や単調な作業をしているわけではないし、他の誰ができるという仕事をしているつもりもない。自分は自分であり、自分にしかできないことをしている自信はあるが、あまりにもこの画面を通じて広がる世界がもはや実態のないものであるが故にマトリックスの世界のように自分がその世界の演算機能の一部なのではないかと感じてしまう。

僕は現実をデジタルが拡張してくれるとずっと考えていた。ピアノが弾けない自分はデジタルの世界で音楽が作れるようになったし、絵が描けない自分はデジタルの世界で3Dのモデリングができるようになった。仮想空間だからこそつながった友達もたくさんいて、コミュニケーションの幅をもたらしてくれたのはインターネットの世界だ。だから僕にクリエイティビティをもたらしたのはデジタルの世界である。それは間違いない。だからずっと現実で内向的で引きこもりがちだった自分はデジタル、インターネットの世界に逃げ込んできた。そこが自分の隠れ家であり、「自分ではない新しい自分」が存在する場所だった。

月日は流れ僕はもうデジタルの世界で生きている。現実をデジタルが拡張してくれる、僕にとって旅行や留学であった世界に永住している。そして世界は大きく変わり、僕みたいに永住どころかデジタルの世界に旅行に行ったことすらない人たちがこのデジタルの世界に永住することが当たり前になり、このデジタルの世界が急激に「現実」になっている。これまでこのデジタルの世界が当たり前ではなかった人たちは一部は順応し、一部はビジネスチャンスと捉え、一部はさながらレジスタンスのように抵抗して生きている。

僕が今日の朝、生身の風を新鮮に感じたのは、これまで隠れ家として機能していた世界が急激にオープンになり、自分自身の居場所がなくなってしまうかもしれない焦燥感や無力感だったのかもしれない。もはや僕が隠れ家として逃げ込む場所は「新しい現実であるデジタルの世界」ではなく、「非日常となってしまった物質的な世界」なのだろう。紙の本を読み、木を削り、粘土をさわり、プラモデルを組み立て、クッキーを焼き、ギターとピアノを弾く。そんな世界。自分で想い描いておきながら、SNSにどう載せようかななんて考えているから末期症状だ。

勘違いしていた。デジタルの世界が自分を物質的世界で遠くまで連れて行ってくれる羽根だと信じていたけど、今は違う。物質的世界が自分の世界を広げてくれる武器であり、癒しである。このリアルで感じている風や空気・音が贅沢品であり、自分の本当の居場所で、その自分を大切にすることが大事なのだと。

少し現実から離れて自分を再構築してきます。自分探しの旅みたいでちょっと恥ずかしけど、手触りを取り戻しに。


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