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30年日本史00537【鎌倉初期】西行の生涯 頼朝との会見

 文治2(1186)年。間もなく70歳を迎えようとしていた西行は、老骨に鞭打ち、再び東国を目指して旅を始めました。前年の源平合戦によって焼け落ちた東大寺を再建するための勧進が目的でした。
 8月15日、西行は鎌倉の鶴岡八幡宮に立ち寄りました。
 このとき、たまたま参拝に訪れていた頼朝は、
「鳥居のあたりに怪しい老僧が徘徊している」
との報告を受けました。梶原景季が問いただしたところ、この老僧が西行だったというわけです。
 頼朝は西行を御所に招き、兵法について教えを請いました。しかし西行は、
「家伝の兵法書は、罪業の因縁を作る要因となるので、出家したときに全て焼き払ってしまいました、心に残っていたことも全て忘れ去ってしまいました」
と答えます。続いて頼朝は歌道について教えを請いますが、西行は
「歌の道については、奥義などというものはまったくありません。ただただ花や月を見ては心に感ずるままに三十一文字にまとめて書き連ねるだけのことですよ。人にお教えするほどのものは何もありません」
と答えます。
 翌朝、頼朝は西行をさんざん引き留めましたが、西行は退出していきました。
 別れ際に頼朝は礼として銀でできた猫を譲ったのですが、西行は御所を辞すと、通りで遊んでいた幼子にこの猫を与えて立ち去ったといいます。物欲を持たない人物だったのですね。
 その後旅を終えた西行は、河内国弘川寺(大阪府河南町)に隠棲し、建久元(1190)年2月16日に死去しました。かつて
「願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」
と詠み、2月15日頃に桜を見ながら死ぬ理想を述べたことがあったのですが、まさにそのとおりの死となりました。
 西行はその生涯に多くの名歌を詠みましたが、百人一首に収録されたこの歌が最も有名でしょう。
「嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」
(嘆けと言って月が私を物思いにふけらせようとする。いや、そうではなくて、嘆きを月のせいだとかこつけて涙を流しているだけなのだ)
 俗世を捨て和歌と仏道に生きた西行の生涯は、多くの文学者に影響を与えています。

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