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父と母とニュータウン

ぼくは、1972(昭和47)年に名古屋のベッドタウンにあるニュータウンの団地で生まれ育った。
まだできて数年の新しい町。父と母が結婚してその中の団地の一室で新しい生活を始めた。
今でこそ、入居者の高齢化が進み、築40年以上の団地は空き室が増えているが、その当時は、団塊の世代の憧れる新しい町だった。名古屋への転勤族が多かったこともあり、転入転出が多かった。そして、あまり広いとは言えない部屋なので、子どもたちが成長するとマイホームを買ったりとで引っ越していく家族も多かった。その頃のともだちも今となってはほとんど残っていない。

ぼくがまだ幼稚園へ通う前。ヘルニアで愛知県コロニーへ入院したことがある。その時、一人病院に残されることが怖くて、帰って行く両親を泣き叫びながら追いかけて行ったことがあったようだ。その時の記憶が今でも覚えている一番最初の記憶になっている。その後、何度も「両親に置いて行かれて泣き叫びながらバス停まで追いかけるが、バスが出て行ってしまい泣き崩れる」という夢を繰り返し繰り返し見た。今でも時々その夢を見ることがある。

本当にバス停まで追いかけて行ったのか、本当に泣き叫んで追いかけたのか、親に聞いたことがあったが、そんなことはなかったようで、普通に遊んでいて両親が帰ることにも気づかなかったと言うことなので、おそらく、遊んでいる間に両親が帰ってしまい、その後、姿が見えないことに気づいて泣きじゃくっていたということなのではないかと思っている。
どっちにしろ、その記憶が幼心に強烈に刻み込まれ、「親に捨てられるかもしれない」という恐怖心が常に頭の片隅にあったようだ。

幼少期、両親の仲は良かったと記憶しているし、実際に良かったのだと思う。日曜日には、よく近場へ出かけた。両親は運転免許を持っていなかったので、車はなかった。なので車のない生活が普通だった。どこかへ行くには、バスや電車。または、徒歩圏を散歩する。よく喫茶店へ行ったり、片道3時間ほどかけて自然歩道を歩いて大きな公園へ行って遊んだ記憶もある。

映画もよく見に連れて行ってもらった。一番最初は、ぼくは憶えていないのだが「宇宙戦艦ヤマト」を見に連れて行ってもらった。しかし、その当時のぼくには難しくて途中で帰ったそうだ。その後、東映まんがまつりか何かで映画上映前に仮面ライダーか何かのヒーローショーが映画館内で行われ、悪役が客席の子どもの中から人質を選ぶという演出があったのだが、ぼくは本気で怖がって悪役に見つからないよう父の膝の上に頭を隠しうずくまっていた記憶がある。
映画「E.T.」が公開された時には、父と妹の3人で出かけたのだが、映画館に着いて父が家の電話をかけたところ、母も一緒に見に出かけるつもりだったのに置いて行かれたと怒ってしまっていたらしく、映画を見て家に帰ってもE.T.の話しをできなかったということもあった。

名古屋へ出かけた時には、当時中日ビルにあった、ステーキハウスとにおへ行くのがたまの贅沢で、その帰りにデパート(三越になる前のオリエンタル中村)の地下にあった、大きな円形の台の上にたくさんのお菓子が載って回転している量り売りの店があり、そこで欲しいお菓子を選ぶのがとても楽しみだった。

お正月には、両親の実家へ行くのだが、二人とも名古屋市内だったので、帰省するということがなかった。なので、県外へ行くことは年に1〜2回くらいしかなかった。鳥羽のホテルに泊まりに行ったり、どこかの大きなダムを見に行ったり、鈴鹿サーキットの遊園地へ行ったりするくらいだった。
母と妹が、同じ団地のひとつ上の階に住んでいたご家族が引っ越した、千葉県の家へ遊びに行っている時に、父と二人で鈴鹿サーキットに遊びに行ったのだが、行きの近鉄電車と白子駅から鈴鹿サーキットへの直通バスが家族連れでとても混み合っており、その頃から人混みが苦手で頭痛がしてきたのだが、せっかくきたのだから遊びたいと思い、父には黙っていた。しかし、しばらく遊んでいると頭痛がひどくなってきてしまったので、父に「頭が痛い」と言って帰ることになった。その時、子ども心に「仕事で忙しい父がせっかく時間を作って連れてきてくれたのに申し訳ない」という気持ちになったことを今でも憶えている。

小学校の高学年から中学生にもなると、親と出掛けるのは正月の親戚の家くらいになっていたが、父とは何度か一緒に映画を観に行ったり、外タレのコンサートにも1回行ったことがあった。

高校1年の1学期、ぼくは普通科へ進学するつもりだったのだが、なぜか理系特進科に入ることになってしまい、もともと理系の成績が良いわけでもなく、得意でもなかったので、すぐにクラスでは落ちこぼれていった。普通科が1日6限授業なのに対し特進科では、0時限授業と7時限目というものがあり、始業開始の1時間前から授業があり終業後にもう1時間授業を受けて、小テストに合格するまで帰れないという地獄のような日々を過ごしていた。6月になる頃には、もうすでに嫌気がさしており、0時限と7時限をボイコットして、両親にも学校を辞めたいと訴えていた。
しかし、母は中卒ではこれからの時代、まともな仕事には就けないからせめて高校だけは卒業してと言っていたが、とても3年間落ちこぼれたまま通うのは無理だったし、学校側からも特進科から普通科への転籍は今までそのような例もないしできないと言われていた。

しかし、ぼくが0時限と7時限をボイコットして、地元のともだちと遊んでいる頃、父と母は、何度も学校へ出向き、転籍を認めてもらうよう交渉を重ねていたようだった。そして、特例として転籍を認めてもらったのだ。
それまで、退学することしか考えていなかったが、自分の知らないところで、両親が頭を下げて学校側に交渉をしていてくれたことを知り、もう辞めるとは言えなくなってしまった。
そして、1年の2学期から普通科へ通うことになり、なんとか卒業し大学へ進学できることになった。

大学に進学すると、正月に親戚の家へ行くこともなくなり、特に父方の親戚とは疎遠になっていった。

父のがんが発覚し、うちが経済的に逼迫していた時期、母方の親戚が来て、当時最初に勤めたサラ金会社を辞めて失業保険をもらって無職だったぼくを責め立てたことがあったのだが、その時に父は「今は、シンジが家にいて助けてもらわないと困る」とぼくのことを守ってくれた。

そして、父が亡くなり、葬儀が済んでからは父方の親戚とは縁が切れてしまった。なので父は髙田家の墓に入ることはなく、遺骨はぼくがずっと持っている。いつかは墓を建てなくてはいけないと思いながら、不甲斐ないことに墓地墓石を買うだけの金を貯めることもできずに30年近く経ってしまった。

子どもの頃は毎年行っていた父の実家でもあり、ぼくの本籍地でもある場所には、今はもう親戚も住んでいない。

今、自分がこんな状態で母に迷惑と心配をかけていることを、父はどう思って見ているだろう?そんなことをよく考える。父の遺影を見るたび、厳しい目で怒っているように感じられる。
ぼくには父に叱られた記憶がない。叱るのは母の役目だった。

そんな父が今生きていたら、ぼくになんと言うだろう。

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