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言葉とニュアンス

人は自らに都合の良い解釈によって、強引に人生を肯定しようとする節がある。思い込みも「過剰」になると人生に影を落とす要因になりかねない。三島由紀夫『金閣寺』を読むにあたり、そのようなことを考えていた。

俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるのは認識だと。
三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫)273頁

何かの言葉を使うとき、どこまで「言葉通りの意味」で用いているかについて、あまり考えてこなかったとつくづく思う。

例えばここ最近、『ご縁』という言葉を頻繁に使っていることに気づいた。そしてこの言葉に対し、私は身近で生じた「因果関係に説明がつかない出来事」に対して、「無理やり物語に仕立て上げるための思考停止」のようなニュアンスを込めている場合が多いらしい。

周囲に対して簡潔に説明する(ベタなオチをつける)分には構わないが、思考停止そのものに飲み込まれてはならない。

以前何かの本で、「神の目線」で物事を考えると意味があることも、「人間の目線」で物事を考えると(人間の認識が及ばないので)意味がないという、2つの目があるというようなことを学んだ。確か前者を「スピノザ的」、後者を「アレント的」と分けていた気がする。

人は有限であり、社会は人が作る。現実に生きる社会で思考停止せず「ご縁」を使うのであれば、アレント的な意味で用いることがおそらく正しい。それで豊かな心が保たれるかはともかく。

えん【縁】
1 《〈梵〉pratyayaの訳》仏語。結果を生じる直接的な原因に対して、間接的な原因。原因を助成して結果を生じさせる条件や事情。「前世からの縁」
2 そのようになるめぐりあわせ。「一緒に仕事をするのも、何かの縁だろう」
3 関係を作るきっかけ。「同宿したのが縁で友人になる」
(デジタル大辞泉より)

「自身に都合のよい解釈で言葉を使わない」ということに関心が向いている。『尊敬』という言葉もそのうちの一つ。

自身が好んで使う『尊敬』には、「自らの上位互換であること」「自らが欲している要素を内に持つもの」といったニュアンスが多分に含まれており、関心の範疇から外れる対象に尊敬という感情が湧くことはおそらくない。乱暴な例を出すと、私は野球選手やサッカー選手を尊敬の対象とすることはないのだろう。

そん‐けい【尊敬】

[名](スル)
1 その人の人格をとうといものと認めてうやまうこと。その人の行為・業績などをすぐれたものと認めて、その人をうやまうこと。「互いに尊敬の念を抱く」「尊敬する人物」
2 文法で、聞き手や話題の主、また、その動作・状態などを高めて待遇する言い方。
(デジタル大辞泉より)

自身の上位互換のような存在を『尊敬』の対象とすることで、自身の生き様や考え方を、外部要因によって肯定したいという狙いがあるのだろうか。『尊敬』することで、他者を道具として利用している?

私は『尊敬』と言う時、「私はあなたという存在を利用して人生を好転させたいと考えていますよ」と言っているのだろうか?

ここまで書いてみて、「いや流石にそこまでじゃないな」という感情も湧いてきている。「利用して」を「励みにして」と変えれば、それだけで純粋に意味を読み取れる。「励み」を「利用」と読み替えるような言葉の利用を控えねばならない。

一方、「励み」を「利用」と捉えた上で「励みになっています」と言ってくる輩が社会に数えきれないほど存在していることも事実であろう。そのジャッジを誤ってはならない。

言葉に対し過剰な含みを持たせる危うさについて考えている。

以下、日記。

最終まで進んだ転職希望先から不採用である旨の通知が届いた。端的に悔しい。一方、選考が進むにつれて「何かが違うな」「どのように断ろうか」といった感情が存在感を強めていたのも事実であり、内心ほっとした面もあった。この悔しさは、「内定を頂いたが、総合的に考えた末、行かないことにした」という分かりやすい物語が構築出来なくなったことに対する未練なのだろうか。

お盆に入ったので、大学の頃から続けている日記を読み直す。

「文体はそのまま思想である」(佐藤優)ので、今こうやって書いているnoteの文体はそのまま自身の精神状態を反映しているのだけれど、砕けた文体に対してかなり羨ましさがある辺り、精神状態はあまり安定してないのかもしれない。

体系的な知識や専門的な能力に憧れがある。新自由主義的で、金になればなんでも良く、バズったもん勝ちのSNS社会においては、腰を据えて集中すること自体が貴重になっている。「レアなものを欲する」という意味では、上記のような欲求は世の中に吐いて捨てるほどある没個性的な感情なのだろう。

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