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チタン(TITANE)閲覧注意すぎwwwそして事実と信仰の優先順位についての考察

▼カンヌ!

そうだ、忘れてた。
2021年のカンヌを獲った作品だった。

2020年はコロナ禍で中止。
2019年は『パラサイト半地下の家族』。
2018年は『万引き家族』。
ちょっと飛ばして2013年は『アデル。ブルーは熱い色』。

そうだ、カンヌってこういう作風を選ぶ賞だったわ。
今回も例年通り、家族愛を描いた映画でしたね。(笑)

▼取り止めのない上っ面な感想(前菜)

SNSが「衝撃」でザワついてるのだけを見て、
出来る限り内容に関する情報は入れないで鑑賞しました。
こういう作品はポスターイメージだけ見て、
あとは何が出るのか知らないで観た方が楽しめます。

耳の部分がちょっとグロイなあ…
脳ミソのようにも見えるし、胎児のようにも見えるなあ…
くらいの気持ちで行ったらかなりグロかったです。

個人的には乳首を噛みちぎろうとする場面が
一番痛々しかったです。
いや、鼻を潰すシーンも長くてしんどかったか。
そう、この映画は暴力シーンを結構長尺でやるんですよね。
それがキツかったです。

以降は物語の核心を #ネタバレ していますのでご注意ください。

▼じっくり考察していく(メイン)

あらすじ
アレクシアは幼少期に交通事故で頭蓋骨にチタン製の鉄板を入れた20代の女。彼女は性格が異常に凶暴で、まともな人間関係を作れずにいたが、ある夜に自動車とセックスすることでおそらく金属製の赤子を妊娠する。やがてトラブルがきっかけで友人や両親を連続で殺してしまい、指名手配を掻い潜って逃亡し、変装して10年前に誘拐された男子になりすまして民間消防署を営む男の家に転がり込む。彼女は病院には行けなかったが、膣からオイルが漏れたり、母乳がオイルだったり、異常が続く。男は現在は独身でやがて彼女の嘘に気づくが、彼女を息子として受け入れて、彼女が死産になりながら産んだサイボーグ赤子を育てることを決意する。

センスオブワンダーすぎる!(笑)

ただなんか日本で90年代以降に流行ったシュール系の漫画を読んだことがあれば、意外と馴染めるというか、飲み込みやすい物語だと思いました。今30代後半から50代くらいまでのサブカルOKピープルが好きそう、みたいな。(笑)

考察していきましょう。

●主人公は人間と関係を築けないオタク

映画冒頭で乗用車の後部座席に座るアレクシアはエンジンの回転数に合わせてうなるという遊びをしています。運転していた父親が注意しているとアレクシアは次第に反抗的になり、ついにはシートベルトを外して暴れ出してしまい、それが父親の前方不注意につながり車は事故を起こすのでした。クルマと一緒に遊ぶことを邪魔されてアレクシアは事故に遭ったのです。

緊急手術で一命を取り留めたアレクシアが退院できて、一番最初にしたのは家路に就くための車(事故を起こしたものと同一車両だと思われる)に抱きついて窓ガラスに再会のキスをすることでした。あれだけ酷い事故に遭っても彼女はまだクルマが好きなのです。

そして成長したアレクシアはストリップダンサーになって踊りますが、ここでも自動車の展示会のようなセットで、ボンネットや天井に登って挑発的なダンスを踊ります。やはり彼女はクルマと繋がりがある生活を続けているようです。

一方で、人間とは良好な関係を築けていません。同僚のダンサーとのやり取りですぐに暴力的になったり、ある新人のダンサーと仲良くなりそうになっても身体的に傷つけてしまいそうになったり、出待ちをしていたファンの男がしつこくて強引にキスしてきた拍子にヘアピンで耳孔を突いて殺してしまったりします。

主人公は自動車としか良好な関係が築けない、つまり人間と深い関係を築けない特性を抱えています。これは、現代社会において人間と関係を築かないでも平気な人々や所謂『オタク』の生き方と通じるものがあります。

●機械とセックスして子供ができる

そんなある夜アレクシアは目覚めて車庫に行き、自動車とセックスします。結合部分がどうなっているのか映像では語られませんが、位置関係的にはおそらくギアチェンジのバーを膣に挿入しているのでしょう。セックスしてる最中は車がぽんぽんホッピングするのは不気味を通り越して滑稽ですらあります。

それだけなら、まあ「探せば見つかりそうな話」なのですが、この映画ではそこからアレクシアが妊娠します。そこがこの映画の一番ぶっ飛んでいるところですね。

妊娠検査薬でポジティブが出るところまでは「まさかね、思い込みかもしれないよね」くらいに思って観ていたのですが、そのうち膣からオイルが漏れてきたり、膨らんだお腹の皮膚が裂けた部分から金属板が見えたり、膨らんだ乳房からおっぱいの代わりにオイルが染み出してきたり、完全に「金属製の何か」との妊娠を示す証拠がどんどん提示されていきます。

なんだこの気持ち悪い状況は!

●ジェンダーが不明瞭になっていく

アレクシアは物語序盤から同性愛者であることが示唆されます。男性は拒否するのに、女性とはセックスしようとします。(かと思っていたら、そういうのをぶっ飛ばして自動車と交わるのですが…)

そして、さらに驚くべきことに、アレクシアは警察から逃亡するために、10年前の失踪事件の少年になりすまし、つまり男性に偽装して逃亡を図ります。確かに女性として指名手配されている段階で、男性の身分を騙るのは警察の目を欺くために効果的なのかもしれませんが、だとしても無理がある話です。

しかしアレクシアには絶対に成功するという信念があって、サラシを巻いておっぱいとお腹の膨らみを隠し、スラリと伸びた綺麗な鼻筋を自分でへし折るという「簡易整形手術」をしてまで、その目的に一直線に行動します。

果たして、父親は警察に出頭したアレクシアを10年前に失踪した息子であると認めて、家に連れて帰り、そのまま息子として世話します。アレクシアの作戦は成功しました。

男は民営の消防署を営む社長で、線の細いアレクシアを強い男に育てるべく少しずつ消防士たちの訓練に参加させていきます。若い男たちは筋骨隆々で力強く、突然現れたアレクシアに戸惑いますが、誘拐されて15年も監禁されていたならあんな風貌にもなるだろうと社長の命令に従います。

その社長はそれなりに高齢なのですが、筋肉モリモリで男らしい人物です。消防署の若い衆からの信頼も厚いようです。しかし彼がそんな身体を維持できているのは、夜な夜な自分でお尻に注射器で打っている男性ホルモンのお陰なのでした。つまり、彼もまた「まやかしの男らしさ」で作り上げられた人物だったのです。

一方で、消防署のナイトパーティーで悦に浸ったアレクシアが無意識的に女らしいダンスを踊ったときに拒否反応を示した若い男達もまた、女性化する男性を象徴していたと思います。一昔前の映画だったならアレクシアは女だと見抜いてエッチなことをしようと考えるバカ男キャラが必ず出ていたはずです。しかし本作ではそういう本能的で天然物のオスを発揮する男性キャラは一人も出てきませんでした。彼らもまた「まやかしの男らしさ」だったのです。

本当は女なのに男として育てられ、しかも自動車との子供を妊娠している。そして周りを囲む虚実入り混じった男らしい人々。もう意味がわかりません。これは私たちが現代社会で感じているジェンダーの定義の揺らぎを想起させます。

昨今のオリンピックなどスポーツ競技ではトランスジェンダー女子が大きな話題となっています。カラダは男でココロは女の選手が成績上位者になることはあっても、その逆ではほとんど例がなく、ぶっちゃけ不公平な印象が付き纏います。思い返せばチャイナなどの男性ホルモン投与のために古典的な女性らしさがほとんど失われた選手の問題は昔からありました。身体的特徴なのか、心の問題なのか、ホルモンバランスなのか、それまでのシンプルだった男女の定義を覆す新しい理論をふっかけられて世界は混乱しています。

●『情報』を信じることが重要で『事実』の意味は弱まる

社長は失踪事件の後に離婚した女に連絡を取りました。そこで女はすぐにアレクシアが女であることを見抜きます。しかし彼女はその事実FACTを元夫に突きつけるようなことはせず、二人きりの時にアレクシアに対して「彼が信じてTRUSTいる情報INFORMATIONを裏切るな」とだけ釘を刺すのでした。

これもよく世相を反映しています。

私たちは良くも悪くも情報化社会に生きています。例えば、ある絵画があったとして、それがどれだけ美しいかとか自分が好きであるかということではなくて、何年に誰が描いたかという情報INFORMATIONによって値段が決まります。例えば、ある高級ブランドのバッグは、どんな素材でどんな丈夫な縫合で何キロまで収納できるのかという目的に沿った利便性などではなくて、まさにどこのブランドのものなのかという情報INFORMATIONで価値が決まります。例えば、あるドラムがあったとして、それがどれだけ良く鳴るかとかどれだけ丁寧に仕上げられているかではなくて、どこの工場で製造された何の機種なのかというカタログ上の情報INFORMATIONによって値段が決まります。

私がある筋の人から直接聞いた話では、90年代以降の楽器市場では工場による自動生産が進んだこともあり職人による調整が入る余地がなくなり、本当に出来が良い個体は全てエンドース契約しているプロミュージシャンに回されて、一般市場(つまり街の楽器屋)には無調整の失敗作しかほぼ出回っていないとのことでした。しかし一般の消費者は「このモデルはあのミュージシャンと同じだ」という情報だけでその楽器に価値を見出して、お金を払います。

このような事例は枚挙にいとまがなく、高度に情報化が進んだ現代社会では完全に避けて通ることは出来ないでしょう。もはや我々はモノ自身の事実FACTではなくて、誰かだ定めてくれた情報INFORMATION信用TRUSTして生きるほか無いのです。

しかし、信仰とは本来そういうものです。そして人間は何かを信仰しなくては生きられない者でもあります。それが絵画であれ楽器であれ、あるいは政治であれ戦争であれコロナであれ、人間は何かを信じなくては、強い意志で行動を起こせるものではありません。

だからこそ社長の元妻は「彼の信仰を裏切るような行為はするな」とアレクシアに忠告したのでしょう。

映画が進むにつれてアレクシアの事実FACTは隠せなくなっていきます。鼻は元に戻って、お腹は大きくなって、ついに臨月を迎えます。しかしその時に社長が選択したのが事実FACTではなく情報INFORMATIONでした。「お前が誰であっても、お前は私の息子だ」この言葉に全てが詰まっています。

それはアレクシアが警察に出頭したときに警察官からDNA鑑定を勧められても拒否した時から始まっていました。社長はDNAで示される事実FACTよりも、社長自身が信仰TRUSTしている情報INFORMATIONを選んだのです。

映画『チタン』ではそれをジェンダーとセックスという、現代社会がセンシティブになっている事柄を使って、提示している作品だと言えるでしょう。

●これは「新しい聖書」なのか?

男性経験がないのに妊娠するストーリーといえば、聖書の受胎告知です。聖母マリアは処女でありながら天使のお告げを受けてイエス・キリストを妊娠しました。この映画で示そうとしているのも、そういうことなのでしょうか。人智を超える何かが女性の胎内に宿るという。

しかし本作の場合は肉体的にセックスしている点が大きく違いそうです。妊娠したタイミングでスポーツカーと一度、出産する直前に消防車と一度、アレクシアが自動車とセックスする描写が本作には含まれます。あくまで『処女』を貫き通す聖書とこれは大きな違いです。少なくともアレクシアはヤッてるんです。

そのどさくさに他の人間の男とセックスしていた事実があるかどうかは描かれていませんが、映画で描かれていた自動車的な表現(金属やオイル)は全てアレクシアの脳内変換で、実際は普通に血や母乳だったものがアレクシアにとって愛しいもの(自動車に由来するもの)に置き換えられて表現されていただけという可能性はあります。

つまり、処女で妊娠したとされているキリスト教の聖母マリアだって、本当は男性とセックスしていたけれど、それを『信仰』によって「事実を捻じ曲げていただけ」とも取れる、ということを示しているのかもしれないと私は考えました。

《*あくまで解釈だとも取れるという選択肢の話であり、キリスト教への信仰を否定する意図は私にはありません》

しかし先程も言及した通り、この映画では登場人物が「自動車との妊娠を疑うシーン」は一度たりとも出てきませんし、むしろ『フェイクでも情報を信じる人々』を肯定的に描いています。

ここから、要するに聖書をはじめとしたあらゆる信仰TRUSTへの「肯定でもあり否定でもある」という、そういうアンビバレントな属性にとことん拘った映画なのかな、と感じました。

●映画TITANEのテーマが現代社会で持つ意味

本作がフランスで公開されたのは2021年でしたが、奇しくも日本で公開された2022年4月はロシア・ウクライナ危機の真っ只中です。今回の『戦争』で重要なのは、メディアだけでなくSNSまでフル活用した、情報INFORMATIONを巡った戦術が要である、まさに21世紀型のニュータイプの戦争であるということです。

日本の世論では圧倒的にウクライナ支持が多数派のようですが、実はNHKや日本の民放各社(大手新聞社)から流れてくる情報は元を辿ればCNNやCIAに由来する西側諸国(主にアメリカとイギリス)のものばかりであり、一方的な情報にほぼ完全に占拠されています。

しかし映画や映像にある程度詳しい人がウクライナから送られてきたとされる映像やニュースを観れば、幾つかの中には「これはプロの仕業ではないか」と思わせる匂いが感じ取れるでしょう。日本でいう電通のような広告代理店が絡んだようにしか見えないものが散見されます。中にはSNSで投稿されたとされる映像でさえ違和感を持つものがあります。

またロシア側の情報や理論にも詳しくなると、メディアで報道されているのとは違った姿やストーリーが見えてきます。この十数年間の両国の政治的な経緯や、さらには何百年間の歴史を知っていれば、本来は「どちらが正義でどちらが悪か」みたいな簡単な話ではないのが事実FACTなのですが、ほぼ完全に「ロシア=悪」というシンプルな信仰TRUSTに染まっている日本の世論を見ていると悲しい気分になります。

民族間の対立や論理は、全ての国境を海に囲まれほぼ単一民族の国家として2600年以上を過ごしてきた日本では理解しにくいという側面があります。事実、陸続きの大地に民族が共存して戦争慣れしているヨーロッパ各国では、一方的なアメリカのロジックに疑問を呈する報道や政治的アクションも見られます。中央アジアになればその傾向はさらに強いです。ITが発達して莫大な情報にアクセスできるようになった現代で、ロシア・ウクライナ両国から提示される情報を彼らは慎重に見極めて行動しています。

つまり、ウクライナ危機(あえて中立な立場を取るために戦争という語句は避けたいです)は、何を信じるTRUSTかが過去に類を見ないくらいに重要な事象となりつつあります。このままアメリカ側(ウクライナ)が勝利すれば、数千年後には旧約・新約に続く『第三の聖書』として人類に読まれているかもしれませんね。

了。

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