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音楽的美術と美術的音楽

 古典主義(classicism)、浪漫主義(romanticism)、そして写実主義(realism)。この三つの概念は、美術・音楽・文学などの区分を超えて近代西洋芸術史の広範囲に重大な影響を及ぼした(ただし唯一音楽には写実主義がほぼ見受けられないが)。それゆえこれら三つの術語は非近代非西洋の芸術を批評する際にもしばしば用いられる。しかしここで語彙の定義が問題となる。写実主義はともかく、古典主義はギリシア=ローマの「古典古代」を理想とする美学であり、対する浪漫主義は「ロマンス的な=俗ラテン語的な」文化を理想とする潮流である。語源から西洋的であるこれらの概念を敷衍して非西洋の芸術を語ることなど、果たして可能なのだろうか。
 このような疑念に応えるべく、私はこれら三概念を改めて定義し直すことにした。この作業によって三概念は時代的地域的拘束を免れ、真に普遍的な術語として用いることが出来るようになるだろう。また同時にその作業は芸術の本質を「ミメーシス(模倣)」であるとするアリストテレス美学への批判にも繋がるはずである。
 なお本稿では美術と音楽を主な例として扱う。文学は本稿において補助的にしか扱われていない。私は、言語芸術の起源を言語的に問うという危険を冒したくなかったのである。

美術的美術と音楽的音楽……古典主義

美術の起源

 美術的美術とは何か。デカルト以来、私たちは人間を内面と外面という二つの側面に分けてきた。外面は空間的広がりを持つが内面は空間的広がりを持たない。よって外面は時間と空間の両方に位置を占めるが内面は時間の上にしか位置を占めない。そして美術(すなわち絵画および彫刻)は空間的広がりしか持たず時間的広がりを持たない。よって美術的美術とは、「人間を内面からではなく外面から描写する美術」であると言うことができる。

敵を滅ぼすツタンカーメン、紀元前14世紀

 これは人類文明がその青年期に制作した絵画である。古代エジプトの歴史を全く知らない者であっても、「ここに描かれた人物のうち最も偉大とされている者は誰か」と問われたら間違いなく戦車の上のツタンカーメンを指差すだろう。ファラオと彼の戦車はひときわ大きな姿で描かれ、対する右側の敵は同情したくなるほど小さく惨めに押し潰されている。左側の従者もファラオに比べれば犬猫のように小さい。ここでは権力構造が視覚的な大小関係として示されているのだ。
 この絵にはもう一つ重大な特徴がある。それは、敵味方を含む全ての登場人物に表情が無いということだ。右側の敵は押し潰されているにもかかわらず悲痛に呻こうとしない。ファラオもまた圧勝しているにもかかわらず雄叫びを上げようとはしない。この絵には人物の内面が全く描かれていないのだ。この絵はただひたすらに、ファラオとそれ以外の人間を隔てる権力構造のみを描写しているのである。
 私は、美術とはその起源において「集合写真」のようなものだったのではないかと考えている。集合写真に豊かな表情は必要ない。せいぜい全員が真顔か、全員が笑顔かのどちらかである。むしろ集合写真においては人物の配置こそが重要な意味を帯びる。内側か外側か、前方か後方か、立っているか座っているか。そのような細かい配置の差によって、集合写真はその集団における権力構造を表現するのだ。
 エジプトに限らず、あらゆる文明は青年期において「集合写真」に似た美術様式を通過する。古代ギリシア文明におけるアルカイック様式、キリスト教文明における東方のビザンティン様式と西方のロマネスク様式、メソポタミア文明における新アッシリア様式、日本文明における飛鳥様式など、その例は枚挙に暇がない。

キリストと使徒たち、11世紀末~12世紀初

「集合写真」的な美術様式において人物の顔は一様に表情を拭い取られた状態で描かれる。そのような描写は、作中人物の「配置」のみを強調しようという意図によるものである。しかし近代の批評家にはその顔にかえって深遠な心理が宿っているのだと主張する者が少なくない。彼らは法隆寺の釈迦如来にモナ・リザのごとき神秘を見出してしまうのだ。私はそのような鑑賞態度を否定する。アルカイック・スマイルに神秘を感じる者は近代的「芸術」概念を古代に投影しているにすぎないのである。たしかに古代人は表情を描写しなかった。しかし現代の私たちも履歴書の証明写真やトランプカードの絵札や紙幣の肖像画に表情を付け加えようとはしない。両者の間にいかなる差があると言うのだろう。
 以上の通り、原初において美術とは人物の「表情」を描写する技術ではなかった。むしろ美術とは人物の「配置」を描写する技術だったのだ。美術とは人間の内面の心理状態ではなく、外面の権力構造を描写する技術だったのである。そしてこのような美術の性質は時代を超えて今に存続している。家族であれ内閣であれ、人々はまさしく「集合写真」によってその権力構造を視覚的に表現し続けているのだ。「配置」が本質であるという点において、美術とは非常に政治的な芸術であると言える。

現代中国における美術的美術
毛沢東思想の宣伝ポスター、20世紀

音楽の起源

 美術が空間的広がりしか持たない芸術であるのに対し、音楽は時間的広がりしか持たない芸術として捉えることができる。(より科学的には音もまた空間的事象なのだが、ここでは問題とならないだろう。)それゆえ前述の論理に従うならば、音楽的音楽とは「人間を外面からではなく内面から描写する美術」であると言うことができる。
 本節では前節同様、音楽という芸術が起源において「音楽的」であったということを論証していきたいと考えている。しかしここで一つ問題が生じる。過去の美術については世界中に多くの資料があったが、過去の音楽についてはほぼ西洋にしか資料を見出すことが出来ないのだ。それゆえ私はこれより西洋からの類推を中心に音楽史を語っていくこととなる。
 音楽は音源によって声楽と器楽に分かれ、声部の個数によってモノフォニー・ポリフォニー・ホモフォニーに分類される。

  • モノフォニー……単一の旋律からなる音楽

  • ポリフォニー……複数の旋律からなる音楽

  • ホモフォニー……旋律と伴奏からなる音楽

 現代において再現が可能な最古の西洋音楽であるグレゴリオ聖歌は、上記の分類においてはモノフォニーの声楽である。現代に連なる西洋音楽の歴史は、モノフォニーの声楽を起源としているのだ。そしてその後、音楽の歴史はおおよそモノフォニー~ポリフォニー~ホモフォニーの順に発展していった。いくつかの例外を除き、他の地域においても音楽はモノフォニーの声楽を起源としている。(また私はいくつかの例外についてもそれ以前の様式が保存されていないだけではないかと考えている。)モノフォニーの声楽こそが音楽において最も原始的な形式なのである。

『グレゴリオ聖歌』より「怒りの日」、13世紀
「通りゃんせ」、年代不詳

 基本的に人間は単一の声部しか同時に歌うことが出来ない。それゆえ、声楽において異なる声部は異なる空間に配置されなければならない。しかしモノフォニーであれば異なる地点に人間を配置しなくてもよい。単一の旋律である以上、一人で歌っても構わないからだ。オーケストラや合唱隊を左右に並べなくてもモノフォニーは演奏できる。このように考えると、モノフォニーは「空間的広がりを持たない芸術」である音楽の中でもより一層空間的広がりを持たないと言うことが出来るだろう。モノフォニーの声楽こそが、形式において最も音楽的な音楽なのである。
 ここまで私は音楽的音楽の形式について論じてきた。ここからはその内容について論じていきたい。声楽は曲と詞から成り立つ。曲についての記録はグレゴリオ聖歌までしか遡れないが、詞についての記録はより古い時代にまで遡りうる。たとえば旧約聖書の詩編なども本来は旋律を伴っていた。

主よ、憐れんでください
わたしは苦しんでいます。
目も、魂も、はらわたも
  苦悩のゆえに衰えていきます。
命は嘆きのうちに
年月は呻きのうちに尽きていきます。
罪のゆえに力はうせ
骨は衰えていきます。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』詩編31編10~11節

 伝承によると上の詩はダビデによって書かれたものである。さて、この詩はダビデが王者に相応しい人物であることを示しているだろうか。古代エジプトの画家がツタンカーメンをファラオに相応しい人物として描いたのに対し、この詩はダビデの立つ地位を何ら誇示していない。むしろこの詩は語り手の外面的地位ではなく、その内面的心理こそを強く表現しているように感じられる。美術的美術においては「表情」が消され「配置」が描かれていたが、音楽的音楽においてはむしろ「配置」が消され「表情」が描かれるのである。
 美術的美術は「汝は何に属すか」を示すが「汝は何を思うか」は示さない。音楽的音楽は「汝は何を思うか」を示すが「汝は何に属すか」は示さない(詩編の作者がダビデであろうとなかろうとその内的価値は変化しない)。美術は外面的であるが故に「法」を描く芸術であり、一方音楽は内面的であるが故に「倫理」を描く芸術である。より単純化するならば、美術が政治的芸術であるのに対し音楽は宗教的芸術である、と言うことができるだろう。

 以上の通り、美術的美術は美術史において、音楽的音楽は音楽史において、それぞれ古典的な段階を占めている。また「古典主義」という語は一般に「形式と内容の一致」を表すと考えられているが、美術的美術や音楽的音楽においては当然に形式と内容が一致している。また次章で示すとおり、近代西洋における「狭義の古典主義」は「美術的美術」や「音楽的音楽」にほぼ含まれる。それゆえ私は人類文明の青年期における美術的美術や音楽的音楽を、非西洋にまで拡張された「広義の古典主義」の模範として捉えたい。

音楽的美術と美術的音楽……浪漫主義

 ルネサンスとは西方キリスト教世界に「音楽的美術」や「美術的音楽」が誕生した時代であった。美術が「表情」を、音楽が「配置」を、それぞれ探求し始めたのである。ルネサンスを端緒とするそのような変化は幾度かの進歩と反動を経て近代芸術を形成していった。そして近代芸術においては、冒頭で述べたとおり「古典主義/浪漫主義/写実主義」という三概念の拮抗が美学の基礎となった。写実主義については後述するとして、ここでは古典主義と浪漫主義の相違を簡単に見ていきたい。
 美術史において古典主義とは色よりも形を重視する者を、浪漫主義とは形よりも色を重視する者を指している。一方音楽史において古典主義とは標題音楽よりも絶対音楽を志向する者を、浪漫主義とは絶対音楽よりも標題音楽を志向する者を指している。形と絶対音楽が、色と標題音楽が、それぞれなぜ一つの思想に結びつくのかこれでは分からない。個別の歴史から帰納しても普遍的な「古典主義/浪漫主義」概念は掴み取れないのだ。
 ここで先ほどまでの区分が重要となる。古典主義は「美術的美術と音楽的音楽」を志向しており浪漫主義は「音楽的美術と美術的音楽」を志向しているのだ、と捉えれば、美術史と音楽史の両方における「古典主義/浪漫主義」概念を総合することができるのである。より簡潔には、古典主義が「形式と内容の一致」を求めているのに対し浪漫主義は「形式と内容の交差」を求めているのだ、と言うことができるだろう。

 ここからは、美術と音楽という二つの芸術分野においていかなる変容が起こったのかを具体例を交えながら見ていきたい。

美術の変容

 ルネサンス以後、西洋美術は「表情」の描写を劇的に深化させた。しかしそれでもなお「配置によって権力構造を示す」という美術の本質は失われなかった。むしろそのような美術の機能は、技術の発展に伴ってより高度な形で再演されたのである。下の絵を見てほしい。これはルネサンスを象徴する作品だ。たしかにこの絵にはルネサンス的な革新性がみなぎっている。しかし同時にこの絵は「配置によって権力構造を示す」という美術的美術の性質を保持し続けている。この絵は革新的であると共に、美術の起源に繋がる「古さ」、すなわち復古性(まさにルネサンス!)をも帯びているのだ。

ラファエロ『アテナイの学堂』、1509~1510

 むしろ美術において「配置」の性質が薄まったのはバロック以後のことである。下の絵を見てほしい。ベルシャザル王はたしかに画面の中央に配置されている。しかしこの絵はもはや配置によって彼の権力構造を示してはいない。むしろこの絵は彼の権力構造が崩壊する瞬間、その瞬間の人々の表情を雄弁に物語っているのだ。この絵においてレンブラントは静ではなく動を、配置ではなく表情を描いたのである。そしてそのような意味において、この絵は「音楽的美術」であると言える。

レンブラント『ベルシャザルの饗宴』、1635~1638

 時はくだって近代。前述したとおり、美術界は古典主義と浪漫主義という二つの潮流に分かれた。古典主義の代表はアングルであり、浪漫主義の代表はドラクロワである。一般的には、アングルは色よりも形を、ドラクロワは形よりも色をそれぞれ重視したと言われている。

アングル『ホメロス礼賛』、1827

 上の絵はアングルの代表作である。ここまでの文章を読んできた者は、私がこの絵を「美術的美術」と呼ぶことに何ら疑問を覚えないだろう。筆致は立体的だが表情の変化は乏しい。まさに集合写真だ。
 一方、ドラクロワの代表作はこちらである。

ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』、1830

 読者の中には、この絵もまた『ホメロス礼賛』と同様に集合写真的ではないかと訝しむ者もいるかもしれない。たしかにこの絵において自由の女神は『ホメロス礼賛』のホメロスと同じく中心的な位置を占めている。しかし丁寧に鑑賞すれば上記の疑念は解消する。ツタンカーメンの従者同様、ホメロスの周囲の偉人たちはほぼ表情を変えていない。しかしドラクロワは民衆に豊かな表情を与えた。女神の右に立つ二丁拳銃の少年に至っては女神以上に豊かな表情を浮かべている。手前に倒れたいくつもの亡骸も、ツタンカーメンの敵とは違いそれぞれ個性的な色彩を与えられている。ツタンカーメンは戦いに勝っても凱歌を上げなかったが、ドラクロワの描く民衆はラ・マルセイエーズを叫んでいてもおかしくないように見える。このような絵は紀元前には存在しなかった。ドラクロワは、「音楽的美術」という全く新しい美術を創造したのである。

ドラクロワ『サルダナパールの死』、1827

 この絵においてドラクロワの音楽的性格はより分かりやすく表現されている。主人公たるべきサルダナパールは後景に追いやられており、観衆の眼差しは必然的に前景の動的な惨劇へと向かっていく。構図は非対称的であり、男女の表情は鮮やかに描き出されている。この絵においては、主人公サルダナパールこそが最も無表情であるとすら言える。かれは画中にありながらまさに観客のように事態を眺めているのである。

音楽の変容

 ルネサンスは音楽にも多大な影響を及ぼした。ルネサンス期、西洋音楽はポリフォニーを極限まで深化させたのである。ギヨーム・デュファイ、ジョスカン・デ・プレ、パレストリーナ等の作曲家によって対位法(ポリフォニーの理論)はより高度なものへと発展していった。旋律が単数から複数になったことにより、ルネサンス音楽は音楽的音楽から絵画的音楽へと変容しつつあったのだ。

 しかし音楽のさらなる発展を快く思わない者がいた。カトリック教会である。彼らはポリフォニーによって賛美歌の歌詞が聴き取れなくなることを嫌ったのだ。そのような圧力もあり、ポリフォニーは徐々に衰退していった。対位法的と称されることの多い大バッハ(バロック期)も、パレストリーナに比べればよほどホモフォニー的だ。美術の変容はバロック期に発展したが、音楽の変容にとってバロック期は反動の時代だったのである。あるいは、ルネサンス期が美術も音楽も美術的な時代であったのに対しバロック期は美術も音楽も音楽的な時代であった、と言えるかもしれない。

 かくしてポリフォニー中心の時代は終わり、代わってハイドンやモーツァルトやベートーヴェンといった古典派によるホモフォニー中心の時代が始まった。ハイドンの時代において古典派の音楽は非常に音楽的だった。しかし編成の規模が拡大するにつれて必然的に音楽は「配置によって権力構造を示す」という美術的性質をも有するようになっていった。より時代は下るが、「指揮者」という職業(聴覚でなく視覚によって音楽を統御する職業)の誕生によってオーケストラは完全に美術的となったのかもしれない。音楽の内容は未だホモフォニー中心(音楽的音楽)であったにもかかわらず、音楽の形式は急速に美術的なものへと変容していったのである。
 ベートーヴェンの死後、方針の相違によって音楽界は二つの潮流に分かれる。そう、古典主義と浪漫主義だ。古典主義の代表はブラームス、浪漫主義の代表はワーグナーである。
 ブラームスが古典派の様式を保守しようとしたのに対し、ワーグナーはそれまでの「音楽的音楽」をより浪漫主義的に変容させようと考えた。しかしルネサンス期へ後退する訳にも行かない。そこで彼は荒業を用いた。彼は「楽劇」という新たなジャンルを創設することにより、音楽と美術を無理やり合体させてしまったのだ。浪漫主義の本質が「形式と内容の交差」である以上、彼が浪漫主義の完成者と見なされているのも当然である。

 ここまでの記述を表にすると次のようになる。

 以上の通り、近代西洋における音楽的美術や美術的音楽は美術的美術や音楽的音楽の発展として生じた。古典主義が発展すると、そこから脱却するように浪漫主義が生じるのである。もっともこれは近代西洋に限った話ではない。前章において私は「古典主義」を非西洋にも当てはまる術語として用いたが、古典主義が普遍的たり得るならば浪漫主義もまた普遍的たり得るのだ。西洋であれ非西洋であれ、古典主義から浪漫主義への発展は多くの文明に見出すことのできる芸術史の一段階である。

解体の美術と音楽の解体……写実主義

 前章において私は、浪漫主義が古典主義からの脱却として生じるメカニズムを説明した。しかしここで疑問が生じる。古典主義や浪漫主義がいかに生じたかについては分かったが、写実主義は一体いかに生じたのだろうか? 今まで私は美術や音楽の起源を模倣(ミメーシス)ではなく、むしろ美術や音楽それ自体の形式に求めてきた。一方、写実主義とは読んで字のごとく模倣(ミメーシス)を美とする美学である。芸術の内部ではなく外部の自然に美を求めようとする写実主義は、一体どのようなメカニズムで発生するのだろうか?

解体の美術

 ここまで私は古典主義や浪漫主義といった美学を非西洋にも適用し得るように普遍化してきた。写実主義もまた、それらと同じく非西洋にも適用し得る概念である。むしろ西洋の写実主義は、より古い時代に生じた写実主義の再演でしかないのである。

ネフェルティティの胸像、紀元前14世紀
Wikimedia Commonsより CC 表示-継承 3.0

 この胸像を見ていただきたい。この胸像は前に挙げたツタンカーメンの絵画とほど近い時代に作られたとされている。しかしこの胸像からは(装身具を除けば)エジプト的な形式性がほぼ感じられない。この胸像の作者は、王妃ネフェルティティの顔を(恐らく)本人と何ら違わぬ姿で描いたのである。古代エジプトの長い芸術史において、このような作例はかなり異質だ。
 なぜこの胸像の作者は、古代エジプトに生まれながらこれほどの写実性を実現し得たのだろう。その答えには当時のエジプトの社会情勢が関係してくる。ネフェルティティの夫である王アクエンアテンは、「アマルナ改革」と称される大変革を行なっていたのだ。彼は今まで多神教だったエジプトに「アテン」なる唯一神への信仰を広めようと志した。そして彼は異なる神の神殿を破壊し、既存の神官団と激しく対立し、未だ多神教の根強い旧都テーベを捨て、何もない荒野にアテン信仰のための新都アケトアテン(アテンの地平線という意味)を建設した。現代においてアケトアテンがアマルナという地名であることから、彼の政治改革及び宗教改革は歴史家から「アマルナ改革」と呼ばれている。
 第一章でも触れたとおり、エジプトに限らず古代の美術は並べて様式性に強く支配されている。そしてそのような特定の美術様式は、往々にして特定の社会階級と結びついている。エジプトにおいては神官団がそのような階級であると言える。しかしアマルナ時代、神官団は大規模な階級の変動に晒されていた。アクエンアテンの改革により、既存の支配階級であった神官団は没落を余儀なくされたのである。そしてそれにより既存の美術様式もまた一時的に没落した。そしてそのような美術様式の空白が、アマルナ時代のエジプト人に写実主義を可能とさせた。古代エジプトの写実主義は既存美学の発展によって起こったのではなく、むしろ既存美学の劇的な解体によって生じたのである。
 私は、政治的動乱によって写実主義が生じるのは古代エジプトに限った話ではないのではないかと考えた。こちらをご覧いただきたい。

藤原隆信『伝源頼朝像』、13世紀

 この絵を知らない日本人はほぼいないだろう。日本人が日本人を描いた、非常に日本的な絵画だ。しかし冷静に眺めると、この絵は西洋文明との接触以前に描かれたとは思えないほど写実的である。奈良平安の美術において支配的であった様式性が全く感じられない。
 アクエンアテンが改革者であるように、この絵のモデルだと伝えられている人物もまた改革者であった。源頼朝の挙兵により、日本は奈良平安の王朝時代から長い武家時代へと移行したのである。当然その変革は既存の支配階級であった公家の地位を大きく没落させた。そしてそれにより美術様式の空白が生じた。だからこそ鎌倉時代の美術はそれ以外の時代に比べて格段に写実的なのである。
 近代西洋の美術史においても写実主義は政治的動乱と密接に結びついている。近代西洋の写実主義はクールベというフランス人(1819-1877)によって創始された。周知の通りフランスは幾度もの革命を経験している。そしてそのような国に生まれたクールベ自身もまた、社会主義に近い意識を有していた。アマルナや鎌倉と同じく、フランスの写実主義もまた政治的動乱をその起源としていたのである。ソビエト連邦は「社会主義リアリズム」という美学を公式に掲げたが、ソ連成立以前から写実主義(リアリズム)は常に「革命」と共にあったのである。

ブロツキー『スモーリヌイのレーニン』、1930
社会主義リアリズムの見事な実例

音楽の解体

 ここまで私は、写実主義美術が政治的動乱によって生じることを明らかにしてきた。政治的動乱による既存文化の解体は美術に対して創造的な影響をも及ぼすのである。しかし一方、音楽が政治的動乱によって創造的な影響を被ることは極めて少ない。美術においては既存の様式が解体されても自然の模倣(ミメーシス)によって新たな様式を創造することが可能だが、音楽においては自然の模倣(ミメーシス)がほぼ出来ないからだ。
 音楽と革命の相性の悪さは西洋音楽史を見ても明らかである。産業大国であるにもかかわらず、イギリスはクラシック音楽において大作曲家と呼ばれるべき存在をほぼ輩出してこなかった。ドイツ系移民であるヘンデル(1685-1759)を除けば、19世紀後半の人物であるエルガー(1857-1934)とホルスト(1874-1934)しか挙げることができない。なぜイギリスはクラシック音楽において欧州諸国に遅れを取ったのか。答えは清教徒革命にある。清教徒革命によって政権を握ったクロムウェル(1599-1658)は、自身の宗教的理念に従って音楽を弾圧したのである。既存の音楽界が英国国教会の教会音楽を中心としていたこともあり、清教徒革命によってイギリス音楽の伝統は一度解体されてしまった。そしてそれゆえにイギリスは200年ものあいだ音楽において後進国とならざるを得なかったのである。
 イギリスほどではないが、フランスもまた音楽においてはドイツの後塵を拝する立場であった。1871年に国民音楽協会が創設されるまで、フランスの音楽は器楽よりもむしろオペラなどの劇伴を主としていたのだ。(ドビュッシーやラヴェルやサティなどの優れたフランス人作曲家はみな19世紀末に活躍している。)19世紀においては、産業において先進的であったイギリスやフランスよりも産業において後進的であったドイツやロシアやチェコの方が音楽においてより多くの創造を行なっていたのである。ドイツ、ロシア、チェコ。これらの国は、「19世紀において未だ革命が起こっていない」という点で共通している。革命は往々にして音楽を衰退させるのだ。(以上より、一般に「絵画はフランス、音楽はドイツ」と言われてきた理由も明らかになるだろう。)
 政治的動乱が音楽を衰退させる。私は、このような事態は西洋に限らずあらゆる文明に見られるのではないかと考えている。アマルナ時代の音楽について私たちが窺い知ることは出来ないが、鎌倉時代の音楽については私たちにも知るすべがある。そう、和歌だ。記紀に端を発する日本の和歌は、万葉~古今~新古今という発展を通して徐々に古典主義から浪漫主義へと変容していった。しかし院政時代を境に日本の和歌文学は次第に力を失っていく。和歌が公家という社会階級に結びついていた以上、公家の没落に伴って和歌も衰退してしまったのである。

結論

 以上の論考により、私はあらゆる文明において美学が辿る三段階を提示し終えた。その三段階を簡潔に整理すると次のようになるだろう。

あらゆる文明において芸術は古典主義に端を発し浪漫主義へと発展する。そして写実主義は芸術史の直線的な発展としてではなく、むしろ政治的動乱による芸術史の断絶によって生じる。

考察

 さて、近代西洋における浪漫主義はワーグナーの楽劇(音楽的美術と美術的音楽の合一)によって完成された。それではワーグナー以後の20世紀芸術は写実主義へと向かったのだろうか。たしかに“革命の祖国”ソビエト連邦においてはそのような運動が起きた。しかし全世界的に見ると、むしろ20世紀の芸術は古典主義への回帰であったかのように見える。音楽においてはストラヴィンスキーやヒンデミットが新古典主義の作曲家と見なされており、美術においてもカンディンスキーやモンドリアンの抽象絵画は美術を「表情」の追求から「配置」の追求へと回帰させた。
 しかし私は、20世紀における「配置」の美学はそれまでの古典主義とは似て非なるものなのではないか、と考えている。たしかに古典主義も20世紀芸術も「表情」ではなく「配置」を己の美学の根幹としている。しかし、古典主義の「配置」がそれによって権力構造を示すものだったのに対し、20世紀芸術の「配置」からは権力構造が全く感じられない。20世紀芸術の「配置」は権力構造でもなければ権力構造の反転でもなく、単なる「配置」なのである。イの隣にロが、ロの隣にハが並んでいる。イはロの主人ではない。ロはハの奴隷ではない。ただそれらが並置されている、そのことに20世紀の芸術家たちは美を見いだしたのだ。20世紀において初めて芸術家は権力なき「配置」の美学を創造するに至ったのである。そしてその美学は「古典主義/浪漫主義/写実主義」という古代以来の三美学からの逃走であったと同時に、古典主義以前への、即ち先史時代への回帰でもあった。

パウル・クレー『野外スポーツ』、1922
アルタの岩絵、先史時代
Wikimedia Commonsより CC 表示-継承 3.0

謝辞

 本稿にて私が行なった美術と音楽の対比は、fufufufujitani氏による以下の記事がなければ着想し得なかった。本稿は同氏の直観に対して私が加えた雑多な注釈に過ぎない。

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