見出し画像

ラヴェル、君も異端児だったんだね…【モーリス・ラヴェル伝説】

ボレロ」や「展覧会の絵」のオーケストラのバージョンは、クラシックに詳しくないという人でも、テレビなどで1度は耳にしたことがあるのではないでしょうか??

ピアノの楽曲では「水の戯れ」などが有名で1901年に完成したこの美しいピアノ曲は印象主義の音楽で初めての成功作とも言われています。

このラヴェルにドビュッシーとサティを加えた3人。今でこそ人気の作曲家ですが、当時はフランスの音楽界で異端児として扱われていました。


今回は、激動の時代を生きたフランスの作曲家、モーリス・ラヴェル特集です!

エピソード1:作曲家界のオシャレさん?!

フランスに生まれ、フランスに没したラヴェルですが、彼にはアメリカ各地を演奏旅行をして回った経験があります。
驚きなのは、そのとき彼が持っていった服の量。
パジャマが20着、チョッキとYシャツがそれぞれ12着、ネクタイにいたってはなんと57本!!
運送技術が発達したいまでも、ネクタイを57本も渡航先に持っていく人は、なかなかいないのではないでしょうか。
作曲家の中でも、ラヴェルはかなりオシャレさんだったようです。

エピソード2:パイロットに志願するも…?!

第一次世界大戦中、ラヴェルはフランス軍のパイロットに志願します。しかし当時のラヴェルは約40歳、そして虚弱体質であったため、その希望が叶うことはありませんでした。その代わり、1915年3月にトラック兵として登録され、戦場で荷物の運搬をしていたようです。

エピソード3:ラヴェル事件

フランス音楽界の登竜門とも呼ばれ、フランス国家が優れた芸術家に授与していたローマ賞…(ちなみにローマはイタリアの地名)
その第1位にあたるのが『ローマ大賞』です。
ラヴェルは1900年から1905年にかけて、この賞を獲得すべく奮闘しました。
しかし……
彼の最高成績は1901年の第2位。
1902年と1903年には最終選考に残ることもできず、1904年にはエントリーそのものを見送り、年齢制限により最後の挑戦となった1905年は予選の段階で落選してしまいました。
しかしこのときラヴェルは、この記事の最初で紹介した「水の戯れ」など、優れた作品をいくつも発表していました。

そんな彼が予選落ちしたことは、音楽批評家たちの間に波紋を呼び、様々な音楽家たちが抗議を表明します。
さらに1905年の予選通過者6名が、全員パリ音楽院の作曲科教授であり、同じ先生に師事していた…ということも、コンクールの公正さを欠くと指摘され問題視されました。
大きな問題に発展し、当時のパリ音楽院の院長が辞職するまでとなったこの一件は、「ラヴェル事件」として知られています。


エピソード4:ノミネートされた勲章を拒否

ラヴェル事件によって、さらにその名が広がったラヴェルは、アメリカでの演奏旅行などを経て、フランス音楽界の寵児となります。
フランス政府は何度も「レオン・ド・ヌール勲章」を受け取るようにラヴェルに促してきましたが、ローマ大賞の一件で深いトラウマを残していたラヴェルは、決してこの話に乗りませんでした。

エピソード5:最愛の母へ

1917年1月15日、ラヴェルの母親は76歳でこの世を去ってしまいました。
生涯最大の悲しみに、ラヴェルの創作意欲は極度に衰え、1914年にある程度の形が作られていた「クープランの墓」を完成させた以外、そこからの3年間は新曲を生み出すことができず、1920年以降も、執筆のスピードは1年に1曲程度と極端に落ち込んでしまいます。
ラヴェルはこのことを手紙に「日ごとに絶望が深くなっていく」と綴り、この言葉に、彼の痛切な感情が現れているように感じられます……。

オシャレで神経質な独身貴族であったラヴェル。
彼は1932年に自動車事故で打撲症を負い、これを境に手足の自由がきかなくなり、文字を書くこと、言葉をスムーズに話すこと、楽譜に書き起こすことが、だんだんと出来なくなっていきます。
1937年12月28日、脳の手術を受けるも虚しく、彼は62歳の生涯を閉じました。

モーリス・ラヴェルの作品には、卓越した管弦楽法や緻密な音楽の書法で描かれた、繊細かつ美しい、そしてダイナミックな楽曲が、多く残されています。
気になった方は、ラヴェル独特のテイストの音楽を、ぜひ聴いてみてください!

#音楽 #JAMCA #クラシック音楽 #JAZZ #学生団体 #音大 #音大生 #イベント #music #musiccollege #演奏家 #JAMCA新歓 #モーリスラヴェル

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?