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読書記録③

寒い日が続きますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。体調崩さないように、心を燃やして温かく過ごしましょうね。


就職活動とコロナとでバタバタしながらあっという間に過ぎ去った2020年上半期に対し、卒論以外すること無いはずなのにあっという間に過ぎ去ろうとしている2020年下半期です。1年って早いなぁ。

最近の鬼リピート。sajiは恋敗れる男の味方である。先輩から教えてもらった井上苑子さんの「なみだ」も、非常に胸に刺さった。

精一杯の背伸びをすれば
あなたが今すぐ走り出せるなら

なみだ / 井上苑子

■はじめに


読書記録のnoteは本記事で3回目。
見て下さった方々ありがとうございます。

第1回は実用書、第2回は小説。第3回はジャンルはあまり考えずに、好きなようにご紹介していきます。選書の幅が狭いから既にジャンル分けが出来なくなった説もありますが、そういうのは言わないでください。

その前に、皆さん鬼滅みましたか?

後輩の勧めでアニメを見たのが最初で、以後完璧に鬼滅の世界に放り込まれていきました。

公開から4日過ぎた、よく晴れた日のお昼時。当の後輩と、バイトの先輩の3人で映画館へ。

泣きすぎると、手足が痺れてガクガクになるじゃないですか。そんなわけでしばらく動けませんでした。

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あと映画館で販売されているパンフレットも、めちゃめちゃ興味深く読みました。

声優の方々のお話は勿論ですが、製作スタッフの方々のこだわりとか苦労話が盛り沢山で。

手掛けた作品が世に出る喜びや、多少地味でも欠かせない役割の話など、自分が就職してからの遣り甲斐を見つける上でヒントになるものが多くて嬉しかったです。素晴らしい映画を本当にありがとうございました。

夢が一つ叶うたび 僕は君を想うだろう

(炎 / LiSA

『ニッポンの思想』:「鬼滅の刃」が与えた影響と、その「大きな物語性」

鬼滅の刃 (原作・映画含めて) がここまでの大ヒットを産んだ理由については各方面、各分野からさまざまな考察が成されています。

単行本が比較的少ないので追いつきやすいだったり、アニメもネットで視聴できるので見逃しがなかったり、多様なタイアップやグッズ展開を行っているだったり。

多分全て重要なのでしょうが、個人的には「大きな物語の共有への回帰」というキーワードが、ポイントの一つとして存在する気がしています。

というのを、『ニッポンの思想』という本を読みながら考えました。

1980年代以降の日本の思想の変遷について、時系列で解説が成されている本です。登場する思想家の方々が本当にユニークで勉強になります。

鬼滅の刃に重ねたシーンとしては、本書に登場する「昭和から平成へと移り変わるタイミング」について述べられている部分です。

それはまた、当時のひとびとが、「80年代」に巷に溢れていった数多の「小さな物語」群がもたらす「変化=差異」を、延々と「消費=流通」し続けることにもそろそろ飽きてきて(限界を感じて?)、もっと大がかりな、単数形の「変化=差異」という「物語」を求めるようになっていた、ということでもあります。 (P.169)

世界大戦や冷戦のような大分断が終わりを告げ、世の中はますますグローバル化し、世界中の人たちとネットを通して繋がれるようになりました。

住む場所も、職業も、宗教も、性別も、自分の意思で選べるようになりつつあります。「かくあるべし」から「自分がどうしたいか」へ。

ある意味周りや空気が決めていた正解と、それによる壁が薄くなり、人々はそれぞれの正解にこだわれるようになりつつあります。

良い傾向なのでしょうが、大きな分断が無くなり世の中が繋がれば繋がるほど、それぞれの正解という形での新たな「小さな分断」が生じてきます。

新聞を見ていても、グローバル化と共に自国ファーストな「分断」が生まれているというのをよく目にします。ネット内での論争などもそうでしょう。

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「テマティズム(主題論)」、聞いたことありますか?知らないことっていっぱいあるなぁと思いました。

そんな現代ですが、思うに「小さな物語」と戯れていた人々も、時には「大きな物語」を共有し、一つになりたい時がある。共通の大問題を乗り越えるために、一致団結してなにかを信じたい時がある。

「昭和から平成へ」の段階以降にも何度かあったであろう流れが、今また生じつつあるのかもしれません。

というのも、今まさに「それぞれの正解」を抱えながらも、一つにならざるを得ない状況に陥っているから。言うまでも無く新型コロナウイルスのことを指しています。

「感染抑制か経済再開か」「都市か地方か」「職場か夜の街か」

内部での分断はあれど、「一つにならなければいけない」という認識は同じ。

そのような流れの中で、消費の形も「各々の物語の消費」から「同じ物語の共有」へと移りつつある。そういった流れも少しは関係しているように思います。

鬼滅の刃のメインストーリーである「悪鬼滅殺」も、今の世の中の「大きな物語」としても非常に効果を発揮しそうですもんね。

映画の煉󠄁獄さんに影響を受けて、「自分も煉󠄁獄さんみたいに強くなって、先行き不安なこれからの将来を支える柱になるぞ」と気合いの入った人、結構いるんじゃないだろうか。

この映画を見て育った人たちがドンドン結果を残して「煉󠄁獄世代」とか呼ばれるようになったら面白いな~~とか思ってます 。

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「キャラクターへの愛情」についても「物語」の文脈で整理できるようですが、そこまで踏み込むと長くなりすぎるのでこの辺で。また後日改めて読み直したいなぁ。

『生物と無生物のあいだ』:動的平衡な在り方


今回のnoteのテーマは「影響力」ですが、実はこのテーマを思いついた際に真っ先に浮かんだのが本書、『生物と無生物のあいだ』でした。

本好きな人なら知らない人はいないかもしれませんが...やはり外せない名著なのでご紹介させてください笑。

内容は勿論のこと、個人的に特にこの本に唸らされたのは「情景描写の上手さ」でした。

著者である福岡伸一さんは学生時代をアメリカで過ごしているのですが、海外経験ゼロの自分なんかでも、その場の雰囲気をありありと感じられて興奮しました。

摩天楼が林立するマンハッタンは、ニューヨーク市のひとつの区(ボロー)であり、それ自体ひとつの島でもある。西をハドソンリバーが、東をイーストリバーが流れる。観光船サークルラインは、マンハッタンが、縦に細長い、しかし極度に稠密的な島であることを実感できる格好の乗り物だ。船は、ハドソンリバー岸を出発点とし南下、自由の女神像を眺望しつつ、かつて世界貿易センタービルが聳え立っていたマンハッタン南端を回って、イーストリバーに入りこれを北に遡行する。

(P.13)

イーストリバーはハドソンリバーの放水路であり、マンハッタン島北端で二つの河川は交わる。ここで船はイーストリバーからハドソンリバーへと戻る。河口に近いハドソンリバーはまさに海のように広大だ。視界が急に開ける。一気に風が大河の川面を吹きあがってくる。

(P.14)

個人的に川が大好きなので川のシーンだけ引用しましたが、街並みや建物内部の様子なども鮮明で分かりやすい表現がなされています。読んでて嬉しくなります(笑)

言葉で情景を想像させられるってすごいな。あ、もちろん写真や絵などで表現される風景も好きですよ。

せっかくなので好きな風景写真集も。

本書によって読者に最も伝えたいことは、おそらく「動的平衡」で間違いないでしょう。動的平衡は、「生命とは何か」について、これまでの分子生物学的な説明とは異なる形で説明する際にカギとなる言葉です。これはどういうことか。

本書ではプロローグにて、以下のような主張をしています。

何かを定義するとき、属性を挙げて対象を記述することは比較的たやすい。しかし、対象の本質を明示的に記述することはまったくたやすいことではない。

(P.3-4)

生命とは何か?これを上記にある「属性を挙げて対象を記述する」方法で行うことが、今日の分子生物的な説明の仕方です。「呼吸をする」「代謝を行う」「細胞から出来ている」などなど。

さながらプラモデルのように、要素たちを組み合わせて出来たものが「はい、これが生命です」というような説明になる。

そしてそのような要素の寄せ集め的なものが生物であるなら、ある一部分だけを取り除く実験 (ノックアウト技術) によって、「どの要素が何の役割を果たしているのか説明できる」ようになるはずです。

これで研究も化学も進んでいくぞ~~、ところが。

遺伝子ノックアウト技術によって、パーツを一種類、ピースをひとつ、完全に取り除いても、何らかの方法でその欠落が埋められ、バックアップが働き、全体が組みあがってみると何ら機能不全がない。生命というあり方には、パーツが張り合わさって作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。ここには何か別のダイナミズムが存在している。私たちがこの世界を見て、そこに生物と無生物を識別できるのは、そのダイナミズムを体得しているからではないだろうか。

(P.7)

プラモデルのような要素の詰め合わせという理論では説明できない何かが起こっている。そしてその「何か」を説明するのが、「動的平衡」であると本書は説明します。

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「縁の下の力持ち」って、英語で「an unsung hero (歌われることなきヒーロー) 」って言うらしい。ドラマ「アンサング・シンデレラ」も、医者に比べてクローズアップされにくい病院薬剤師の奮闘劇でしたね。こういう知識が繋がっていく瞬間が楽しいのです。

「動的平衡」を説明する非常に分かりやすい比喩として、海岸沿いの波が用いられます。波が到達した先には、波によって押し上げられた砂粒が城のような山を作っている。砂粒は波によってさらわれてゆき、また波によって押し上げられる。

例外的な大波が多少来るとしても、波が収まると再び同じような山が出来あがる。そのようにして砂の山は、数日後もおそらく同じような形をしてそこに存在しているでしょう。

しかし、一見同じような形をした山の中に、同じ砂粒はひとつとして存在していない。

このことをそのまま肉体の話として考えると、福岡先生が提唱する「生物とは何か」について、一つ腑に落ちることができます。

よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない

(P.162-163)

生命は、その内部に張り巡らされたかたちの相補性によって支えられており、その相補性によって、絶え間のない流れの中で動的な平衡状態を保ちえているのである。

(P.178)

生命とはつまり、その形を維持するために常に作られ、そして常に破壊される流れそのもの。そのような「流れによって生み出される、生命という平衡状態」こそが、本書の言う「動的平衡状態」なのです。

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このコーヒーも、動的平衡の中で、かつ体内のあらゆるものに影響を及ぼし、かつ及ぼされながら、自分を作ってくれている...(?)

ものすごく簡単に言うと「影響を及ぼしつつ、かつ及ぼされながら在る」ことですかね。何かの要素が仮にノックアウトされても、動的平衡の中で支え合いながら肉体を維持している。これは人間関係についても大切なことを教えられている気がします。

絶賛読み進め中のこちらも面白いです!


良くも悪くも、人間誰しも周りにいる人に影響を受けています。自分は誰かに良い影響を与えられているのだろうか。悪影響を及ぼしていないだろうか。

どうせなら良い影響を及ぼせる人間になりたいし、そう思って努力はするものの、どうしても「だって迷惑かけたくないじゃん」というマイナスチックな理由になりがち。何にしても「追われる目標」より「追う目標」が良いはずなので、そこはちゃんと拘っていかないとなぁと思う今日この頃です。

『愛するということ』:能動的に、主体的に。与え、与えられる関係性


影響を受けるだけでなく、影響を与えることが出来る人になりたい。能動的かつ、主体的に。

そしてまた、影響という所に「愛」という言葉を当てはめても、おそらく差し支えなく意味が通ります。

「主体的」かつ「能動的」に「愛する」ということ。エーリッヒフロム氏の著書、『愛するということ』にはまさにその重要性を説いた一冊であると感じました。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。

(P.190)

もし愛するということが、誰にたいしても愛情豊かな態度をとることを意味するとしたら、また、愛が性格的特徴だとしたら、当然ながら、家族や友人との関係にだけでなく、仕事を通じて接触するような人たちとの関係にも、愛があるはずだ。身内にたいする愛と、赤の他人にたいする愛とのあいだにも、「分業」はありえない。それどころか、赤の他人を愛することができなければ、身内を愛することはできない

(P.192)

最初に出版されたのが1991年とのことですが、今なお語り継がれる伝説的名著です。弘中綾香さんも本書を強く推薦していました。


およそ全ての読書に言えることですが、本を読んだからといって、次の瞬間から「俺は愛を知ったぞ」なんて、んな訳ありません。きちんと咀嚼して、自分なりに考えて、行動に繋がってやっと第1歩。

そして能動的になるということは、その分、失敗することもあります。報われないこともあるわけです。これまで意識せず来たのだから当然。

それでもなお「主体的に」成すべきことを成せるか。「嫌われる勇気」にも同様の文章がありましたが、「誰かがやるんじゃなく、お前がやるんだ」という強い気持ちで向かい合うことが大切なんですね。

本書の中には、「分かるけどそれは理想論じゃないか?」というような部分もありました。本書の「訳者あとがき」にも、「この三十年間に状況はますます愛にとって不利になった」とあります。

誰彼構わず平等に関わることは出来ないかもしれないし、他人の愛のない言動で、理不尽に傷つくこともあるかもしれない。けれども、大事な人と共に生きる環境を変えていくことが出来るかもしれないし、その起点になるべきは自分だ。

愛することも、影響を与えることも、まずは「能動的」に、「主体的」に。

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何か思う所があるのか、こやつ必死に線を引きまくっているな...。

🏁ひとりごと(※読み飛ばし推奨)

自分では愛せていたつもりでも、その実「不安の裏返し」でしかなかったり、「嫌われたくないが先行」してしまったりと、反省の連続です。語弊があるかもしれませんが、「人は自分の思い通りにはならない」ということに心のど真ん中でちゃんと向き合って、都度都度、自分に出来る精一杯で、想いを乗せていくしかないです。

『どうすれば愛しあえるの』:感情の劣化を防ぎ、心の声に耳を傾ける


「愛」関連でこの本も是非ご紹介させてください。宮台真司さんと二村ヒトシさんの共著、『どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント 』です。

社会学者とアダルトビデオ監督の対談本というぶっ飛んだ組み合わせの本ですが、内容は真剣そのもの。

宮台節は首根っこ引っ掴まれて揺さ振りかけられるような気持ちになりますが、読み終わったあと「頑張ろう」と思える素敵な1冊です。

95年秋から「アダルトチルドレン(AC)」という言葉がはやります。親の前で「良い子」を演じ続けた結果、無条件の承認経験が乏しく、自己と世界への基礎的信頼を獲得しないで育ち、大人になっても承認を求めて右往左往する存在のこと。普通の大人なら必要としない承認をかき集めようとして、他者を思いやる気持ちもないくせに他者から褒めてもらたがる、自己中心的存在。思春期課題を達成できないまま、永久に課題を引きずる「中二病」患者。要は「浅ましく、さもしい存在」ということです。「普通の」大人なら必要としないと言いましたが、昨今はそうした「浅ましく、さもしい存在」はむしろ普通です。

(P.28)

現代の若い人たちの大半は、自分の心の穴を埋めるために相手の存在を使って、それを恋愛と呼んでいるに過ぎません。そんな恋愛もどきをしていると、必ず「しっぺがえし」をくらいます。なぜなら「心の穴を埋める」というのは、自分が自分を受容していないのをごまかして、その苦しみを相手のせいにすることだからです。

(P.109)

上記はそれぞれ「愛されているという承認が欲しいので愛する」「自分のことを好きになれないので、相手を使ってその辛さから目を背けている」ということについて、その本末転倒性をボコボコに叩いている一文です。

原因を過去に求めるのではなく、痛みは伴うかもしれないけれど、無根拠に懸ける。その積み重ねが「主体的愛」を育てていく。その努力をせず人から貰うことばかり考えてんじゃねぇ、という激励ですね。

性愛に限らず、何事においてもコミュニケーションの共通前提をハミ出すような過剰なこだわりはイタイと思われるので、枠内で戯れるようになりました。オタクも、ジャンルやキャラクターにこだわり過ぎるとイタイから、場と相手を選んで振る舞うようになりました。そのぶん場の雰囲気に応じて役割やキャラを演じて、座を和ませたり盛り上げたりすることは、上手になりました。反比例的に、性的劣化が進みました。それがここ20年で顕著になった現象です。性的退却と、表層的コミュニケーションの上達は、皮肉にも表裏一体なのですね。

(P.98)

「場の雰囲気に応じて役割やキャラを演じ」、「過剰を回避」して成すべきを成すのは、『勉強の哲学』で言う所の「来たるべきバカ」と一致します。

来たるべきバカの場合は、そこに専門的な知識である小賢しさ、言ってしまえば「武器」が絡んでくるのですが、あえて同じくくりにします。

場に応じて演じられるスキルというのは円滑な人間関係やビジネスの世界では効果的かもしれないけれど、「計算や計画」の世界から遠く離れる、想定外で深い「性愛というフィールド」においては無意味。

それどころか、むしろそこに承認欲求的な意味での「正解」を求め始めるかもしれず、そのようなやり取りで愛などと言えるはずがない。なるほど。

けど確かに、過剰になってイタく思われるのはきつい。それも分かるんですよね。難しい現代のコミュニケーション。しばらく痛いのは続きそうですね。

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対談本は途中でやめちゃうことが多かった僕ですが、この本は本当にあっという間でした。

これも面白いです。ただ前半バリむずかしい、勉強しよ。

おわりに・『MUSICA 2020/7』&『ROCKIN'ON JAPAN 2019/5』:Mrs.GREEN APPLEのバンド感


最後の章となりました。今回は「影響力」について色んな方向からお話してきましたが、テーマを決めて書くとやっぱり気合も入るし、「何とか繋げなきゃ」と頭が回り始めるので良いですね。

ということで、大好きな音楽雑誌を2冊ご紹介して終えることにします。絶賛活動休止中(2020年11月8日現在)である人気バンド、Mrs.GREEN APPLEの取材記事です。

まず、9枚目のシングルとしてリリースした「ロマンチシズム」についての取材記事を。

考えて生きていくほうが楽なんです。しんどいけど、考えないほうが辛い。だってそうしないと、本当の温かい部分を見逃しちゃうかもしれないから。それってすごくもったいないことだと思うんですよね。みんながみんないい人じゃないし、そういう中で『ああ、いい人だな』って思える瞬間ってすごく報われる瞬間じゃないですか。そのあとに裏切られたとしても、とっても尊い気持ちだと思うし。そういうのをモチベーションにして生きていきたいなって思う

(P.199)

「能動的愛」と繋がってくる内容ですね。世知辛く、確かに報われにくい時代だけれども、その時代性は「自分から愛すること」を放棄する理由にはならない。

主体的に、能動的に。その中でふと感じられる優しさが嬉しいんだ、という話です。自分もそうありたいな。

日々ヒビが入りハートが砕けて
勇気も自信も亡くすけど
挫けながらも強く生きて行ける
大人になるための毎日です。

ロマンチシズム / Mrs.GREEN APPLE


最後は何とも締めくくりにふさわしい、「与え、与えられる」ものとしての影響力を、「次に繋いでいく」ものとして昇華している文章です。

これはバンドの歩みを歌っているものでもあるし、悠久の時の流れの中で連なっていく生命というもの、つまり私達は必ずいつか終わりを迎えるけれど、でもただ消えるだけではない、そこから次に繋がっていくものがあるということも歌われているような曲で。永遠なんてない、すべてはいつか失われるんだという出発点から始まったミセスが手にしたひとつの答えのような歌だなと思うんですけど。

(P.85)

こちらはMrs.GREEN APPLEの5周年記念アルバム「5」の最後に収録されている楽曲「Theater」について、取材担当の有泉さんが述べた印象についての一文です

人の肉体は無くなっていくけれど、想いや願いは、繋がっていく。本noteの最初に取り上げた「鬼滅の刃」にも繋がってくる内容です。

いつかはみんなお爺ちゃんお婆ちゃんです
何かしら次に繋いで手を取り合う
いつか近い将来で 人は温もりと共に歌うんだ
今も誰かがあなたを待ってるんだ

Theater / Mrs.GREEN APPLE

今回は以上になります。色々と思うところのあるテーマだったので、つい長くなってしまいました。見てくださった方、本当にありがとうございます。

次でこのシリーズは最後かな?最後まで駆け抜けていきたいところです。


それでは。

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