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愛書人、愛書店的人(本好き、本屋好き)

今朝、在港愛書家にとって残念なニュースが飛び込んできた。

專營日本書刊 28 年 SOGO旭屋書店下月底結業 (和書販売専門営業28年、旭屋書店そごう店が来月末閉店へ) ↓ 




海外に身を置いている以上、フィジカルに和書調達のオプションが減る*のは困ることなのだが、一方でこの旭屋書店があまり書店の書店たるべき役割を果たさなくなってきたのも気になっていて、最近は足が遠のいていたのも事実だ。


そもそも本の虫は、書店に入り浸るのも好き。

自分の場合、自宅も祖父宅も床が抜けるのではというほどの蔵書が溢れていて、そんな中で育ったわけで、多分自然な成り行きだろう。本を読むこともさることながら、本に囲まれること自体に絶大な安心感を憶えるのである。何というか、ここに居れば知恵のバックアップがある、という心強さや自分次第でいくらでも世界を広げていけるのだ、という(根拠なき)自信と期待と希望が混じり合ったイメージで。

ふらっと書店に立寄り、書架から書架へと背表紙を凝視しつつ立読みしつつ漂い「欲しかったら買う」行為(書籍も”ウィンドウショッピング”と呼んでいいのだろうか)。日本では、下手すると三度の飯より好きだった。

日本の外を拠点にすると、和書を求める行為自体が少々ハードル上がることで、況してや和書店巡りなどできる環境にないことは重々理解している。和書へのアクセスに関しては、既に諦めて久しい行為だ(たまにクアラルンプールやシンガポールの紀伊國屋書店に行って興奮するが)。

従来和書を求める書店巡りは帰郷時や南洋出張時のお楽しみになっていたが、この自由に国境を越えられないご時世になってから、和書はほぼ100%Amazonに頼っている。

その代わり、ウィンドウショッピング的にふわっと書店をエンジョイする行為を中文(時々英文)書籍にスイッチして久しい。

元々何事も自由だった香港では「二樓書店(所謂独立系書店。大抵雑居ビルの2階にあるのでこう呼ばれる)」文化が栄えていたが、現在ではまず件の銅鑼灣書店**という代表的でショッキングな出来事が起きたのに加え、お上が国安法なるもので公式に言論の自由を締めつけ始めたため、思想に縛られず自由に書籍を求めることそれ自体が政治と無関係ではいられなくなってしまい、そういう独立系書店の前途はかなり悲観的だ。一方で、数年前にかの「台湾」から誠品書店が進出してきて、その繁体中文カルチャーが香港の繁体中文カルチャーと融合して大いにローカルの「文青(文藝青年=中文でサブカルチャー愛好者、ヒップスターを意味する)」を牽引しているのは喜ばしい限り***

で、今日もわたしは入り浸る。

紅い手により自由の翼をばりばりと毟り取られつつある香港で、「台湾」出身の書店がサブカルをリードしていられる限りは、香港のサブカルもまだ捨てたものではない、とも思えるのだ。たとえ借り物****、ならぬ「限られた場所、限られた時間」であったとしても。



[REMARKS]

2021年9月からは、同じ香港そごう内のテナントをこれまた日系書店の崇文堂が進出して引継ぐ、とのことだがさてどういう形式で展開されるのか。

*銅鑼灣書店は元々政治的な書物ー特にPRC関係の評論を得意とする独立系書店だったが、経営者関係者が4名続々行方不明になり、後日大陸で拘束されていたと判明した事件。一国両制度のはずの香港に、大陸公安が大陸域内のみで違法とされる案件のために堂々と「香港人」の身柄を拘束することができる、ということが世間に知れ渡った事件。因みにそのうち逃げおおせた一人は現在台湾に渡り、同名の書店を再開させている。

*** 大型書店&文化発信コンプレックスである誠品書店の存在がローカルの二樓書店の経営を脅かしている、という意見もあるが、所謂「焚書坑儒」が現実のものになりつつある今では、その対極にある同じ繁体中文圏の「台湾」資本の書店がまだサブカルをリードすることが可能という事実が既に有難いとさえ感じる。何せまだ堂々香港現状を批判するセンシティヴな書籍が平積みされていたりするほどだ。

**** 原典は1970年代のジャーナリスト Richard Hughesによる「香港:借り物の場所、借り物の時間 (香港:借來的地方,借來的時間 / "Hong Kong: Borrowed Place, Borrowed Time")」。かねてより(特に西洋視点で)英国領香港を形容するキャッチフレーズのひとつとして有名。

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