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p135に挟んだ栞

  世界を何もかも、思い通りにする術を知っていた。
 
 幼い頃、「好きな絵や本を枕の下に入れて寝るとその中の世界に行ける」というまことしやかに囁かれる言説を信じていた。
放課後にすることといえば、本を読むことくらいで毎日図書室で借りてきた3冊を一晩で読み切っていた。自室のベッドの上で寝転がりながら読むのが常で、その日読んだ中で一番お気に入りの一冊を枕の下に押し込む。そして閉じた瞼の裏でその世界にいる自分とストーリーを空想した。

 その頃読んでいたのはファンタジーの児童書が多くて、王道の「ハリーポッター」は勿論、「獣の奏者」とか「ウォーリアーズ」に夢中だった(今でもよく読み返す)。海の向こうへ憧れが強かったので「赤毛のアン」や「小公女」「リンゴの丘のベッツィー」「オズの魔法使い」なども読んでいた。少しだけ埃っぽいあの図書室の、どの棚に置かれていたかまでまだ覚えている。

 二次創作のように世界観に己を投影したり、または複数作品からクロスオーバーするようにして世界観を作り上げたり。そうやって創造しているうちにやがて微睡が思考を覆い包む。手を引かれるようにあたたかな布団の間で眠りに落ちてゆく、その刹那がいっとう好きだった。続きが見られるかどうかは運次第だった。

 それは今思えば、祈りやまじないのような一種の防衛本能で、現実を前に半ば逃避的に空想世界へ飛んでいた。朝の日直でクラスの前で1分間スピーチをしなければならないとか、体育や歌のテストがあるとか、絶望的な困難でなくても心がざらつくようなことはいくらでも日常に転がっていた。本を読んでいる間と空想し眠りにつく間だけはそういった全てを忘れ、誰にも邪魔されなくてすんだ。

余談だが読書中は晩御飯を知らせる母の声も、風呂に入れと促す姉の声も全く聞こえなくてよく怒られていた。あれは過集中状態で幼少期からその傾向があったのだと今になって答え合わせをしたような気分でいる。
 
 他者を模倣して社会的な自分を作り上げていく一方で、私という人間は空想の中で自我を守り続けてこられたのかもしれない、と思う。
 周囲があっという間に成長し、他者の模倣すらもままならなくなった頃私は自分のことを「何もない」と嘆かずに済んだ。それはほとんど無意識に、本能的に空想世界へ逃げ込んで守り抜いた自分があったからだ。でなければきっと今のように自分の中に湧き続けるものを表現していくことは叶わなかったろう。言葉を紡いだり、スケッチブックに線を引いたり、それだけで得られる喜びも、それを誰かに伝えたいと願うこともなかったはずだ。

空想した世界で、何の柵にも囚われず育てた自我が私という人間を人間たらしめていて一本芯のように今も私を形作っている。それが偶然か必然かはさておき、とても幸運なことだなあと思う。

 自分という存在と意識に対して非常に過敏なところがありながら、幼少期から自分でも理解し得ない"何か"がずっとあった。わからないからこそ、「忘れないようにしよう」と保存してきた自身の行動や感情の記憶の意味を今取りだして分解してみている。
最近書く文章はこの類のものが多い。自分という人間がどうやってできてきたかということが見えて面白い。遅いけれど、ちゃんと大人になっているようにも感じる。




 


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