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30年日本史00867【建武期】小高城の戦い

 播磨に集結しつつある足利軍と新田軍の戦いが気になるところですが、ここで東国の動向に目を向けてみましょう。
 全国あちこちの反乱に頭を悩ませていた後醍醐天皇は、延元元/建武3(1336)年4月、北畠顕家を再び東国に送り込むことを決定しました。前回は北畠親房・顕家父子が一緒に下向しましたが、今回は顕家一人での下向です。
 東国では前述のとおり、同年1月以来、瓜連城を本拠とする後醍醐天皇方の楠木正家・那珂通辰と、金砂城を本拠とする足利方の佐竹貞義とが戦っていました(00848回参照)。
 3月16日には小高城(福島県南相馬市)を本拠とする足利方の相馬光胤(そうまみつたね:?~1336)が、熊野堂城(福島県相馬市)を本拠とする後醍醐方の中村広重(なかむらひろしげ)を攻撃しました。
 この戦いについては記録が少なく、戦闘の詳細が明らかではありませんが、相馬光胤が優勢に進めたようです。3月24日には後醍醐方を支援した霊山城(福島県伊達市)の広橋経泰(ひろはしつねやす)を降伏させ、3月27日には標葉荘(しめばしょう:福島県双葉町)に攻め込んで後醍醐方の標葉清兼(しめばきよかね:?~1336)を戦死させています。
 このように、後醍醐方がひどく苦戦している状況下に、天皇の命を受けた北畠顕家が義良親王を奉じて戻ってきました。顕家は前回の東国下向時には陸奥・出羽2ヶ国の統治権を持たされていましたが、この度は常陸・下野の2ヶ国も新たに賜り、4ヶ国の領主として凱旋帰国して来たのです。
 東国に向かう顕家の前に、足利方の斯波家長が立ちはだかりました。斯波家長といえば、顕家が多賀城を出て上洛した際に、これを追跡するも振り切られた人物ですね。
 4月16日、相模国の片瀬川(神奈川県藤沢市)で両軍は衝突しますが、顕家は斯波家長を破って東行を続け、4月24日には宇都宮に到着しました。
 宇都宮城で顕家が佐竹・相馬討伐を呼びかけたところ、小田城主・小田治久や水戸城主・大掾高幹(だいじょうたかもと)らが集まって来ました。
 登場人物が増えてややこしくなってきたと思いますので、ここらでまとめておきます。
【後醍醐方】北畠顕家、楠木正家(瓜連城)、那珂通辰(那珂城)、中村広重(熊野堂城)、広橋経泰(霊山城)、標葉清兼(標葉荘)、小田治久(小田城)、大掾高幹(水戸城)
【足利方】斯波家長(斯波館)、佐竹貞義(金砂城)、相馬光胤(小高城)
 5月24日。顕家は敵の本拠である小高城を攻め、相馬光胤を含め一族のほとんどを戦死に追い込みました。一時期は足利方が優勢となっていた東国情勢は、顕家の力によって互角の状況にまで逆転していったのでした。
 この後、顕家は広橋経泰の霊山城に迎え入れられ、ここを拠点に足利方との闘争を繰り広げていきます。

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