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【長編小説】魂の在処 ⑥

☆主人公・葵とその義兄・薫の、前世を交えての兄弟愛のお話です。はじめから読みたいという方は、こちらからどうぞ。

☆ちょうどよいタイミングで切りたかったので、今回すこし長いです(;'∀')

                                              ※

    乙女纏さおとめまといが一人暮らししているその家は、葵たちが通う月影高校から徒歩二分ほどの場所にあった。薫はてっきり、事故の日に塀を乗り越えてきたあの民家がそうなのだと思っていた。そこよりも、路地を二本ほどまたいだ先にある小さなマンションの一階だった。

 『テラくん』をハイツの正面玄関あたりに停め、腕時計を確認する。約束の時間よりも二十分ほど早く着いてしまった。どうしようかと辺りを見回していると、一階の扉が開き、まといが顔を覗かせた。薫に向かって、大きく手を振っている。
「すまん、約束の時間よりずいぶんと早く着いてしまった」
「全然、平気どす。どうぞ、あがっておくんなす。あ、スリッパそこにあるんでよかったら」
 軽く首をかたむけ、はんなりと笑った。少し大きめの白いニットセーターを身につけ、銀色の髪は頭の高い位置でおだんごに結われていた。髪を結うと、実年齢よりもずっと大人びて見えた。まといは、薫を部屋の中へと案内する。
 十畳くらいの空間に淡い色調のクリーム色の絨毯が敷かれている。壁に沿うように置かれたテレビとオーディオ機器。対面の壁に赤いソファ。はさまれるように、コーヒーテーブルがある。テーブルの上には旅行雑誌が数冊と、ミルクティの紙パックがあった。それとはまた別に、部屋の中央に楕円型の黒いローテーブルがある。まといは、その場所を掌で差した。
「今、お茶用意しますんで、座っておくんなし。あ、ハーブティくらいしかないんどすけど、平気どすか?」
 ああ、おかまいなく。テーブルの傍に腰を下ろしながら、薫は鞄から英語の参考書を取り出す。
「そういえば、怪我のほうはあれからなにも変わったことはないか?」
「ええ、おかげさまで。もうすっかりようなりました。おおきに」
 お盆に紅茶のポットと耐熱グラスを用意し、テーブルの脇に置く。カップに抽出したハーブティを丁寧に注ぐ。ひとつを薫の前に差し出した。
 その横顔を薫はちらりとうかがい見る。ふと、妙な既視感にかられた。
「――まとい……」
「え?」
 名を呟かれ、まといは一瞬固まった。
「事故の日に少し話したときにも思ったんだが……前にどこかで、あんたと会ったことがあったか?」
 そういって薫は、まといの顔をまじまじと見た。
「――いえ……。あん時が、始めてどす」
 決まりの悪いことから逃げるように、まといは視線を床へ投げた。
「そうか、いや、俺も会った記憶はないんだが――なんかそんな感じがしてな」
 薫は苦笑した。
「性質の悪い口説き文句みたいだな、すまん」
 まといは、少しはにかむように頬を緩めた。
「けど、そないゆうのって、ロマンチックどすなぁ。そういえばうち、よく見る夢があるんどす。そこに出てくる殿方が、薫はんによう似とるんどす」
「殿方、ってまた、古風な言い方するんだな」
「いえ、その夢っちゅうのが、いまでいう平安という時代の殿方なんどす」
 薫は、少し眉根を寄せた。
「平安?」
「そうどす。夢の中で、その殿方はこんな名前で呼ばれとるんどす……彼の、名は」
 そういいかけたとき、薫の鞄の中からスマートフォンが鳴った。
「ああ、ごめん」断りを入れて、薫は鞄の中をまさぐる。見ると葵からメールが入っていた。バイトで残業を頼まれた。遅くなる。用件だけの短いメール。わかった。帰宅するときには充分に気をつけて。返信して、スマートフォンを鞄に再び放り込んだ。
 視線に気づき、顔をあげる。まといがじっと見つめていた。その目に、どこか異様な執着を感じて、薫は少し身構えた。
「葵はん、どすか?」
「残業を頼まれて、帰るのが遅くなるらしい。最近、おかしな事件が頻発してるだろう?気になってな」
 不安そうに顔を歪めた薫を見て、まといは感情の読めない複雑な表情を作った。
「そういえば、葵はんと薫はんは、ずいぶん歳が離れとるように思えますねんけど――」
「ああ」薫は頷く「俺は二十七。あいつとは十はなれてる」
「そないでしたか。葵くんは、随分と後に産れはったお子でしたんやな」
 薫はほんの一瞬、ためらった。
「いや、俺とあいつに血の繋がりはないんだ。あいつは五歳の時に訳あって……親父が養子に向かえてる」
 まといは目を丸くした。
「……そないでしたか。いや、うちには兄弟姉妹がおらんのでようわからんどすけど、歳のはなれた兄弟いうんはそれだけで可愛いもんなんでっしゃろか?」
 間が、空いた。
「そうだな。俺は可愛くて仕方ないが――葵は……」
 言葉を飲み込む。
 まといには、その横顔がひどく傷ついて見えた。


 そういえば――。先日、病院のロビーで再会したときの、不自然にそっけなく接していた葵を思い出す。まといは薫の心の中を探るように問いかけた。
「葵はんと、なんかあったんどすか?」
 微妙な空気の揺らぎを感じて、まといは眉根を寄せた。
 また間が空いた。
「いや……俺が悪い。俺があいつを、ひどく傷つけるようなことをしてしまったから、嫌われていても仕方ない」
 自分で言葉にした台詞が、心の中に深く浸透して痛みに変わってゆく。うつろな視線のまま、薫はハーブティに口をつけた。
「うまいね、これ」
「ああ……おおきに。うち、ハーブティー淹れるのが趣味どすねん。今日のお茶は、カモミール。神経を落ち着かせてリラックスさせる効果があるんどす」
「ほう、あまり紅茶には興味がないから、よく知らなかった。覚えておく」
 はい。まといは頬をいっばいに緩めた。
「ハーブティーにもいろいろと種類があって、それぞれ効能っちゅうもんが違うんどす。お茶なんてみんなおんなじやと言う人もおらはりますが、効能までわかって飲んどるのとそうでないのとは、雲泥の差やと思うんどす」
 ははは。薫は軽く微笑んだ。
「そういや俺と葵の幼馴染にも、紅茶にうるさい女がいてな。アップルだのダージリンだの、いろいろと勧めてくるから『匂いが違うだけでみんなおなじだろ』って言ったら、ものすごい説教されたことがあった」
「幼馴染、どすか。薫さんと同い年の?」
「いや、葵と同じだ。先日、通り魔に襲われて、総合病院に入院してる子がいると葵が言ってただろう。あの子だよ」
 まといは驚き、目を丸くした。口元に手をあてがったまま、眉間に皺を寄せた。
「十七の高校生。あんたと違って、色気のいの字もない子だよ。葵とは仲がいいんだが、俺はなぁ。顔みると、やいのやいの言い合ってるかも」
「喧嘩するほど仲がええ、いいますやん。うらやましいどす」
「いや、ないわ。付き合うんなら、葵と、だろう。――俺が知ってる限りは、そんなことはないみたいだが。それはそうと、早乙女さんも通り魔には気をつけたほうがいい。無差別に襲ってるような感じだからな」
 おおきに。まといは微笑んだ。その視線が、無意識に床に落ちる。
「――嫌じゃ、ないんどすか」
「え? なにが」
「葵くんが……そのお人と仲ええのん。もし、付き合いだしたりしても、薫さんは嫌やないんどすか。平気なんどすか?」
 薫は、目を瞬かせた。
「嫌、って、どうして? ああ、いや。七海は、あいつはもう兄弟みたいなもんだからさ、女として見れないな、もう」
「……いえ、そうではなくて、」
「なに」
 まといは開きかけた口を、静かに閉じた。
「いえ、なんでもないどす。じゃ、よろしくお頼み申します」
 顔をきりりと作り直すと、さらりとペンを握った。
「あ、そうやった」
 まといは鞄の中からA六サイズの手帳を取り出し、ぱらぱらとめくる。
「少しまだ先のことなんどすけど、金曜日に予定がはいってしもうて……」そう言いながら、手帳の中のとある日を指差す。
「変わりに、土曜に変更してもろてもかまわへんやろか?」
「ああ、特に予定はないから大丈夫だ」
 よかった。まといは、淡い笑みを浮かべた。

             ※

 一週間後、七海は無事退院してきた。バイトを入れていない日だったので、自宅まで送り届けるため、並んで駅前通を歩いていた。
 七海の鞄の中で、スマートフォンが鳴った。肩にかけていた白いトートバックから、スマートフォンを取り出し耳にあてた。なにやら会話をしている。
「葵、ごめん。わたしちょっと駅前のスーパーに寄ってから帰るわ。ここでいいよ。ありがとう」
 七海はトートバックに電話をしまいながら、そう告げた。
「なに、お母さん?」
「うんそう、仕事で遅くなるから適当にご飯食べて、だって。んー、面倒くさいからお弁当ですませよっかなぁもう」
 隣にいる七海の横顔をちらりとうかがい見る。そういえば七海の家は、彼女が中学にあがるとき両親が離婚して、いまは母親と二人暮らしなのだと聞いていた。母親が仕事から戻るまで、七海は家でひとりになる。
「七海」
「ん?」
「よかったら、うち来るか?」
 七海は目を開き、葵を見た。
「今日の食事当番はオレだから、そんなたいしたもん作れねぇけど」
 そう言うと、七海はとても嬉しそうに、行く行くと頷いた。

 夕飯はカレーを用意することになった。料理が完成するころ、玄関扉が開く音がした。あ、薫ちゃん帰ってきた。七海がそう言って、玄関へ向かおうとしたとき、話し声が耳に届く。どうぞ入って。薫の声。おおきに。その独特な口調と低い声に、心臓がびくんと波打った。
 ほどなくして、まといを後ろに従えた薫がリビングに入ってきた。
「あれ? なに、マジで? 彼女、さん?」
 驚いた鳩のように目を丸くした七海が、二人をみて棒立ちしている。
「彼女じゃない。というか、なんでおまえがいるんだ」
 制服の上から藍色のエプロンを身につけた七海を見て、薫は渋い顔をした。
「どうでもいいが、おまえ本当にエプロン姿、似合わんな」そう言い終わるのと同時に、薫の腹にきついこぶしが食い込んだ。
「――ってぇな、おまえ、なにするんだよ! そんなんだから、いつまで経っても彼氏さまが出来ないんだろ」
「あんたにだけは、言われたくなかったわ……くやしいっ」
「いや、だから、彼女じゃないから。ああ、早乙女さんすまない。こいつが、吾郷七海あごうななみ。このまえ話してた紅茶にうるさい女」
「ああ」まといはどこか気のない返事をした。七海に視線を合わせ、作り物のような笑顔を浮かべる。
「七海はん、はじめまして。早乙女纏さおとめまといいいます。薫はんには、英語の家庭教師してもろうとるんどす。今日はその日やなかったんどすけど、薫はんから参考書をお借りしよう思もて、寄らせてもろたんどす。お邪魔してしもうてかんにんえ」
 大人びた雰囲気に気圧されるように、七海はあたふたと胸の前で手をばたつかせた。
「や、わたしもただの客人だから、気にしないでください」
「お、カレーか」
 簡易キッチンから漂うスパイシーな匂いに、薫は鼻をくんくんさせた。
「あ、そうだ。早乙女さんもカレー食っていく? 葵の作ったカレーは美味いよ」
 羽織っていたデッキジャケットをハンガーにかけながら、薫は微笑んだ。あ、コート、かけておくから貸して。まといにそう言って、手を差し出す。
「お邪魔やなかったら、ぜひ」
 脱いだコートを薫に手渡しながら、まといは、はんなりと笑った。
「そういうわけだから、葵、申し訳ないが、早乙女さんの分も用意してもらってかまわないか?」
 リビングから薫が声をあげた。
「――わかった」
 出来るだけ平常を装い、リビングをちらりとうかがった。まといと目が合った。
 知らない人をすれ違い様に見るように、すぐさま視線を逸らされた。胸を巣食われるような居心地の悪さを感じ、湯気を立てているカレー鍋をがつがつとかき混ぜる。気持ちがひどくもやもやする。
 やはり、自分は嫌われている。わけもなくそう感じる。

 四人はローテーブルを囲み、カレーを食べた。葵と七海が隣に、対面して薫とまといが隣同士に腰をおろした。
 七海と纏は、初対面だったにも関わらず、紅茶の話でおおいに盛り上がっていた。時々、突っ込みをいれるように薫が口をはさむ。そんな三人の様子を、葵はぼんやりと傍観しながらカレーを黙々と食べていた。
 おそらくは、自分だけが感じているのであろう居心地の悪さに、頭の隅がじんわりと痛む。喘息の発作でもないのに、変に息苦しい。はやく、この場から去りたい。
 最後の一口を放り込み、水で胃に流し込む。食器をキッチンに運ぼうと立ち上がったとき、七海が「あ」と声を上げた。
「そういえば葵、稲野辺先生の家に扇子見にいくのって、いつにする?」
「ああ、えっと、おまえが元気になってから先生に連絡しようと思ってたから、まだちゃんと決めてない。どうする?」
「わたしは週末ならいつでも大丈夫」
 わかった。葵は頷く。
「今週末くらいどうか、先生の都合を訊いておく」そう言って、キッチンへ向かう。シンクに食器を置き、水で軽く流した。
「扇子って、なんだ」
 薫が口をはさむ。
「稲野辺先生のおうちの古い蔵から、すごい昔の扇子が出てきたんだって。えっと……ちょっと待って」
 スプーンを皿に置き、七海は鞄を引き寄せた。中からスマートフォンを取り出し、ページを繰っている。
「ほら、これだよ」薫の目の前に、ブログにアップされていた扇子の写真を突き出した。
 スマートフォンを手にとった瞬間。薫の顔色が一変した。なにかを叫ぶのではないかと思うくらいに、その顔は蒼白していた。
「……これ、どこで」
 酷く動揺した声色。信じられないものにでも遭遇したような表情。
 七海が差し出したスマートフォンの写真を、薫は食い入るように見ていた。
「どこでって、だから、稲野辺先生のご実家の蔵にあったものだってさっき説明したじゃん。もう、薫ちゃん、ちゃんと話聞いてたの?」
 七海は口を尖らせた。
「あ、ああ、そうだったな。そう……」
 なにかにとり憑かれたように、薫は扇子の写真を凝視している。まといは体を傾け、薫の手元を覗いた。一重まぶたの瞳が、大きく見開かれた。
「……綺麗な、扇子どすなぁ」
「でしょでしょ?」七海は鼻息を荒くする。
「稲野辺、といったか。こいつは、こいつの家は、古くから続いている名家なのか?」
「そうらしいよ。その扇子も、たしか平安中期? くらいのものだって、先生がブログに書いてた」
 そうか。気のない口調でそう告げると、薫はスマートフォンを七海に突っ返した。
 カレーを口に運んでいた手は完全に止まり、その瞳は焦点の合わない場所を漂っている。
 明らかに、薫の様子は変だと感じた。ぼんやりと宙を見つめるハシバミ色の瞳は、見慣れたそれとは違って、知らない誰かのものにさえ思える。
 得たいの知れない不安が、胸を覆う。自分の知らない兄の顔。四年前のあのときの言葉が、頭を掠める。息がつまる。


「――俺も、行く。俺も、その扇子を見に行く」
 突然、薫が言った。その言葉に、葵と七海は思わず顔を見合わせた。
「まあ、別に先生、嫌がったりはしないと思うけど……ね、葵。先生に聞いて――」
「……なにいってんだよ」
 七海の言葉を遮るように葵は呟く。
「先生はオレと七海を誘ってくれたんだ。生徒でもないあんたが行って、どうすんだよ。それにあんた、骨董品なんかに興味ねぇだろ」
 声が荒れた。薫がいままで、扇子などに興味を示したことなどなかった。なのに、いま突然、どうして。葵は、薫の心の奥を探るように見上げた。なにか理由のわからない不安が、黙々と湧き上がってくる。それは予知にも似ていた。なにかよくないことが起こりそうな予感。
「ちょっと、葵。なにも、そんなに怒らなくても」
 七海は、慌てて立ち上がった。いまにも食ってかかりそうな葵の肩に、そっと手を添えようとした。瞬間、その手がするりと肩から滑り落ちる。そのまま、七海は足元から崩れ落ちた。
「七海? おい!」
 足元でうずくまっている七海の肩をしっかりとつかみ、その顔を覗きこむ。さきほどまで血色のよかったその顔は、真っ青で血の気のない幽霊のようになっていた。
「ご、めん……多分これ、貧血。う……きもち、わる……」
「寝てれば治るのか?」
 薫が問うた。
「うん、足元高くして横になってたら、マシになると思う。ごめん、ちょっと寝かせて」
 わかった。そう言って薫は、七海を軽々と抱き上げた。そのまま、自分の部屋へと運ぶ。七海をベッドに寝かせると、足元にクッションを二個ほどかませて、心臓よりも高い位置に上げた。
「起きれるようになったら家まで送るから。少し横になってろ」
 七海の額に触れ、熱がないのを確認すると、首元までがっつりと布団をかけた。カーテンを閉め、部屋の扉を静かに閉じる。

「――やっぱり、事件の後遺症がまだ残ってるのかな」
 眉間に皺を寄せたまま、葵はひとりごとのように呟いた。
「そうかもしれんな。……そんな顔しなくても大丈夫だ。貧血は、ちゃんと治療すればよくなるから」
 薫は葵の頭を撫でるように、軽く触れた。その手を、押しのけるように遮る。
「あの……食べ終えた食器、片付けておきまひょか?」
 ローテーブルの上の食器を重ねながら、まといは薫に問いかけた。
「ああ、いや、置いてていい。それより、参考書……だったな。ちよっと待ってて」
 薫は静かに部屋の扉を開けて、パソコンデスクの隣にある小さな本棚から本を数冊取り出した。背中越しに扉を閉め、まといに向き合う。
「これ。俺が高校くらいのときに使ってて一番解りやすいと思った参考書だ。ためしてみて」
 赤い表紙の本を二冊、まといにむかって差し出す。それを両手でしっかりと受け取り、纏は微笑んだ。おおきに。
 薫は壁掛け時計を見上げた。午後九時過ぎている。
「早乙女さん、家まで送るよ。ああ、そうだ、テラくんの――バイクのエンジンを温めてくるから少しだけ待ってて」
 オリーブ色のデッキジャケットを引っ掛けると、薫は玄関を飛び出していった。
 
 部屋に静寂が訪れた。
 七海は薫の部屋で静かに眠っている。リビングには、葵とまといの二人が残された。とたんに、空気がピンと張りつめた。
「あ――この時期だともうそんなに寒くはないから、エンジン温めるのそう時間かからないと思います。座って待っててください」
 そうまといに告げると、テーブルの上の食器を片し、簡易キッチンに向かった。食器をシンクに浸し、水を勢いよく出す。食器の重なりあう音と水道水の流れる音だけが、異様に響く。
「薫はんは、勉強教えるのが巧いどすなぁ」
 突然、背中から声をかけられ、手元がびくんとぶれた。
「葵はんも、教えてもろたらええのに。ああ、うちも洗い物手伝いまひょか?」
 すぐそばにまといの気配を感じる。つんと鼻腔をつく白檀の香り。長い銀色の髪が視界の隅にちらつく。
「いや、平気です。座って待っててください」
 努めて冷静にふるまった。つもりだった。
「なぁ、葵はん」
「はい」食器を濯ぐ手に意識を集中する。
「……薫はんのこと、嫌いなんどすか?」
 問いかけられたその言葉が、胸の深い部分を貫いた。手元がぶれて、食器がぶつかり合う音がキンと響く。
「別に――」
「立ち入ったこと訊いて、かんにんえ。けど、さっきもそうどしたけど……見とったら、薫さんに対するふるまいが、なんかきつう感じるんどす」
 背筋が震えた。なにもかも奪われ、丸裸にされたような憔悴感が沸いてくる。
「別に――そんなことは」
 声が情けなく上ずった。
「お二人は、血の繋がりがないんやって、薫はんから聞いたんどす。せやから――ですのん? なにやら、自分が葵はんを傷つけてしもうたから――そう言うとりましたけど」
 心臓を殴られたような気がした。薫はこの人に、そんなことまで話したのか。
「血が繋がってないとか、そんなの関係ない。そんなことじゃ、ない」
 言葉が喉につっかえた。消化できない気持ちが気道を塞ぐ。息苦しい。
 片した食器を水切りかごに並べ、その場から立ち去ろうとした。
「ほんまは、薫はんのこと、そないに大事ではおまへんのでっしゃろ?」
 シンクのそばにある冷蔵庫にもたれかかるようにして、まといは天井を見上げた。
「かて、本当に大事やったら、揉め事になったら、どないにかして理由を聞こうとしはるはずや」
 その言葉に、鬱積していた何かが音を立てて切れた。背を向けていた体を翻し、まといに向けて射るような眼差しを向けた。
「それはあいつだって、同じだ!」
――一方的に、拒絶されて。そのあと何事もなかったように、普通に接してこられても。こっちは、こっちの気持ちはどうやって。
 気づくと、まといは面食らった顔で葵を見ていた。
「――っ、すみません。怒鳴ったりして……けど、あなたには、関係ない」
 湧き上がってくる気持ちを必死でこらえ、再びまといに背を向けた。
「関係ないことあらへん。うちは」
 小さく息を吐く。咎めるような声色で、まといは続けた。
「薫はんの一番になりたいんや。余計なことして、あのお人の心ん中、引っ掻き回すのはやめておくれやす。そばにいたくない言うんやったら、出ていけばいいんに」
「オレは――」
 玄関扉の開く音が響く。慌てて、言葉を飲み込んだ。まといは今一度、葵の横顔をちらりと見た。
 薫がまといを呼んだ。小さく深呼吸して表情を整えると、何事もなかったように纏はキッチンを出て行った。薫と一言二言会話を交わす。しばらくして、玄関扉が閉まる音が響く。

「くっそ――っ」
 冷蔵庫の扉に拳骨をたたきつけた。打ち付けた手からじんわりと伝わる痛みは、あっという間に全身を侵食するように広がった。
 早乙女さんの言うことは、きっと正しいんだと思う。本当にあいつとの間柄を修復したいと願うのなら、逃げてばかりいないでちゃんと向き合うべきなんだと思う。
 だけど。


 四年前と同じ。あいつが突然、人が変わったようにおかしくなるのは、一度だけじゃなかった。何事もなく、突然突き放される。その辺に落ちている石ころを見るような冷めた目で、オレを見る。それが、ひどく怖い。怖かった。
 深く関わらなければ、あいつのそんな顔も態度も見ずにすむ。
 わかってる。逃げてばかりいるのは自分で――それじゃどうにもならないって、本当はよく、わかってる。
 だけど、もしまた、あの日と同じように、自分の存在ごと否定されたら。
 わずかに残された希望の灯火までもが死んでいくような気持ちになり、両腕で体をきつく抱きしめた。

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