見出し画像

評価されないことの重要性

何処かの私へ

お前は今どこにいる
ともするなら
風や石、あるいは過去の時となり
もしやあるいは血となって
何かを伝えているのやもしれぬ
お前は今どこにある…

以降したためる文は『確実なる私』へ宛てた文であり
私が同一である事の証明とするものである。
恐らくこの真言は、
世界から価値を見出されることは無いだろう。
故に真である事を踏まえ
好き勝手に自己主張を当てていく。
大いに同一性を痛感し、尚、先へ行く事を…。

不思議な事に、
過度な言葉や思考、帰結を前提とした時
その対象が不特定の誰かとなる時
言葉達が意見や思いに晒されるのが
やはり心苦しくもある。
その対象をいずれかの私に当てた時
その呪縛から解き放たれると言うのは
何とも不思議なものだ。



序文

神は人によって作られた
人のために造られた
人が人を尊ぶ為

そして
人は神に愛されなければならなかった
全ては人類が
人類としての奇跡を
その手中に治めんが為
思考はもはや必要ではなかった、
神に愛されるという安息
その事実だけが
その命を唯一
肯定する力だった
故に
我々人類にはその先が
もう見えなくなってしまっていたのだ。

前提〜birakocha


神、その先の名

我々には認識する事さえ忘れてしまっていた神がいる
絶大的な力を持ち、強固な束縛を齎し、
全ての瞬間に全ての始まりを作る、
最大の謎にして、神よりも
その全貌への理解を困難とさせるもの、
正にこれまで捕捉的に理解されていたであろう
神の概念よりも明らかに異質であり、
全くの圧倒的理解不能なその全貌と
その存在の信頼性、それが意識である。

私たち人間はその意識のシステムを持っている、
これは意識が神であるという直接的な話では無い。

通常神と言えばその全容は理解に困難さを残さず敬意を持って認識する事ができる。
神を信仰しないものでさえ、神とは?と問われれば、その答えを持つ事ができる。
神という存在は既に人により明確に定義されている。
たとえ、正しさを捨て置いても確実に定義されている。

その神への理解度と意識への理解度、
果たしてどちらが、より神秘的でより絶対的に
その存在を主張する力があるか、
言わずもがな意識である。

恐らく誰しもが、意識の説明の方にその困難さを感じるはずだ、
脳神経がどうたらとか言ってでも話をまとめようとする奴は、もはやこの手の次元の話をするに論外である。
これは思考精度の話であり、答を力によってつくる場では既にない。

無論意識=神ではないが、明らかに時間的経緯の中で神よりも先に想起が生じていた事は言うまでもない。
意識無くしては神すら認識は不可能であり、
神を存在させる事も不可能である。
これは明らかに人間が神という存在を定義し、
その神への先入観がそのまま神という全貌をかたどっているのだと考える事ができる。
神よりも得体の知れない意識を捨て置いて理解可能な神という存在が絶対的だなどと、そう感じるのは正に愚の骨頂だと私は感じてしまっている。

明らかに我々は神の認識を誤っている、
神と定義されるものの先に得体の知れない全貌を隠しもったそれは、その片鱗として人に流れ込んできている、
それがそもそも意識だと私は言いたい。

つまり意識とは、神そのものではなく、
得体の知れない神から流れて来たものであり、
長らくその先の名は呼ばれることすら無かった、
神以前、意識以前、そこに存在する神がある。
そしてその先に真理がある。
我々が用い、名を当てている世界は限られた世界である。
意識は根源的な神から流れ
あらゆる想起するものが、その得体の知れない神由来であるが故に、我々はその説明が出来ないのである。
これは事実である、
そしてその想起を一つ一つ捕捉する場が意識であり、
本来思考とはその想起をひとつひとつ紐解く行為である。
思考なくして物事の評価はなされない、
故にその思考精度を深淵まで沈めることでしか、
本来の神を引き摺り出す事は出来ない、
捉えようも無い神への道筋を放棄し、
充てがわれた神が深淵を語ることはない、
記憶は眠っている、日常の中で遭遇するあらゆるインスピレーション、些細なる想起、これらを真剣に見つめる事でしか深淵のそばにある神を思いだす事は不可能だと私は理解している。

❶現視覚と❷失系視覚

突風が吹いていた、断崖絶壁の一枚岩、
そこには3人の家族がかがんでいた。
見るように促された、
眼下に広がる圧倒的な自然という光景、

外視覚を扱かう私が見るその光景は
感動と恐怖と不安にも駆られていた。
現視覚とは自己の情動が見る世界である。

もう1人つの視覚が見たその景色
私には感動もなく、自然が持つ『感』のなだれ込みが只々起きていた。
失系の視覚は形を失う、幕然的な目という概念になり、目と感の境が曖昧化する。
それを感じるだけの存在として、『私』があった。

例えば逆探知、
感動が不純物であったとする。
現社会はあらゆる物事が評価に下る時代
評価を裏打ちするものの1つにやはり感動がある
特にどの時点で感動が産まれるかだが、
それは想定と結果の間に違いや、落差がある時
動くのは明らかに自己内部の情動である。
これは感(観)の変換である、
感動を誘発させるための手段として用いられるサプライズ的な事もそうだが、想定と結果の差異が、感動としての価値を創造するというのが何処か解せない。
この話の流れで脳裏に浮かんだ
『戦争と平和』 『芸術』


 コト:事象A~間(性質:溝、気質:価値)~コト:事象B

❶~溝から見る眼:2項の間~主観的認知→価値=個が発するベクトル

例えば、戦争と平和は1つのつながりの中で成り立つ
それを可能にしているのは明らかに経済というシステムの中にある貨幣の力。
というよりかはコトとコトの間に貨幣が組み込まれている経済環境下ではそれが可能だったという言い方が正しいのかもしれない。
一見離反する戦争と平和という状態が貨幣を介して影響力を伴ない、丸ごと社会システムの中に収まりきってしまっている。
単純に表現するなら、現状では戦争は金になる。
強者が確実に影響力と正当性を担保するのに重要な力となっているという事だ。
そしてそれは同時に、反戦的プロバガンダですら
同一の強者が生み出す重要な、資本源の一つとなる。
戦争を起こし、戦争を否定し、ふたつの力は同じところに帰り、双方から利益を産み出すのが今の世界。

結局何が言いたいのかとよく問われる、結局皆まで言ってもだが、それは『離反の溝の産みしもの』である。
その物こそが価値であり、更に詳しく表現するなら個人に内在する評価的視野であるが、実はこれは既に外部からの評価の影響を受けた視野である。
言い直すなら
力を持つ評価的概念の影響が施された錯覚的自発性の視野、ややこしいがこれであってる。
*此処では力とは無関係に起こる単なる『写り込み』は除外する。

離反のみならず、異なる物事の間には、あらゆる価値が定められている、つまりは世界には夥しい物事とその間に特有の自己から出る認知が散りばめられている訳だ。

コトとコトの間に価値があるのは理解が容易だとして
問題は間の価値をコト化させる事も、
コトを価値化させて仕舞う事も可能である。
これに関しては哲学に置き換えれば分かりやすいが、
本来哲学とは『コトとコトの間』であるべきであるはずであるが、個人の扱かう哲学がコト化されているか、価値化されているかは完全に固体に委ねられている状態であって、普遍的に哲学が存在する事はない。
(カチカチ、コトコト…)
そしてその価値を評価という認識を持って認識している事自体に私は???という感覚しかないが以降の項にて。
つまりは溝とはコトとコトの境目である。
そこに落ちた主観というベクトルが幻想的価値を視認することから起き、あらゆる無機物的な空間内にあらゆる自発性の情動の装飾を施しあっている。
その非重分布の落差は世界に影響しうるち力を
自然と人に判断させ、また、価値を見出させた。
人が認識出来るような次元には普遍的かつ絶対的な価値などはなく、感動であろうが何だろうがあらゆる情動は少なからず何らかのプロパガンダ的影響下に晒され続ける
事も免れえぬ、事実なのであろう。
が、故にあらゆる心が見る世界もまた
蓄積に与えられた些細なる『ヨロコビ』の一つとなり得る事もまた事実なのだと考える。
『ヨロコビ』とは負の心も感情も含む。

❶〜溝を見る眼:2項の間~客観的認知→評価=降り掛かるベクトル

絵画や書物の本質が紙とインクを超えることはない。
何らかの芸術作品を目の前にして、
それそのものの価値はおそらくと言っていいが全く無い
それはただの石であり、紙であり、色合いで有り、濃淡である。

自己が探究し、表出させ、具現化させた姿がそれで有り、オリジナルは内部にしかなく、産まれたのは陽炎である。
故に他者がその真の意味を理解することは概ね無いが故にそのものの真の価値は他者により見出されることは無い。
ここまで全世界から芸術が評価され、
その価値を批評され、熱望されるという事は正直いって
多少無理やりがありすぎる。
本当の意味での芸術的作品の価値は、
制作者本人の中にあり、
それほどの繊細で緻密な思考や感情や感覚を一般におよぶまでの大多数が所有しているなんて事はまず無い。
そもそも芸術における共感性は創造精度が上るとより困難になる、社会に於ける集団的認知が到達する事で初めて受け入れられる事が可能となる。

とある芸術家がいたとする。
彼が制作段階において、たいした評価を得られない常態の作品の経緯を辿るとする。
作品は完成していない、
にも関わらず、必ず人はその時点で評価をする、
その作品の今後に何があるかわからないにも関わらずだ、
勿論これは全てに対し言えることではない、
その後という意味で期待値を委ねられる作者と言う者もいるがその傾向は得てして既に何らかの称賛を勝ち取っている人に隔たる。

現代人が要求する感動的なサプライズ、
そういった意味で、その作品の完成後に何らかの細工が施され、作品の完成になんらかの変化があったとした場合。
その事自体が感動を呼ぶなんてことはよくあるが、それはその変化に対してであって、本来の作品にでは無い。
前者と後者のつながりに価値があるだけなのだ。
そして、それらの評価ですら、
既に何らかの影響力を持つものが行使し得る力で有り
その対照はやはり運用可能な価値に限られる。
又、過剰な賞賛が自己の何かを覆い隠すための材料としても、その価値は与えられてきた。
過剰な見方にも見えるかもしれないが、
人の心の中には必ずこれが起き、それが力を持つ事で歴史という動力となって来たのは確かだった。

つまりは、人が何かを行使する時、常に何らかの価値を背負い、それが強ければそれらの力はプロパガンダとしてより強力に働き、事実すらねじ曲げるほどの力を見せ付ける。
事実を捻じ曲げたとしてでも情動への働きかけの可能性と価値ある大義名分さえ揃うなら、現状では世界への影響力を再現なく上げていく事が可能となっている。
おそらくこれを打ち滅ぼす事が可能な力があるとしたら、やはりそれは個人レベルで起こりうる純然たる評価の集合
というものだろう。

では、純然たる評価はこの世界でどの程度生存出来るのだろうか。
これに関しても後で記す事にはなるがやはり、生きやすさと逝きやすさの間に貨幣的な切売を感じる。

先程作品には本質的には何の価値もないと言った。
それを生み出す、作者自体のそれまでの全ての経緯が本来的には最も重要なエネルギーを秘めているものだが、その全ての経緯を理解した上で評価されるなどは
かなり昔から、殆どこの世界には起きて来なかった。
だからこそ死して評価されてきた、芸術や科学の存在という事実が残る。
コレは単にそれぞれが発展したからという起因で起きるような、生半可な事ではなかった、
文化的に認知されていた視座の未熟さを事実や、情熱が指摘したに過ぎず、結局その圧倒的な存在感の持つ力への屈服だったわけだ。
それほどに前衛的な彼らの抱く価値と言う目は、
降りかかるあらゆる眼を置き去りにして、
逝ってしまったのだろう。

これら全てを取り巻く、全貌を認識するに当たり
果たして、我々の持つ知覚はその情報への対処を行えるのかと言う疑問が残るわけだ。

私は可能だと考えている、
確かに私の脳も人という種属のそれであるが、
私は完全に、人間至上主義者だ。
しかしコレは現実的には完全にその退路を立たれていると言う事も認識している。
しかし、人という尊厳を何者にも譲るつもりはさらさら無い、それが神であってもだ。
私の寄与の向かう先は真理にしかない
いや、正確にはもう真理しか残されていなかった。
それ程に神をも含め、あらゆる高い次元の存在の全てが
もどかしくてならなかったからだ。

故に私は私が与えられた存在への信頼性を砦とし
闘争を余儀なくされたのだろうと思う。
だからこそ所詮3次元への認知しか持たぬこの認識であろうと、それでも尚起こるであろう、平等たるなだれ込みを武器に純粋に思考を続けられるのだろうと。

❷失系視覚〜事象と認知の座標

中心Oが作る球状の空間がある
外縁に行く毎に時間と概念の数と濃さが増え、
普遍性は失われていく
座標は性質を示し密度により空間は伸縮する
球を球たらしめるかは全認識の存在比に委ねられる
離反の最大値はOを通る対極地点。
違いはOを通らない空間内部の二項を指す。
違いと離反は直線の長さと比例関係にある。

離反の条件↓
離反の最大値:事象AとBが球の外縁に等しく AO=BO
この最大値は、Oからすでに発散され存在しているが
人類にこの認知は起きていない。
*直線ABの中心がOの近辺を通過する事象に関しては
類似的離反が起きるが、錯覚も起こしやすい。
(例:善と悪は一見最大の離反かに見えるが、物事の捉え方により変化する善悪が存在する以上、その境目は中心Oと重ならない、善悪という事象の存在は球内面においてある程度遊びがある、遊離的な事柄となる)

違いの条件↓
空間内部のあらゆる2点
*『違い』には種類があり、
比較的近い距離にあるものを類と印象し、
距離が遠くになるにつれ『違う』に変換される。

これを用いることで浮かび上がる特徴があるので、これをベースに上げていく

①価値とは、2点を結ぶ直線上のどの位置に自己が存在するかで変わる。
*必ずしも価値は中間に設定されているわけではなく、
固体によりどちらかの事象に偏り、見え方が変わる。

②現状における評価とは現視覚に当たり、異る地点に対し、自己から社会へと段階的に変化し、視座が上がると失系視覚の濃度が強くなる。
*失系とつけた理由はこの変化に伴い眼の輪郭、視野の境界、自己の情動などの形質が失われるからだ。

③あらゆる地点は転移しうる
(自分側の地点が変化するパターン、相手側の地点が変化するパターンがあり、動的変化に伴いそれにより気づきや驚きがある)
コト化する価値(本質を失い、手段が目的となる場合に起きる、この流れは以下の『価値化するコト』に流れる危険性がある)
価値化するコト(コトの本質は捻じ曲げられ、自己内在から見えるものが全てとなり、極論の極みまで行くと蹂躙する喜びすら覚える、最早価値と感情は同化を始める、内在的なコトの引きこみとも言える)
価値から見た評価(現視覚からの働き、普遍性は薄く、社会的ステータスにより物事を示唆していき、多く分布しプロパガンダとなりやすい、貨幣や唯物論など離反の溝の産みしものと逝って良い)
コトから見える評価(相互評価と価値の喪失、溝の遊具化~堕ちる遊びの実践~、実象による写り込みや雪崩れ込みが原因とされるが、コト自体から誘われる、同化する、それにより形質剥離が起きる)

④あらゆる自己はあらゆる事象地点、線上、線上の中心、に局在する傾向を持つ。(理解は示しても寄り添うことが可能な理由はそういう傾向からかと推察される。
いわば生まれた時既に溝に堕ちているといっていい)

つまりは価値とはそもそも自己のいる場所の自認であり、正統化である
自己という存在は自覚的であればある程、あらゆる評価的視界に呪われる。
自己から見た事象は錯覚的であり、評価的視界に呪われている為、事象が転移しうる事を忘れる。
また、転移した事象事態も評価的視界に呪われている為、それが線上の最果ての事象であると錯覚する。
つまりは、転移前、転移後においても、その線上が実はどこまで続いているかは、認識上見えづらい事になる。
結局のところ、転移とは多くの場合、産まれて既に堕ちていた。自己内部の溝への潜在的な暗黙の了解と更なる穴掘り現象であらゆる事を自己の溝に落とし込もうとするばかりである。
何故こうも自己の溝が離れないのかは
自己の眼をどこに置いているかでもある。
例えば鉄パイプが有る。
そのパイプは、中を除けば先が確実に見えるわけだが、
その先には投影されたものしか見えない、
これではパイプの距離もわからない。
パイプを覗かず横からみると、パイプの長さも、投影されている物の先も、理解し易い。
距離は自然と長さと言い換えられた、
距離とは明らかに自己からの眼のベクトルを指すからだ
自己の眼はあっていい、だが、それを見ているもう一つの自己の目もあっていいのだ。
重要な事項故にもう一度言うが
眼もあっていいが、目もあっていいと。

結論を言うなら、自己の位置は変えなくてもいいが、
夥しい量の眼が存在するという事を当然の空間として認識する事だ、
この空間の特長は我々の慣れ親しんだ空間に既にあるはずだ、
それは増大したエントロピー、大気で激しく飛び交う粒子達は差して集まるなんて事はサラサラない、
せいぜい絶対零度に近づいた時くらいなものだ、
それは、深淵に近づくときに総じて起きる
全ての事象、全ての価値、全ての評価、全ての転移、全ての視野に対し、自己がOと同化した場合において、
全てに対する、本質的な評価は可能となる。
 
そして、その評価の本質は無論、神ですらだ。

球という構造について

最早ここから先はいつもの余談だが
基本現状この球は歪な形をしている
理由はそもそも球にとどめておく為には、全方向へのバランスが完全に均衡がとれた状態でなければならない為だ。
コレが今は完全に隔たっている為、歪な形をしている訳だ。
地点Oは外縁と繋がっている。
外縁は最大限拡大し、完全な球となると恐らく消滅するが、これは全てが地点Oになる特徴を持つ為だ。
最期的な楽園が如何な世界かは正直まだ定かでは無いが、何かが起こる前触れとしての世界である事は間違いない様にも思う、今、物質と非物質は分離的だが、
恐らく、現在ある物質化された認知を牛耳るすべては本来非物質の持つ特徴の現れかに思う、
我々の認知は非物質の中にある物質的な特徴を見ているのだと思う。
そう痛感する理由は、やはり死という観念である。
明らかにこれは生という連続性に紛れた死では無いかに思う。
それ程に生があまりにも瞬間的だからこそそう感じざるを得ない、何百億と言う年月の中に私に与えられた瞬間が、数十年しか無いこの無力感はやはり生への絶対的信頼を失わせてしまった事は間違いない
様だ。
言うなれば永遠に続く、無の中に生まれた断続的生が、その境目に死を見せているかの様にも感じる事で、始めてまともに生に向き合う事ができたというのが何よりもの証拠である。
球の外枠の消滅、これが起きるとしたらひとつである、
空間内部のカオスに於けるアトラクターが無限の視座という概念を所有した時点で本質的なトーラスの流れを組んでしまうからだ。
少し説明する、
カオス理論のアトラクターは、発散的な可能性の収束地点であり、一つのコトからの発散的な可能性が無限に近い可能性のいくつかを回収していく。
コトが完全に認知によりその生態系を取り戻した時、おそらく万物は完全なる循環と調和を果たすだろう。
このつくりは、同属の形のrRNAを組み合わせ生成されるリボゾームの様でもある、これは、更にもう一つのユニットを重ねることで、アミノ酸をペプチドに読み換えていく訳だが、
無数のアトラクターがトーラスを形成さ、新たなる読み込みを起こす事と似ている。
宗教的な言い方をするならその時に再び『その先の名』
の記憶が呼び戻される
と言った感じであり、
読込みの類似性に少し寒気が走った。
それはやはり忘れられた神で有り、
そもそも神の概念を持たない動物が所有する死後の概念であると言われる楽園と同一の世界である事はあながち無いとも言い切れないだろう。
『真理内部に形成されて行く世界』でも書きかけている事だが、そもそも世界は区切ることで量産されてきた。その仕切を還元させる事ができるなら、最終的な区切りとして存在している鏡ガラスも消滅してしまうだろう。
一見球は発散的な構造に見えていた。
が、その実発散的な事は何も起きていない。
3次元という概念を超える構造はすでに組織されている
というかそもそも組織されていた。
内部に形成される創造的世界を裏返したのが、
ここで言う球という表現である。
特筆すべき特徴はやはり実際にはこの発散的慣れ親しんだ世界が、認知の経緯により仕切りという壁を形成させていったものでしか無く、私達は視認することで物質化に成功した眼を持つのだろうという事だ。
物質化に成功したと言う以上、やはりものはなく、
かといって本来的な非物質的世界にいるわけでもなく、
結局は我々自体が物質性と非物質性の間の溝に完全に堕ちている。
故に非物質として表現する空間は本来的な空間の形をしていない訳だ。
おそらく、今その空間では事が分立しある状態だが、
本来コトとは全てを統べる響がある。
だからコトも含めて現状ではその本質を失っている状態とも言える。

知ついて、想起以前 含む

根底には無の欲する感受がある。
無から取り出されたその性質の段階では
現個人が認識する外的要因はまだ認識外の為、痛みと言うものを受けることはない、その段階の自我を深本体とする。

感受、深本体


その個別に設定された深本体が垣間見るクオリアは
設定された条件から矛盾の認識を保つことが可能だが、これは単に、こちらからの条件が不備とする概念が存在する為、その空間においてパラドクスを生じさせる。
無なる地盤からあらゆる発生を支えるフラット理論は
全クオリアと、全パラドクスを有す為、一は他の一と回帰性において識を共有することが出来る。

視界、クオリア

無の地盤のつながりが強い深本体は実象的写り込みを発生させる、写り込み自体は多くの意識形態において多く起こっている事ではあるのだが、強い種のそもそものクオリアはすでに異なる。
各異なる実象は個別に束ねられる。
より情報は分離しそれぞれのクオリアの確実性は知性と共に変化する。
その結果稀に、より高度な知覚の働きに連動可能な意識が創られていくという方が起き、その実存を離れた明確な体が非体である。
認識のベクトルは一元的自我に束縛されやすい、
起き安さの相和が一人歩きを始めたのがこの世界。

実象と非体

故に、この世界の可視領域、
それそのものが同じである事自体が幻想的で。
そう考えて見ると、認知はやはり多様的だ。
故におきる哲学や思想の体系があるわけだが、勿論その価値、重要性、理解している。
ごく個人的な内情ではあるが
私にとってそういう物は辛さ、痛さを誘発するものでもある。
どこかココロを傷めてしまうわけだ、
理由は多くのその内容が通過済みの過去であるかのように、また過去の自分を避難するかのように、また多くの人が既に過去の自分であるかのように、また自己が彼らを過ぎ去ってたどり着いたかのように、これらを同時に錯覚させる。
それらの思考は過去の自分の内部ですでに語られていた、ある状態を伴って、それは精査の甘さ、未熟さ、思考の放棄、偏見による歪み、社会や文化の影響による流動的思考の変化、致し方なさ、得体の知れない力による湾曲、徐々に歪められる内心の現れ、これらを常に伴っていた、いや彼らもまた、そもそもそれを伴っている事が私にはわかる、私の共感性がそこにある事も含めわたしはこれらを認識している。

おこがましさを感じさせてしまうだろうが…
明らかに私の中でのそれらはすでに語られていた。
何のことを言ってるか、どのことを言ってるのか心にくる、響く、突き刺す、呼び起こさせる。
ましてやそれ以上に哲学や思想を知ろうとする行為事態が、まるで墓を荒らすような錯覚すら生み出すという始末。
『私』がそのように処理するようになってから、
或いはそのようにしか処理できなくなってからというもの、読むことを、認識する事を、知る事を放棄してしまった。
それはひとえに『私』が既に『知らされてしまっていた存在であることを自覚した』からである。
まぁ、そんなこと言えば、賛否両論有るだろうが、その意見も思考も、思いも全て私の中では通過済であり何の効果も持たない、それを理解した上での発言によるからだ。


そして思う(解る)わけだ、
ここまでいっておきながらも、結果
特別な存在など人間の意識や思考においては無いと言える、つまりは先天的なものは無い、先立つものなど何もそもそもがなかったのだ。
勿論、思考や思想、知覚に置いて何らかの奇跡的な体験というものが存在しないわけではない。
が、その力の経緯は、明確には根源的な神の由来ではないというだけの話だ。
さらに分かりやすく言うなら、根元的な神の由来はそもそも既に万人、万物、それそのものの思考の由来において、既に起きていることであり、そもそもが平等な存在するものの、素通りされてきた何かの中にあるわけだと。
見せられる物と見えるはずのものは違う、
見えるはずのものの中には見えたが認知に致らないものがあまりにも多すぎる、この生活において既にそれは起き続けている。

哲学、思想、神学、心理、意識、カタチを与えられることの無かったあらゆる事は、そもそも平等である。
先天性など、どこにも無い、ではそれらを扱うに至った彼等の何が違ったのか、
それはやはり着眼し、思考を続けたかそれに尽き
個々人で所有できる認識には限りがある
その人生の全ての瞬間に起こるであろう、些細な映り込みや、思考の種は、存分にまかれており、大差はない。
しかしその思考の種子が人の内部にある気質や、習慣と反応するか否かでそもそもの意識形態を変化させ続ける力を維持出来るかが決まる。
一般的にこれらはあまりにも取り止めのない事で、わけわからない事を考えていると言う評価を基本的には受ける。
しかしそれをおざなりにできないからこそ、思想や、哲学の広がりは起こる。

それは、彼らがその命にひたむきに生きた結果であり、思考そのものが、そもそも生きた証となる。
くるしみ、迷い、打ちひしがれながら、出さざるを得なかった答え、確かに彼らは多くの書物を遺した、その命の見た光景を体感するために詠む事はいいが、それを議論したりとやかくいうという行為はどう考えても、不純である。

それぞれの見た世界は、
それぞれの深本体に至るまでの過去と呼べる認知領域が、
この世界にわだかまりとして残させた遺物、
その遺物の重なり方こそが人そのものである。

思考とは自己の過去を、常にわだかまりとして影響させ続ける。
表出させれる自己の総量など、思考の全てに比べればたいそうな質量では無い、それそのもの唯一の存在となってくれるなってくれるのは自己内部の思考でしか無い。その自己を知らない何人も自己を評価する術は持つことができないし、持ってはならない。
である以上自己から造られる価値というベクトルはそもそもあってもなくてもいいはずのものである。

これまでつらつらと内情を語った理由はタイトル通りの事でもあるが評価と言うものが、他者におきた確かな体感の精査であるからだが、これまでもいったように、基本的には他者が自己以外の評価を厳密に行う事は不可能だ、先入観や既視感、印象、それらはあくまでもモノ自体の表面を滑るものでもあり、状態によっては表現者事態がその滑る物の起因となる事柄を捉えきれないという事も精神内部にはおきている事であり、そうでない場合は特に困難で、より複雑だ。人の思考や行動の大部分が、『振り返る過去のわだかまり』を多く有する時点で、評価をより困難なものにしている部分も共に多く有るということにもなる。



思考の源泉、私的(無神論と有神論)


実際にはこのような映り込みは、人に限らずそれぞれの意識構造に適した形で行われている、
このような何らかの思考の源泉が想起的に組み込まれている事は間違いなく、隔たりは無い。

とは言ってもその他の意識形態が明確には認識できない以上人間に至ってはという話で続けるが、
その深本体の認知領域にあるクオリアの神経強度により
真への反応速度は決まる事は間違い無いだろう。
多くはあらゆる場面で起こる無数のインスピレーションを素通りするような生活の中にある為、それに着眼する猶予がないだけのようにも思う。
それ程に生活は様々な事柄に溢れている、つまりは考え込む時間がないわけだ。
やはり思う、昔からそうだが、たぶん私は常に何かを考えていた、
たぶんどうでもいいことも含め無駄に考えるというくらいには考え続けて来た。
強いて言うなら個人差として起きることとといえば、
気にしても良い事を気にしないでいられるという感覚が備わるかどうか、だとも思うわけだ。
気になって気になって仕方ないから考えるしか無い
そういう先天性ならば、深本体において起こりうる。



これらを前提とした時に始めて人は人のなんたるかを、考え込む事ができる。
面白い事にこの時点では神という概念を考慮に入れなくても思考する事ができてしまう。

しかしこの概念を無視し、人の認知や、存在における先天性がそもそも異なる事を考慮に入れてしまうと途端に神が不可欠になる。

前述してあるが、前者の対象としているのは隔たり無く万人、万象の思考の由来としてあるのにたいし、後者はそもそもが人と限定してある、これを限定することで、更に限定する事が可能となる、その為、生物種、種族、民俗、特定の人間と限定を細分化する事が可能となる。
つまりはこの限定の作用を保証するために利用される物事が神という存在になる。
神がいないわけではない、しかしそれは思考の形態において、そもそも精査する事が可能となると言っているわけだ。
神が尊大すぎるが故に、神の認識を誤ったが故に、人の身に起こる夥しい説明のつかない様々が、奇跡となるのであって、それは実象を素通りし続け形成された未完成な非体が持つクオリアが見せるパラドクスであり、未完成であるが故おきる思考の帰着が神を認識可能な領域に書き替えたとしか言いようが無い。
実際には平等性に於いて奇跡などは何の一つも起きておらず、当然に起こり得る物事の一つ一つである事を理解可能な事としていくというのも思考に許された特徴ではある。

そもそもこのように神を精査する事は悪か、
その昔、
神の名を読んではならないと言ったのは何故か、
神を疑ってはならないのはなぜか、
その事をもっと真面目に考えてほしい、かといって神がいないだとか、人の本質が悪だとか、頭の悪い答えはこの先の時代にはもう要らない、
時代遅れも甚しく、無能を晒すかのような答えはもう、疲れるだけだ。
ただ、当たり前化された全ての裏に流れる不純で、
悲鳴を上げるかのような生命の慟哭を、その歪な流れを
無視し続けるのは不可能で、この先おそらく生命に起こらであろう最も重大な変化となる
であろうと私は察知している。
ならば、いま一度神への尋問の定義が必要である。

神への尋問とは何か
私は、神を侵しているわけではない
その事が伝わるかどうかすら、わからないが、
神への認識を思考において更に再構築させる事で人と神との明確な位置関係、神の構造、神と呼び続けてきたものの対象、全てにおける歴史的経緯、意識という身体の持つ生態系の絶対的な広がりと、知覚における人類に起きた作為的不遇な実態と、この先起こるであろう明確な道を推察する事ができるわけだ。

危惧、二つの知

知にはそもそも
『自己終焉の為の知』と『焼却性の知』とがある。

自己終焉の為の知とは、評価や、価値を目的としない
思考から逃れる事が出来ずに思考をつづける種に備わっているものである。

焼却性の知とは、その逆である。
何を燃やしたいかは簡単に言うと自己内部に残る不安である。
人はやはり、自己を愛し、その存在の意義を求めるがゆえに自己のアイデンティティ化を強制的にでも図ろうとするものでもある、そうでもしないと、人は自己を愛する事が出来ないからだ、そのために人はさまざまな事を人生において求めていく、仕事、家族、お金、名声、
そして、知というカテゴリーにおいてもコレが起こると言う事である。

知識は確かに強い、
しかしあくまでもそれは材料であり、
その材料が何故必要かの理解も含め人には必要であり、
何かを評価し、見限る為の知識は、何も目にする事はできないだろう、
無知の知という言葉があるが、はっきり言って個人的な観点から見て、コレは純粋性に欠けている。
正確にはこの純粋性は、欠かされている。
確かに言いたい事は理解できるが、
現状でコレは『無知の知を語る無』となっている事の方が多い。
デカルトにダメ出しみたいで、不平不満を持つかも知れないが、評価する為の言葉は何の意味ももたない。
自尊心を維持できなければ崩壊するような精神などで用いるなら、哲学や思想は何の意味も持たない、
墓を荒らすからそういうふうに使用したくなる言葉であり、コレは真とはほど遠くなる、
語りたいのであれば
言葉の使用者を温度、人生、精神体系全てを見なさなければ、真意は見えなくなる、そして無意味となった文字や、その言葉はこの世界において悪影響なものとなり、
ただ維持を続けるか、澱みを蓄積させ大きな力となって、真に尊き事をさらに遠ざけていくのだろう、
コレまでもそうだった様に。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?