細胞器官クオリア

クオリア

クオリア英語: qualia〈複数形〉、quale〈単数形〉)または感覚質とは、『脳科学辞典』によれば、感覚的な意識経験のこと[1]、意識的・主観的に感じたり経験したりするのこと[1][注 2]。『広辞苑』によるとクオリアは「感覚的体験に伴う独特で鮮明な質感」であり、「脳科学で注目される」概念である[2]
神経科学者土谷尚嗣らの論文によれば、クオリア(主観的意識)は理数系学問自然科学)で観測解明できないという見解が哲学心理学認知科学などから多く出ている[3][4]。一方で神経科学などからは、クオリアを観測し解明を進めている研究が複数発表されている[5][6][7][注 3]



通常
クオリアは確かに経緯を辿っているが、
相対的な結論として表面化するクオリアに一貫性はない。
そう言った意味で、クオリアは結局の所経緯を無視する利己的感受性に過ぎないと言って良い。
つまり、現状のクオリアの評価で行けば
因果すら無視し生み出された答えの可能性すらある
そうやって生み出されたその形状は様々に産み落とされ、時間と共に変化しうる。


遺伝子的、感覚的、思考的形状
いわゆる人体が有する形状種を辿りそれぞれに合成される。
俗に言う経緯が因果の一部なら
我々が感じる個別のクオリアも因果の一部であり、
過程の真っ只中なのだ。
そう、つまりはその先で更に変性する
この事実がクオリアの全てなのだ。

事の始まりが全て同じ起こりとするならば
経緯の全てを通過したクオリアは
やがて同一のものになる
是が万物の深淵に働きかける共通の動力なのだ

つまりは我々が常日頃抱いているコレは
是の経過に過ぎないのだ。


そう、
我々が垣間見るのは常に結果では無い
我々は細胞同様常に『間』にしかいない
いや、間にしかいることが出来なかったのだ。
そう、確かにこれまでは。

しかし、それすら結果でなく、経緯とするならば、
或いは出来るならば、

やがては
我々が結論では無い以上と呼べるようになるならば
何物も、もう既に現時点では定義する事は出来無くなる。

これまでのクオリアすら既に一部の色素でしか無いが
これまでは我々はそのように感じてきた。

真なる答えというものは
その一つのルートを通過するという経緯をもって
我々の体に表現されている。
そしてやがてたどり着くクオリアは必ず同じ物になる

つまりこれまで言われていたクオリアとは細胞の器官の一部なのだ。

即ち我々は未だ器官の一部でしか無い。

真のクオリアに例外は無い

全てを包括するクオリアを所有する
少数種はある

存在すると感じる

そもそも
クオリアに種類など必要ないのだ。

そんなもんめんどくさいだけだ、

経過で考えると混乱を招く事などそもそも世の常だ。


我曰く

一つのテーブルを皆で囲むと良い…。

人類よ、
分け隔てなく、差別などなく、紛争などなく、
全ての存在をひとところに起き
建設的に話し合うといい。


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