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【日常】教科書のはなし

浪人時代を除いて
真面目な人間ではなかったけれども、
教科書・参考書だけは何故か好きでした。

手段としてではなく、
目的として、
物体として。

今回は「教科書」をキーワードにして、
本にまつわる色んなことを
散文的に書いていき、
最後に何か上手いこと
まとめられたら良いなと思っています。

成功する保証はないのですが…。

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○○○の教科書

・教科書との出会い(小)

私が小学生だった頃の教科書は、
新学期が始まって最初の授業で、
担任からまとめて配られていたように思う。

各科目ごとに配られるようになるのは、
教科ごとに担当教員が分かれる
中学からだった。

最前列の生徒たちの机に置かれた書籍の塊は、
後ろの席に回し渡されながら、
各自の手元に届いてゆく。

まず国語、そして算数。
理科、社会、生活、音楽…。
今の小学生は英語も
科目に入っているのだろうか。

新品特有の香りを放つ
書籍の束を両手で掴み上げ、
ずっしりした厚みを楽しんだ後、
角をとんとんと揃えて机の端に寄せる。

子供ながら、
この所作に言いようのない
喜びを感じたことを覚えている。

いきなり脱線してしまい申し訳ないけれども、当時なぜか印象に残っていたのがこの植物。トウネズミモチ。家の近くに生えていて、落ちている実を拾っては持ち帰り、母に呆れられた。花言葉は「人生」(!)

決して勉強が出来る訳ではなかった。
教科書「で」勉強をすることが
好きな訳ではなかった。

1年間、じっくり教科書に
取り組むようなことはしない。
そういう好きではない。

新品の書籍が、
塊として自身の手元に届くこと。
カテゴリーとしての物体が、
自らの所有物となること。

そこに満足を覚えるだけだった。
それがなぜか、ただ嬉しかった。


・整理と対策(中)

中学生の頃も同様だった。
際たる例がよく夏休み前に配られた
『整理と対策』シリーズ。

私にとっては
レベルの高い教材なので
後々泣きを見るのだけども、
5教科が手元に勢揃いする瞬間を、
なぜか非常に楽しみにしていた。

https://www.meijitosho.co.jp/gakusan/kyozai/matome/seitai.html

あれほど喜ばれた『整理と対策』たちは夏休み突入後、木製の30㎝定規や使用した記憶のない両面テープ、汚れた付箋、ドラえもん目覚ましと共に学習机に放り投げられ、しばし息を潜めることになる。


・参考書ソムリエのように(高・浪)

高校・浪人の頃は
参考書集めにのめり込んだ。


良さそうな参考書は
とりあえず購入し、
所有する喜びを感じ、
ひとしきり楽しんで満足する。

浪人時代は流石に
ガッツリ勉強したけれど、
高校時代はほとんど
「買って終わり」状態。

とんでもない息子である。


鈴木敏彦
さんの
『ナビゲーター世界史』シリーズ、

竹岡広信さんの
『ドラゴンイングリッシュ』シリーズ、

センター試験(当時)を対象にした
「決める!」シリーズ、

「面白いほどとれる」シリーズなど、
癖に刺さる素敵な書籍にたくさん出会えた。
まずもって装丁がよい。素晴らしい。
本棚に並べたい。

2択を5個当てる快挙によって満点を獲得した2016年度センター世界史。9割はナビゲーター世界史のおかげと言っていい。1割は豪運。


 <補足:ポカリとデカルト>

そしてやはりと言うべきか、
苦手科目についてはいつになっても
「これだ!」という本に出会えなかった。
特に数学。

優秀な浪人仲間たちは
『良問の風』や『鉄緑会』、
『プラチカ』
シリーズなどを各々愛でていたが、「物体として好き」と言うよりは
「やり込みすぎて愛着が湧いた好き」
だったように思う。

現に彼らは「参考書をたくさん買うより、
一冊を極めた方が受験は効率的だよ」と
何度も忠告してくれた。
まじでその通りである。

佐藤優氏のデカルト論によれば、
「趣味の領域」について人は
議論ができないという。

考えてみれば当たり前のことで、
例えば私の「ポカリが好きだ」という
主張に対し、「お前は間違っているし、
お前はアクエリを好きになるべきだ」
などと言われたらブチギレてしまいそうだ。
「放っとけや」である。

これはまぁ極端な例であるとしても、
世の中では案外、議論の対象と趣味
(議論の非対象)の境界が
曖昧なのかもしれない。

何はともあれ、
意思決定や判断基準において
それが当人の趣味であった場合、
その方向での他者との議論は
終了ということだ。

私にとっても
参考書を買い集めること、
その喜びは趣味のようなものであり、
「大学合格への戦略」という
議論の範囲外にあったように思う。

物理選択ではなかったので読んだことはないけども、タイトルがいい感じなので少し羨ましかった記憶あり。ちなみにポカリとアクエリを例に出したのは、先月熱を出した際に「どちらかが熱に効く」という曖昧な情報を頼りに購入し、その2択を外したため。


・『統一された概念の中で異なる色や性質を持つもの』

就職活動を経る中で
取組んだ自己分析によって、
教科書・参考書に対する
自身の偏愛の理由が
明らかになっていった。

いわゆる収集癖・コレクション欲求であり、
とりわけ「統一された概念の中で
異なる色や性質を持つもの」
への
愛着が深いことが分かった。

私は百獣戦隊ガオレンジャーに登場する
「ガオの宝珠」が好きであり、
金色のガッシュベルに登場する
「魔本」が好きであり、
遊戯王GXに登場する「宝玉獣」が好きであり、Starbucksの「ロースタリーカード」が
好きである。小3の時のクリスマス
プレゼントは色鉛筆(100色)だった。

これらはいずれも
「統一された概念の中で
異なる色や性質を持つもの」
であり、
結果論だが「好きになるべくして
好きになったものたち」と言える。

宝石が多い印象があるが、
今のところあまり関係ないと思っている。

なおこの分析は
千葉雅也氏の『勉強の哲学』にて
展開される「欲望年表」を参考にしており、
千葉さんも似たような欲望を
書いていらっしゃって安心した記憶がある。

勉強をするとはキモくなることである。キモを突き詰めた先に、キモを出し入れできる「来るべきバカ」へと生成変化していく、一風変わった目的論的世界観が大好き。いつでも引き出しからキモが飛び出してくるような人間になりたい(キモい)


 <補足:就活・事故PR>

なおこの収集癖やコレクション欲求を、
赤の他人に説明できるように
変形させたのが私の就活用の
自己PRだったのだけど、
お粗末すぎて使い物にならなかった。

この話はまたいつか
どこかで記事にしたい。


・大学、そして就職。

大学に入学してからは
関心領域が教科書から
「本全般」へと拡大し、
ひたすら読んだ。

就職してからもぺースは維持し続けており、
2017年9月3日からつけ始めた読書記録は
大学卒業時で630冊、社会人4年目の
現時点では1098冊となっている。

本は全て買うので(癖なので)、
ざっくり一冊1000円としても
100万円以上の出費である。
ぎゃあ。

読書記録のメモ帳。

書籍はそれ自体で収集癖・
コレクション欲を上手く満たしてくれるし、
本棚に配置されることで
「統一された概念の中で異なる色や
性質を持つもの」として機能する。

興味の領域が拡大された今、
対象が教科書である必要はなくなった。

それでも大学〜就職して
現在に至るまでに購入してきた書籍は、
もちろん雑誌や新書、小説などもあるけれど、
明らかに「教科書・参考書」然としたものが多い。

いまだにこういった
テーマ性のものを好むあたり、
幼少の頃からのこだわりに
何か根強いものがあるように
思えてならない。

大学に入学してから購入した世界史・日本史・倫理の本。
教科書・図鑑・入門などが多い。
入門・バイブルなども好き。そもそもお酒自体が
「統一された概念の中で異なる色や性質を持つもの」である。


・もうひとつのこだわり(考

こう振り返ってみると、
収集癖・コレクション欲だけではない
「もう一つの無意識のこだわり」
のようなものがあり、
教科書という物体への愛着は、
その「もう一つの無意識のこだわり」
によっても支えられているように感じる。

そして、まだ確証はないけれども、
それはおそらく「網羅性」「全体性」
のようなキーワードなのだろう。

その一冊の中にその分野の
すべてが揃っているという期待と
ワクワクがあること、その喜び。

『あしたから出版社』の著者であり、
ひとり出版社「夏葉社」を手がける
島田潤一郎氏も、小さい頃「ガイド」や
「図鑑」に魅せられたという。

一冊の本のなかで明かされる、ある世界の全体像。それは、抽象的なものではなく、すべてを目でたどり、読むことのできる、可視的な全体像だ。(中略)小さな世界が、すべてこのなかに詰まっている。手のひらをとおして伝わってくる、その感覚こそが、本の魅力だと思う。

同著 176頁(ちくま文庫)

教科書や参考書というものはさながら、
その分野の専門家が初学者向けに
特別に作り上げたスターターキットである。

仮にそのうち3割でも
自身に実装されたとしたら、
初めての知識が身につき
(この点は知識の「収集癖」とも言える)、
日常の事象それぞれに
名前があることを知り、
変化に気づけるようになり、
人生に奥行きが生まれる。

平たく言えば、「新しい自分」になれる。
資本主義的な意味も少しだけ含みつつ、
ざっくり人生単位としての
「向上心」のようなものが
一部あるのかも知れない。

社会人になってからは
資格所得に(逃げ)のめり込んだけれど、
それは書籍の収集癖・コレクション欲だけでなく、「網羅性」「全体性」「向上心」のようなものに支えられていた。これはおそらく間違いないと思われる。

社会人1年目の冬、迷走の末に簿記を取得。
書籍の色味が好ましかった。業務には活きず。
社会人2年目の秋、迷走の末にFPを取得。
重量感が好きだった。業務には活きず。
社会人3年目の秋、一念発起してICを受験。教科書らしい教科書で嬉しかった。社会人4年目の冬に2次試験を控える。業務に活きる予定なし。


・教科書は手段であり、しばしば目的である。

今も勉強が出来るわけではない。
知識は入れれば入れるだけ忘れていくし、
「あの時のあれだ!」と思っても
具体的な名前が出てこなかったり、
「〇〇の本にはね…」まで
出たとしても陳腐な説明しかできず、
辛酸を舐めたりする。

説明している途中で
何を話しているのか分からなくなり、
ゴニョゴニョ言いながら
「まあ難しいよね〜」と逃げたりする。
生き恥である。

自身の学習に対する
分かりやすい結果なので、
それはそれとして向き合う必要はある。
「もっとこうすればよかった」
「あの本の方が分かりやすいかったのに」
なども考えることはある。

しかし私にとって教科書は、
今も昔もおおむね趣味である。

そういった分かりやすい
アウトプットだけが目的ではないのだ。

アウトプットを目的とした
手段としての教科書は勿論あるし
(世の中の教科書のほぼ全てと言っていい)、
結果のためだけに取り組む教科書もあるだろう。
ここには議論の余地がある。

一方で書籍には、
即時的に満たしてくれる豊かさがある。

私にとってそれは
「(統一された概念の中で
異なる色や性質を持つものへの)
コレクション欲」であり、
網羅性であり、全体性であり、
向上心である。

これは小説や雑誌などの
ジャンルを問わずそうである。

その意味で、
私がこれまで手にしてきた書籍は
すべて教科書であり、
これは趣味の問題なのだ。
議論の余地はない。

片方で己の習熟度のショボさに撃沈し、
片方でただそれを手に入れ、
集め、新たな自分を想像する喜びを感じる。
教科書は手段であり、
しばしば目的である。

趣味は続く

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また更新します。

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