『支援する・支援される』の歪な構造に気付く視点 #pride_week

多様性の話になった際、必ず出てくるのが「一部の人たちのために大勢が我慢や負担を強いられるのか」という問題です。この発言の裏には支援や配慮を『してあげている』という感覚があるのかもしれません。

多様性社会において、支援や配慮はデフォルト(標準仕様)として扱うべき事項のひとつ。

今回は、多様性社会における支援や配慮の認識について、改めて考えてみました。


多様性に含まれる『すべての人々』

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多様性社会は、障害やジェンダー、外国籍といった側面のある人々も、より良く生活できるように考えていく社会のこと。

これは同時に、マイノリティだけでなくマジョリティにとってもより良い社会を考えていくことを意味しています。多様性社会は『すべての人々』が尊重し合い、共生できる社会のことです。


支援や配慮は『してあげるもの』ではない

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社会における支援や配慮を『してあげるもの』と認識するのは誤っています。その対象は人であり、同じ社会を構成する一員だからです。

支援や配慮は、あくまでも対象となる方が『その人らしく生きるため』の工夫でしかありません。

コンビニでお箸やスプーンをもらうことは、すぐに食べられるようにするための配慮です。お箸やスプーンをつけて渡された際、あなたはコンビニから配慮されてると思っていますか。


感謝を強要するモデルマイノリティ神話

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モデルマイノリティ神話とは『マイノリティは品行方正でいなければならない』という押し付けのことです。

支援や配慮を『してあげるもの』と認識していると、対象者に感謝の強要が起こります。

●対応してあげたのに感謝はないのか
●(対応が間違っていても)やってくれたことに感謝しろ

周りの人に感謝することは大切です。しかし、日々起こる何気ないことひとつずつにに心を砕き、感謝をするのは心がすり減っていきます。

私たちがコンビニで商品を買ったときに店員さんに「ありがとうございます」と軽く会釈をするようなことはありますよね。一方で、毎回丁寧に「商品の会計のご対応をしてくださり、誠にありがとうございます。またお箸をつけてくださって重ねて御礼申し上げます」と深々と頭を下げることは考えにくいものでしょう。

感謝は大切ですが、相手に過度な感謝を求めるのはエゴともいえます。


マジョリティもマイノリティも一緒に考える

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支援や配慮は『してあげるもの』ではなく、『一緒に考えていくもの』。お互いが許容できる範囲で、生きやすい社会になるように妥協点を見つけたり、仕組みづくりを考えたりするものです。

現状、さまざまなマイノリティに関する問題は、問題自体が内包されてしまい、マジョリティが『問題があること』自体に気付きにくくなっています。

また気付かせるために声を上げても、モデルマイノリティ神話やトーポリシング(伝え方の批判による問題の否定)によって揉み消されてしまうこともあります。

同じ社会を生きている一員でもあるので、問題解決や支援・配慮の方法、仕組みづくりは一緒に考えていきたいですね。


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