見出し画像

HSPの私がNYに住むワケ

一年前に書いたまま、放置していた記事ですが、アップする事にしました。

私は実のところ、かなり重度のHSP(Highly Sensitive Person)だと思っている。とりあえず、人間には普通に興味はあるので、人といるのは特に嫌いな方ではないけれど、12個のHSPテストでは軽く10個ぐらいの条件はクリアしてしまう。つまり、もっと質問数の多いテストで言うと、ほぼ9割以上ということだ。

ただ、どういうわけか、HSS(High Sensational Seeking)が少し入っているので、これがなかったら海外に住もうとは思わなかった可能性もある。

しかし、俗にいう最も生きにくいと言われているのがHHS型HSPで、つまり繊細で敏感なのに、どこか冒険好きで大胆という矛盾を抱えながら生きている人に多い。

私はHSS度はそれほどは高くないけれども、これによって助けられている点と、人生がさらに複雑化している部分の両面がある。

正直言って、今ほどの情報社会ではなく、世間がもっと狭かった人生初期に於いては、HSPである事によって日本ではかなり苦しい想いをする事が多かった。

HSP傾向になったのが、毒親傾向の家庭環境によって作られた部分が大きいのか、あるいは元々持っている遺伝子的性格なのかは良くわからない。

ただ、この性質が幸いしたのか災いしたのか、私には同調圧力の中で、周りが何を求めているのかが必要以上に見えてしまうような事は多かったけれど、それが本来ではなかった場合、それに合わせる事には異常な苦痛を感じる方だった。

でも基本的には、人前で無駄に目立つ事が嫌いで臆病者だった私は、いつも心の中でふて腐れながらも、多くの場合は保守傾向の強過ぎる学校社会や会社社会(バイトだけど)では、黙って目立たないようにそこに存在するしかなす術がなかった。
だから、時々そういうのに耐えられなくなって、思春期は何も言わずに学校をサボったり、学校行事をこっそり抜け出したりもしていた。(この部分はHSSかもしれない。)

日本というのは同調圧力の非常に強い国だ。聖徳太子が和をもって尊しと成すと言った起源からきている感覚が今もどこかしらに残り続けているせいもあるかもしれない。でも、その”和”っていうのは、強制されるようなものではないと私は思っている。それは、もっと自然にあるべきもののことじゃないかと思う。

要するに、自分を殺してまで相手に合わせて作り上げるのは本当の”和”ではないはずだと私は思うのだけれど、どうやら今現在までの日本という国では、多くの場面において、”和”を重んじるというのは、そういう事になってしまっているらしい。

本当の”和”っていうのは、相手との違いを認めて、お互いをリスペクトしてその上で仲良くすることなんではないかと、和尚さんのようなことを思わず言いたくなるけど、日本で普通に考えてられている”和”っていうのは、とにかくだれもが平和で穏便に、みんなで当たり障りなく過ごせるように、そういった空気にとりあえずは合わせよう、みたいな表面的な要因を多く感じるのは私だけなのだろうか。

そんな風に、みんなが同じでなくてはいけないという半ば特殊な”和”の思想から来る強調圧力は、やはり私のようなHSP傾向で神経質な人間にはある意味とても息苦しかった。

そして、その一定の価値観から生まれる他人との比較やジャッジメントが、意識無意識問わず半端なく強くなってしまったのが日本なのだという印象は、今でも感じる事は少なくない。

NYは多人種、他宗教、多民族の人々が集まる街だ。

一応公用語は英語という事になってはいるけれど、自分も含めて怪しい英語を話す人たちもいっぱいいる。でも、それでも街はそんなもんだという事で成り立ってしまっている。

渡米当初は、私も、どんな時もある程度は礼儀正しくちゃんとしているのが当たり前の日本の風習で慣らされたままの頭だったと思う。だから、他の国から来てブロークンで聞き取れないような英語を話す人たちが、偉そうな態度でこちらに何かを強要して来たりするような状況に遭遇すると、いちいち腹立たしく感じたり、また、ショックを受けたりしていた。けれども、今となってはそんな事には完全に慣れてしまってほとんどよくある話になった。

彼らには彼らなりのコミュニケーションのやり方がある。偉そうに見えても、それがある意味での親しみの表現だったり、事情があって移民として他の国に来ても、自分たちの国の誇りやプライドは失いたくはないというささやかな抵抗だったりもする。

そして、こういった習慣の違いの中で見えてきた事は、ものすごく単純な話だけれども、日本はやっぱり統一言語の島国だって事、だからこそみんなが共通認識を持つ事を無理やりにでも大事にしたがる場合が多いってことだった。

島国には島国の良いところもある。つまり、みんなが同じ方向を向いて何かをする場合には、島国の方がやりやすかったりする。民族も言語も同じなら、同じゴールに向かって協力し合う事も、ある意味他人種の国に比べてさほどはむづかしくない部分もある。いろいろな技術面での開発なども、発達させやすい部分も多いかもしれない。

でも、その協調性という概念が、望まないことに対する暗黙の了解という同調圧力に変わった場合、目に見えない抑圧が発生して全てがおかしくなる。

みんなが同じような感覚、同じ水準で何かを感じたり見たりすることが極々当たり前だと多くの人が考え始めると、個人の個性というものは著しい制限を受ける。

例えば、以前noteの記事にも書いたけれども、日本人は他人の外見的要因に対して求めるオーケーの水準が著しく高い上に、みんながそれに合わせることに必死になっているのがもはや当たり前の部分も多い。

そうやって何とか日本の厳しい水準で周りに認められる為に、日本人の美意識に合わせて頑張る姿はきっと良い事に違いないはずだ、と感じたり、信じてる人も多いかもしれないけど、世界水準で考えた場合、ある意味そんな事はどうだっていい場合も実際は少なくない。

例えば、若い日本人男性を例にとれば、ここ20年ぐらいの間に、男性の間ですら、ヒゲや体毛が少なく肌がキレイであるべきなど、本来なら男性としてはあり得ないぐらいの美容へのこだわりが発生している事には驚かされる事が多々ある。

その価値観は一体どこから来たんだろう。個人差はあるにせよ、女性に比べて体毛が少なくないのは、男性にとってはごくごく普通のことで、なぜそんな事で多くの男性がコンプレックスを感じなければいけないんだろうか。

それは男性が実際に清潔であるかどうかとも何の関係もない。

海外の都市では、そういった事にそこまでの重要要素を感じているのは、ある意味若く見える外見にものすごくこだわりが強いタイプのGayの人たちだけかもしれないとすら思う。(体毛にセクシャルな要因を感じるGayの人たちも実際には沢山いるかと思うので、その辺りは人によって誤差はあると思うけど。)

つまり、私が言いたいのは、みんなが巷に溢れている表面的な要素でのジャッジメントに踊らされすぎて、あまりにも本質を見失ったまま生きているんじゃないかな、という事だ。

多くの日本人の人たちは、いつになれば、その情報プロパガンダに気がつく時がくるんだろう。

例えばここでは、体毛があるのが遠目にもわかるぐらいに腕の毛が濃い南米系の女の子の店員さんが、脱毛を全くしないでタンクトップを着て、これが私だからとピカピカの笑顔で堂々と私たちに接客してくれたりすると、本当に素敵だなと思う。
そして、そういう女の子には必ずと言っていいぐらい、背後にはものすごく素敵な彼氏がいたりする。

あるいは、普段はオシャレでスタイリッシュなイケメン系の白人男性が、ソバカスだらけの二の腕や背中を見せて、何も気にせずに芝生の上で日に当たっていたりする姿を見たりすると、子供の頃にいっぱい外で遊び回っていたであろう表面には見えてこない無邪気さを感じて、とても微笑ましく思ったりもする。

だから、外見に関しても、数多く出回りすぎてる情報に煽られたり惑わされたりせずに、もっとその人自身の本質を見極めて受け入れるっていう事をみんなが普通に素直にできるような機会が増えれば、日本人ももっと息苦しくなく生きられる民族に変われるんじゃないかな。

そういう風な日本になる日を心のどこかで望んでいる人は、私は実は決して少なくはないように思う。

あとがき&言い訳(笑)

現在書籍を2冊同時進行で書いていて、ここ何ヶ月かnoteにはほぼ入れていないも同然の状態なので、とりあえず、なんでもいいからnoteに出してみようと思い立ち、すっかり忘れて放置になっていた過去記事を出しました。
そもそも放置になっていたことすら忘れていたぐらいです。(笑えない)

なので、しばらくは、そんなにnoteをコンスタントには書けないかもしれないけど、この書籍の続編に乞うご期待ということで。(汗)
あれ?0円キャンペーン中みたいでした。よろしければ。(大汗)
https://www.amazon.co.jp/NY式ではじめる国際恋愛のススメ-出会い編-JASMIN-ebook/dp/B08CXPP6SD/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=カタカナ&crid=MUIKXG8U5ILW&keywords=NY式ではじめる国際恋愛のススメ&qid=1659799668&s=books&sprefix=ny式ではじめる国際恋愛のススメ%2Cstripbooks%2C146&sr=1-1















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?