生き物を飼うということ
1ヶ月ほど前、実家にいる文鳥の胸が異様にふくらんでおり、病院に連れていった。
すると、胸腺腫の疑いがあるとのことで、鳥専門の病院にまわされた。その診察が今日だった。
母親は「手術するって言われたら、するの?」と訊いた。
「手術ってなったら大きなお金もかかるやろうし、この子が可哀想やわ」
「母親は自分のことばかり考えるな」と思ったが、一理ある、とも思った。
今日の診察ではとりあえず飲み薬で様子見ということになったが、これで良くならなければ、いよいよ手術の選択をせねばならない。
とはいえ、僕は実家から離れているので、厳密に言えば飼い主ではない。それでも、実家にいた頃に飼いたいと言い始めたのは僕なので、責任は感じている。文鳥を特に可愛がっている妹とふたりで話し合って決めていきたい。
文鳥は幸せをたくさんくれた。天真爛漫な鳥だ。機嫌のいい時は歌い、全力で怒り、僕の手の上で眠ってくれた。
手術は失敗のリスクも高い。小鳥は繊細な動物であり、お医者さんでも難度は高いらしい。この選択に関しては妹と相談しようと思う。
◇◇◇
生き物は僕たちの都合で飼われている。それをずっと考える。
文鳥ももともとは南の鳥で、群れで生活する。木々を渡り、木の実を食む。大空を飛ぶ。
これらを奪ってしまったのではないか、と。
何倍も大きな人間を恐れず、委ねてくれるその身を撫でながら、小さないのちについて考えた。
「僕たちの都合で飼い始めたのだから、最後まで責任を持つべきだ」との結論に至った。
これは言葉にするとシンプルで、簡単なように思える。しかし「リスクのある手術を受けさせるべきか?」その答えにはならない。成功したとしても後遺症が残ったり、確実に痛くて苦しい思いをさせる。
それが「責任」?
胸の腫瘍は痛むのだろうか。文鳥には、できるだけ痛みや苦しみの量を減らして、いのちを終わらせてもらいたいと願っている。それが人間のエゴとわかっていたとしても。
これほど鳥の言葉がわかればいいと思った日はなかった。
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