見出し画像

30年日本史00685【鎌倉中期】日蓮と法華宗 龍ノ口の法難

 蒙古襲来の国難を予言して政道への意見具申を憚らない日蓮は、文永8(1271)年9月10日、幕府に召喚されて平頼綱の尋問を受けました。幕府を恐れぬ日蓮の態度に憤った頼綱は、日蓮を斬首することに決め、日蓮を龍ノ口の刑場へと連行していきました。龍ノ口は江ノ島電鉄江ノ島駅のすぐ傍にあり、鎌倉時代に数々の罪人が処刑された刑場です。
 処刑人が刀を振り上げ、日蓮をいよいよ斬首しようとしたとき、江ノ島の方から突然強い光が差し込め、処刑人の目がくらんで何も見えなくなりました。やむなく刑の執行は中止され、日蓮は佐渡島に流罪と刑が変更されました。これを「龍ノ口の法難」と呼び、松葉ヶ谷・伊豆・小松原・龍ノ口の4つを合わせて「日蓮四大法難」と呼びます。
 文永8(1271)年10月10日、日蓮は鎌倉を出発し、10月28日に佐渡に到着しました。
 その後、文永9(1272)年2月には鎌倉で名越時章・教時兄弟が殺され、京では北条時輔が殺されるという「二月騒動」が発生しました。日蓮が「立正安国論」で予言した「自界叛逆難」もまた現実のものとなったわけです。
 文永11(1274)年2月、執権・北条時宗は日蓮の赦免を決定し、日蓮は3月13日に佐渡を発ち、3月26日に鎌倉に戻ってきました。結局佐渡にいたのは2年5ヶ月でしたが、日蓮はその間に多くの布教活動を行い、佐渡に多くの弟子を作っています。
 鎌倉に戻ってすぐの4月8日、日蓮は幕府の要請を受け、平頼綱と会見しました。頼綱が丁重な態度で
「蒙古襲来の時期はいつか」
と日蓮に尋ねると、日蓮は
「年内の襲来は必然である」
と答えます。ここで頼綱は、
「他宗とともに蒙古調伏の祈禱をしてほしい」
と依頼しましたが、一貫して他宗の存在を認めない日蓮はこれを拒否しました。
 幕府への働きかけが無駄と悟った日蓮は、鎌倉を退去し、5月17日に甲斐国身延山(山梨県身延町)に入り、久遠寺(くおんじ)を建立しました。その後は久遠寺で著作活動に励み、蒙古襲来の詳報を書き記すなどしています。
 日蓮は、元寇が終了した後の弘安5(1282)年10月13日、多くの弟子に見守られながら死去しました。日蓮の創始した法華宗は「日蓮宗」とも呼ばれ、その後多くの信者を獲得していきました。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?