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30年日本史00791【鎌倉末期】新田義貞挙兵*

 ここで新田義貞が初登場したので、新田氏と足利氏の関係について軽く復習しておきましょう。
 久安6(1150)年に源義国が京で問題を起こし、逮捕を免れるため領地・下野国足利荘(栃木県足利市)に退いたことは既に述べました(00468回参照)。
 その義国には2人の子が産まれ、長男・義重は新田荘(群馬県太田市)に土着し、新田義重と名乗り始めました。この7代子孫が新田義貞です。一方、次男・義康は足利荘に土着し、足利義康と名乗り始めました。その7代子孫が足利尊氏です。つまり、新田も足利も源氏出身というわけです。
 その新田義貞は、幕府の命で京に派遣され千早城攻めに参加していましたが、その時点で既に義貞は幕府を見限る意図を持っていたと「太平記」は記しています。
「大塔宮(護良親王のこと)の令旨を得て幕府を倒したい」
という義貞に対して、執事の船田義昌(ふなだよしまさ:?~1336)は
「では令旨を得て帰ってまいります」
と言って旅立ち、なんと数日後に後醍醐天皇の綸旨を得て帰ってきたといいます。これは「平家物語」の文覚のエピソード(00460回参照)を参考に作られたものでしょう。
 しかし、義貞はすぐに幕府打倒の兵を挙げることはしませんでした。なぜか千早城の戦いから離脱して、元弘3/正慶2(1333)年5月時点で故郷の新田荘に戻って来ていたようです。その原因は不明です。
 その後、新田義貞が挙兵を決意する決定的な出来事がありました。幕府からの使者・金沢親連(かねさわちかつら:?~1333)と黒沼彦四郎(くろぬまひこしろう:?~1333)が新田庄の百姓らに対し、
「戦費調達のため、6万貫を5日以内に工面せよ」
と無理難題を言ってきたのです。領主たる義貞の頭越しに幕府が直接百姓から取り立てようとしているわけで、義貞としても黙っていられません。金沢・黒沼が執拗に百姓を責め立てているところにやって来た義貞は、なんと両名をそのまま斬り捨ててしまいます。
 この使者殺害は、もはや引き下がれない反逆行為でした。幕府打倒を決意した義貞は5月8日、生品神社(群馬県太田市)にて挙兵しました。当初の軍勢は僅か150騎だったそうですから、まさかここから2週間後に鎌倉幕府が滅びるとは、誰も予想しなかったことでしょう。
 義貞はここから南下し、鎌倉を目指します。

生品神社の前にある新田義貞像。この像の姿は生品神社ではなく鎌倉の稲村ヶ崎で太刀を海に捧げるシーン。

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