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究極の合理性とは、合理性を手放す事だという事。あるいは共感の毒と恩恵

ある日私は気づいたんだ、自分は共感が嫌いだし、そしてまた共感に感情があるとすれば私を嫌っているのだろうと。

常々思っていた。医師に共感が必要なのだとすれば、それは共感し感情移入した人を日常的に喪う事を意味するのだ、と。哲学者のジャンケレヴィッチは死を「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」に分けた。一人称の死は自分の死であり、その日が来るまでは知覚できない。三人称の死は赤の他人の死であり、誰でもない知らない人の死であり、今日も当たり前のようにどこかで誰かの身に起こる死である。そして二人称の死は、親密な者の死、我々を内側から揺り動かすような死である、と。

おそらく私も駆け出しの頃はちゃんと共感を持っていたと思うが、やはり病院に来るのは産科や乳幼児健診を除けば運の悪かった人であり、過度な感情移入は本来自分が果たすべき役割のパフォーマンスを下げ、必要な洞察を鈍らせる。そして残念な事に、いくら感情移入して二人称の死を経験しても、その頻度は当然ながら三人称の死の頻度で起きる。つまりは当たり前のような日常的な頻度で。次から次へと患者は来るので、生きている患者からすれば、身もふたもない話、「自分の主治医が赤の他人の死にふさぎ込んで鬱々としてたら困る」という事になる。実質的には3つの選択肢が用意される。1:誰かの死に深く共感し悲しみ、それを一週間引きずりながら診療する
2:誰かの死に深く共感し悲しみ、2秒でそれを忘れて次の人を診療する
3:共感は浅く、感情移入する事なく、役目を果たし、次の人を診療する
自分で能動的に選び取ったわけでもないが、一生分の共感を使い果たす頃には自分は3に近いスタンスを取るようになった。そうするとある意味冷めた視点で、共感という枠の外から共感を見るようになり、共感の持つ毒性というものが目に付くようになった。

炎上が起こる時はいつだって共感がそこにある。怒りへの共感!憎しみへの共感!事実の裏取りをする人間や、素朴な疑問を呈する声はかき消され、苦しんでいる人間に共感しないならば人でなしと罵られる。

いじめが起こる時も同じだ。共感は何も弱者の味方ではない。少数の声の大きいいじめっ子の声に共感した腰抜けが、一丸となってスケープゴートを犠牲にする。

迫害も差別も、弾圧も、人類が道を踏み外すときには常に共感がそこにいた。ナチズムは完全に民主的な方法で生まれた独裁政権だが、理性ではなく感情に訴えかける演説を多用したし、そしてドイツ国民も理屈によってではなく共感によってヒトラーを選んだのだ(と思いたい。冷静に理詰めで考えてナチを選んだとしたら嫌すぎる)

何らかの人類の集団で正義の暴走が起こる時、常に共感が呼び水となるのだ。もちろん共感は悪い事だらけじゃない。この広い世界で社会構造を持つ生物はごくわずか。そして蜂や蟻のように単純なホルモンではコントロールできないほどには脳を発達させ、一方でシャチやライオンのように数個体程度では自然に太刀打ちできない弱く愚かな人類が、残酷な自然に立ち向かうために生み出したのが共感だ。共感は社会を維持し、人類種を存続させる働きを数万年の間営々と続けてきた。そのコストとして、共感は強きに媚び、弱きを足蹴にする集団心理をもたらし、差別、迫害、いじめを人類が供物として捧げる事を求め続けた。

人類が共感の獣である事を心底軽蔑すると同時に、また共感がなければ生きられない事に絶望もする。しかし、かと言って、「共感なしで生きられぬなら、いっそ美しく私も世界も滅びてしまえ」と言い切るだけの覚悟がない。だから私はこの共感まみれの世界の中で、死ぬまでの間、共感ごっこを上手にやっていかなくてはいけない。そこで必要になったのは、共感の技法を身に着ける事、そして身に付けるには行う事、行うには理解する事だった。

この1年私は共感の技法を理解しようとしていたが、世の中は呼吸をするように共感をしており、その習得は困難を極めた。そんな中ひらめきをもたらしたのは皮肉にも、共感力が高いはずの人から漏れ出た、共感の欠如による言動だった。

例えば、非常事態宣言中の旅行をSNSにupするインスタグラマー。

例えば、泥酔患者に懲罰的な対応をしてそれを誇らしげに書くツイッタラー。

例えば、パンデミックにもかかわず、自己中心的な意見を口を滑らせてしまう芸能人。

みんな内面で何を思おうと自由だ。どれだけ反社会的な事でも、利己的な事でも。特に感染の爆発とそれによる自粛要請という状況下では、社会の正しさと個人の利益が相反する事は少なくないだろう。彼らには彼らなりに合理的に考えた結論としてその意見を持つ事に決めたのだろう。しかしそれは、「言わなくても良い事」もしくは「言い方の問題」なのだ。ましてやネットで半永久的に残り、かつ全世界からアクセス可能な場所で言うメリットは乏しい。

言い方の問題、という話はよく「お気持ち表明」とか「繊細ヤクザ」と揶揄される事がある。確かに、内容が事実であればいい方はあくまで伝達手段の一つであり、内容ではなくその包装にこだわるなんてマナー講師のような難癖だ、という意見もわかる。言葉なんて適当なルールに基づく音の組み合わせに過ぎず、その音の選びかた一つで不利益が生まれる事が理解できない、というラジカルな意見もあるかもしれない。

だが、我々はその言語ゲームの上で繁栄し利益を受けており、その言語ゲームから降りるのなら、当然その利益は享受できなくなる。不利益を被るのではなく、得られていた利益がなくなるだけで、でも古今東西ほぼすべての人間が言語ゲームによる利益を受けていて、他にゼロの場所や人がどこにもないから、プラスがゼロになる事であたかもマイナスになったように感じるのだ。

極論すれば言語ゲーム、特にそれが学術分野でなく日常会話の文脈であればあるほどに、真実はどこにも求められていなくて、必要な事は相手を思いやる言葉である。それを嘘と呼んでもいいし、思いやりと呼んでもいい。

性善説とか性悪説とかどちらであれ、人は大きな物語を必要としている。それは神様がどこかにいるとか、祈れば救われるとか、明日は昨日より進歩した世界になるとか、世界はフェアにできているとか、永遠の愛は存在するとか。愛の言葉はお世辞ではなく本物だとか。

科学、いやもっと大きく学問、あるいは法律や司法にいる人たちが忘れがちな事だけど、真実をバカみたいに追求し、ベールに隠された嘘を暴いてエンジョイできるのはそういった一部の極めて特殊な人々だけで、大多数は自分が生きている物語がフィクションでも嘘でも誰も気にしないし、夢を見てまどろんでる所で布団を剥がされ「これが現実」とか言われても怒るだけだ。自分を包む繭であり、自分を支える骨格である虚構なしに、寒風吹きすさぶ現実の中に、二本足で立てるほど人間は強くはない。

そういった儚い繭を破らない手順こそが配慮であり、そして誰も得をしない真実に蓋をする優しさである。「言わなくても良い事」や「言い方の問題」という言葉はその内容ではなく、伝えるTPOや伝え方に大して、そういう手順が守られなかった事を批判しているのだ。

仮にいくら正論や筋が通っていたとしても、それを容認しない人にとっては不愉快にさせる。そしてそうやって誰かを不快にさせた時に、理屈じゃなくて感情であることが理解できない人々(過去の私だ)は、肩をすくめてこういうのだ。
「やれやれ、彼/彼女は事実を直視する事に耐えられない人間だった」
と。それは半分くらい正しかったとしても、深い関係性ではない他人に事実を直視を強いる事は暴力足りうるし、深い関係性だったとしたら、なおの事言い方や相手との関係性に対する配慮が足りなかった事を意味する。

必要だったのは対話ではなく共感、思いやり、相手の事を思いやるという事。相手の事を想うというのは、個人の哲学にもよると思うが、管理して正解に導く事ではないと思う。もちろん相手が望んだときにはそうしても良いだろう。だが、明確に取り返しのつかない破滅に向かっている時を除き、多くの場合は、自分が正しいと思う論理性や合理性といったものを使わないでおく、というのは一つの思いやりだろうと思う。それは第一に、自分が相手より合理性や論理性に秀でている事は保証されておらず、第二に相手もまた程度の差こそあれ自分なりの合理的思考に従っており、それを塗りつぶされるのはいい気がしない。第三に合理的思考以外の一切を認めないのは狭量な考えだからだ。そして最後に、これは一番重要な事だが、そのようなリスクを踏まえた上でなおあなたが合理的・論理的である事にこだわるなら、あなた自身がもはや「合理的」たりえていない。合理性から逸脱してしまっている。その理由を述べよう。

たとえば婚活の場において、互いにドライに相手を品定めする事があり得るのは否定しない。相手が高望みをしていたら、ガツンと言ってやるのも思いやり、という人もいるかもしれないけど、相手の心の準備ができてない時点ではどんなショッキングな言葉も響かないし、あなたは逆恨みされるだろう。逆に(思っているのは自由、言うだけ愚か。何一つ得をしない事は言わない)と判断して、無難に終わらせ相手には気づきを与えない人もいるだろう。それでも結局はあなたが相手をしなかったという事実は残るのでお相手もわが身を振り返るきっかけになるかもしれない。よりきわどい例に踏み込もう。

たとえば自分に「釣り合う」相手と思ったときに、「私は高望みしないし、あなたは特に欠点もないから、結婚してもいい」という表現をするのは往々にして悪手となる。まさにこれは伝え方の問題で、第一に本当に相手をパートナーにしたいなら、パートナーとなる人への礼節が足りてない。もしあなたが選び放題のスペックなら「結婚してもいい」人ではなく「是非結婚したい」人を選べばいいだけだし、妥協して選ぶのであれば、相手も妥協している可能性がある以上、どちらにせよもっと配慮はあってしかるべきだろう。

彼らの過ちは私の過ちでもある。だからとてもよくわかる。自分が理屈っぽい人間である事は自他ともに認めるし、おそらくはそれがもたらす利益と同じかそれ以上に自分の人生に損失を与えているのだろうとは薄々自覚している。こういう時、私、そして彼らは、自分が論理的であったり過度に合理的であるから上手くいってないという状況だと理解したい。誰かと喧嘩した時に、その原因が自分の性格、攻撃性や粘着性といったものや配慮の足りなさではなく、相手に—相手が事実を受け入れられなかった、相手に合理性がなかったと—考えがちである。

これは合理的な態度ではない。むしろ自分を否定されたくないという、極めて感情的な防衛反応だと思う。感情的であるがゆえに、必死になってより、論理の純度を上げ、論拠を磨き、相手の繭を暴きに行く。「自分は論理的である」という大きな物語がなければ、自分の足で立てないから、その理想像を死守するのだ。どれだけ受け入れがたい事実であろうと、人間関係は理屈だけではなく、ホモ・サピエンスは感情と共感により生きる、弱くて愚かしい、強かで抜け目ない獣である事を受け入れなければならない。事実として、我々クロマニヨン人よりも大きくて丈夫な体と、我々よりも大きな脳と優れた知性を持ちながらネアンデルタール人は滅びたのだ。我々が滅ぼしたのだ。群れを成した我々が。おそらくはその群れの維持に共感は大きな役割を果たしていただろう。4万年後の今と同様に。

人間は理性と理屈に従うべきだ、と主張するならそれはそれで結構な話だが、それは1人で隠遁し思索に生きる事を意味するに等しい。もし自分が社会において居場所を持ちたい、人に愛されたいと願うのであれば、愛という極めて主観的かつ非論理的なプロセスを邪魔してはいけないし、そこに論理の刃物を持ち込むのは不作法であり、そんな刃物を持ち込んでおきながら、誰かとうまくいかないと嘆くのはまさに非論理・非合理の極みである。

経済学では、効率的市場仮説というものがある。一部の人にのみ開示された情報も含め株価は全ての情報を織り込んで決定されるので、自分の得た情報から株価の騰落を予測する事は不可能であるとする説だ。人間関係における「合理的」という言葉も全く同じで、合理的な思考は自己の中で完結してよいが、「合理的な判断を誰かに伝える事」や「合理的な行動」というものは他者の感情を織り込んだ上で決定されるべきなのだ。つまり、合理的だが他人が不快に思うことを敢えてやった場合、その遺恨や反感を含めて損得勘定するとその合的な行動は結果として合理的な最適解ではないという事になる。これこそが、合理的・論理的である事にこだわると、自分自身が合理性から逸脱してしまっているその理由である。

だから私は思ったんだ。私は共感が嫌いだし、共感の害についても知っている。だが私の内面の好き嫌いを誰かから矯正される事がないように、誰かの中の共感も、あるいは誰かから私への共感もまた私によって排除されるべきではない。共感はやっぱり油断ならないけれども、それはそれとして共感を理解し、末永く仲良くうまくやっていこう、と。

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