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30年日本史(毎日投稿)

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2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはず…
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2024年8月の記事一覧

30年日本史00974【南北朝初期】住吉・天王寺の戦い 義挙

30年日本史00974【南北朝初期】住吉・天王寺の戦い 義挙

 山名時氏の弟・兼義(かねよし:?~1347)は、突撃してきた和田源秀と阿間了願の様子を見て、一騎打ちの勝負では敵わない強力な敵だと思い、
「多勢で取り囲め」
と指示し、150騎で横から攻めかかりました。ところが正行もまたそこに追いついてきて、
「和田を討たすな、続け」
と指示したため、楠木軍からも大勢の武者たちが攻めかかります。
 疲弊した山名軍の分が悪く、大将・時氏が傷を負っていたこともあって

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30年日本史00973【南北朝初期】住吉・天王寺の戦い 分散配置

30年日本史00973【南北朝初期】住吉・天王寺の戦い 分散配置

 藤井寺の戦いでの敗北に危機感を持った北朝方は、今度は細川顕氏・山名時氏に6千騎を与えて、住吉・天王寺に派遣することとなりました。両者が派遣されたのは正平2/貞和3(1347)年11月25日のことです。
 細川顕氏は兵たちを集めて、
「前回と同様に逃げ出したのでは、万人に嘲られる。各位とも覚悟を決めて前回の恥辱を晴らせ」
と訓示しました。
 山名時氏は住吉に、細川顕氏は天王寺に、それぞれ陣を構えま

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30年日本史00972【南北朝初期】藤井寺の戦い

30年日本史00972【南北朝初期】藤井寺の戦い

 さて、いよいよ楠木正成の嫡子・正行の戦いが始まります。この戦いは「太平記」に詳しく書かれているものの、史実と大きな差があるようなので、戦闘の実像については古文書で明らかとなった事実を中心に描きつつ、「太平記」上の有名エピソードも紹介していこうと思います。
 正平2/貞和3(1347)年になり、湊川の戦いでは数え11歳だった正行も、今や22歳になりました。もう大将として兵を預かってもよい年齢です。

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30年日本史00971【南北朝初期】壬生寺の身代わり地蔵

30年日本史00971【南北朝初期】壬生寺の身代わり地蔵

 具体的な年月は不明ですが、「太平記」はこの頃の壬生寺(みぶでら:京都市中京区)をめぐるエピソードを紹介しています。
 南朝方の児島高徳は脇屋義助とともに伊予に渡っていましたが、義助の死後、本拠である備前国児島(岡山県倉敷市)に戻り、そこに脇屋義治を招致して決起しようと計画しました。あわせて、丹波国の荻野朝忠(おぎのともただ)が足利家に恨みを持っているとの情報が入ったため、児島は密かに連絡を取り、

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30年日本史00970【南北朝初期】常陸合戦 関城・大宝城の戦い*

30年日本史00970【南北朝初期】常陸合戦 関城・大宝城の戦い*

 さて、ここで目線を常陸国に戻し、東国の戦況について追っていきましょう。興国2/暦応4(1341)年11月10日の小田城開城を受けて、関城に関宗祐・北畠親房が、大宝城に興良親王・下妻政泰・春日顕国が、それぞれ立て籠もることとなり、これらに高師冬率いる強大な北朝軍が攻めかかっている状況でしたね。南朝方はまさに風前の灯です。
 関城も大宝城も、2年に渡って師冬軍の攻撃に耐え抜いていましたが、興国4/康

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30年日本史00969【南北朝初期】光厳上皇の密通

30年日本史00969【南北朝初期】光厳上皇の密通

 ここで北朝の皇位継承問題に目を転じてみましょう。この頃、北朝には重鎮・光厳上皇が君臨していました。光明天皇は光厳上皇の弟で、皇太子・興仁親王(おきひとしんのう:後の崇光天皇:1334~1398)は光厳上皇の長男です。
 興国4/康永2(1343)年4月13日。29歳の光厳上皇は、8歳の長男・興仁親王に対して手紙を書き送りました。この手紙は
「光厳院宸翰御置文(こうごんいんしんかんおおきぶみ)」

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30年日本史00968【南北朝初期】婆娑羅大名土岐頼遠 死刑執行

30年日本史00968【南北朝初期】婆娑羅大名土岐頼遠 死刑執行

 美濃に立て籠もった土岐頼遠は、どうにか謀反を成功させるだけの人手を集めようと必死に一族郎党をかき集めますが、幕府方は先に手を打っていました。頼遠の甥に当たる土岐頼康を、いち早く討伐隊として美濃に派遣したのです。もはや美濃で戦っても勝ち目がないと知った頼遠は、密かに京に戻って天龍寺の夢窓疎石を頼ることにしました。
 頼遠は夢窓疎石に連れられて直義のもとに出頭しました。夢窓疎石や他の御家人たちから必

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30年日本史00967【南北朝初期】婆娑羅大名土岐頼遠 蛮行

30年日本史00967【南北朝初期】婆娑羅大名土岐頼遠 蛮行

 光厳上皇の御前だというのに下馬をしない土岐頼遠に対して、上皇の側近らは駆け寄って口々に
「そのような無礼を言うのはどこの田舎者か。上皇様の行幸であるぞ」
と声をかけました。すると頼遠はカラカラと笑って、
「何だと、院だというのか、犬だというのか。犬なら射殺してやろう」
と言うや否や、なんと車を取り囲んで馬を駆け寄せ、まるで獣を追い回すようにして矢を射かけました。神をも恐れぬ蛮行です。
 このとき

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30年日本史00966【南北朝初期】婆娑羅大名土岐頼遠 邂逅

30年日本史00966【南北朝初期】婆娑羅大名土岐頼遠 邂逅

 この時代には「婆娑羅(ばさら)」という言葉が流行しました。
 00837回でも解説しましたが、「婆娑羅」とはWikipediaでは
「身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈で派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識」
と解説されています。
 そもそもバサラとは、サンスクリット語でダイヤモンドを意味する「vajra」から派生した言葉で、「ダイヤモ

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30年日本史00965【南北朝初期】千町原の戦い

30年日本史00965【南北朝初期】千町原の戦い

 南朝方の金谷経氏ら300騎は
「どうせ生きては帰らぬ戦だ」
と言って大軍に向かっていきました。一方、北朝方の細川頼春ら7千騎は千町原(せんじょうはら:愛媛県西条市)へ討って出て敵の陣を見渡します。
 敵が僅か300騎なのを見た細川頼春は、
「敵がこれほど小勢とは思わなかった。あれは屈強の者どもを選りすぐって、大軍の中を一気に駆け破って私に組み合おうとするつもりだろう」
と敵の作戦を見破りました。

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30年日本史00964【南北朝初期】金谷経氏の奇略

30年日本史00964【南北朝初期】金谷経氏の奇略

 脇屋軍に長年従事していた南朝方の兵たちは、金谷経氏(かなやつねうじ:?~1351)を大将として、兵船500艘余りで川之江城を守ろうと漕ぎ出しました。一方、北朝方は一千艘の大軍です。
 両軍は海上で潮と追い風に乗って押し合いながら戦いました。両軍とも一切退かず戦い続けましたが、一日中戦っていると、急に風が吹いて南朝方の船はことごとく西へ吹き戻されてしまいました。これでは川之江城を守ることはできませ

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30年日本史00963【南北朝初期】脇屋義助死す

30年日本史00963【南北朝初期】脇屋義助死す

 興国3/暦応5(1342)年4月1日、後村上天皇から西国の平定を命じられた脇屋義助は、ちょうど四国への航路が開けている間を縫って、伊予へと向かいました。
 元々、義助が吉野に到着した時点で付き従っていたのは僅か500騎足らずでした。しかし義助が吉野を出発して高野山に参拝し、田辺、熊野、児島を回っているうちに兵は次々と増え、4月23日に今治(愛媛県今治市)に到着したときには大軍になっていました。

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30年日本史00962【南北朝初期】飽浦信胤の変心

30年日本史00962【南北朝初期】飽浦信胤の変心

 伊予国に脇屋義助を派遣することになったものの、その経路は陸上も海上も全て敵地です。どうやって伊予まで行こうかと相談していると、備前国の住人・飽浦信胤が使者を派遣して来て、
「先月、小豆島(香川県小豆島町)で挙兵したところに国中の忠義の者たちが加わりました。既に逆賊を討ち、航路も確保しています。急いで近日中に大将をご派遣下さい」
と伝えてきました。これを聞いた吉野の面々は「やっと天運に恵まれた」と

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30年日本史00961【南北朝初期】脇屋義助の吉野入り

30年日本史00961【南北朝初期】脇屋義助の吉野入り

 話を常陸から近畿へと移します。
 脇屋義助は小黒山城を陥落させる軍功を挙げたものの、快進撃はそこまででした。興国元年/暦応3(1340)年9月13日には斯波高経率いる北朝軍に敗北し、越前から逃亡して美濃国根尾城(岐阜県本巣市)に移ることとなりましたが、翌興国2/暦応4(1341)年9月18日、そこにも北朝方の土岐頼遠とその甥・頼康(よりやす:1318~1388)の軍が押し寄せてきました。
 根尾

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