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30年日本史00127【人代後期】15代応神天皇

 応神天皇元(270)年1月1日。ホムダワケが即位しました。応神天皇(おうじんてんのう)です。記紀は応神天皇の事績を多数伝えています。まず、応神天皇は3人の子の仕事分担を定め、指示しました。
 長兄の大山守(おおやまもり)は山海の政を担当すること。
 次兄の大鷦鷯(おおさざき:後の仁徳天皇)は国の政を担当すること。
 末子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は皇太子になること。
 日本神話では末子が優遇される原則があるのですが、今回も末子である菟道稚郎子に皇太子になるよう指示しています。ウジが湧いているとはひどい名前ですが、これは蛆(うじ)ではなく京都府宇治市を意味するらしく、墓も宇治市内にあります。
 さらに応神天皇については、渡来人を使って治水池を作ったこと、百済から文筆家、鍛冶職人、機織女らを派遣させて技術を伝承させたことなどが書かれています。
 もう一つ、応神天皇のエピソードで有名なものは、髪長媛(かみながひめ)の話です。応神天皇13(282)年3月。応神天皇は、日向国に髪長媛という美人がいると聞き、宮殿に呼びます。神話に出てくる天皇はとにかく女好きですね。この髪長媛を迎え入れるために、大鷦鷯が難波まで迎えに行くのですが、大鷦鷯は髪長媛を一目見て気に入ってしまいます。
 しかし髪長媛は元々、父が呼び寄せた女性です。おいそれと手を出すことができず、思い悩んだ大鷦鷯は武内宿禰に相談します。すると武内宿禰がこれを応神天皇に取り次ぎ、結局髪長媛は大鷦鷯に下されることになりました。完全に女性をモノとして扱ってますねえ。
 この髪長媛の出身地は宮崎県都城市(みやこのじょうし)で現在「早水公園」と呼ばれている一帯だそうです。毎年その公園で行われるあやめ祭りでは、「都城観光レディ」が髪長媛に扮するのだとか。
 応神天皇41(310)年2月15日。応神天皇は崩御しました。日本書紀によると享年110歳。大阪府羽曳野市にある応神天皇陵は「誉田御廟山古墳」とも呼ばれ、全長420メートルで日本第2位の大きさです。5世紀初頭の築造といわれています。もっとも、考古学者たちはこれを応神天皇の墓とは認めていないのですが。
 さて、応神天皇はその後「八幡神」と呼ばれ、武の神として全国の八幡宮で祀られるようになりました。その筆頭が宇佐八幡宮(大分県宇佐市)です。他にも、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)や石清水八幡宮(京都府八幡市)などが有名ですね。
 この八幡神は「八幡大菩薩」と呼ばれるように、仏教と融合して神道と仏教両方の信仰対象となりました。屋島の戦いのとき、那須与一が「南無八幡大菩薩……!」と言いながら扇の的を目がけて矢を放つのは、戦いをつかさどる神仏に祈りをこめる意味なのですね。
 八幡神は仏教と統合することで、それまで以上に全国で祀られるようになりました。現在、全国に8万社ある神社のうち、八幡宮が数万社を占めており最多といわれています。稲荷よりも、天満宮よりも、八幡宮の方が多く祀られているのですね。

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