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黒井氏の批判に答えて・2

前回はこちら。

前回の文章からの続きですが、私は批評家が存立できるには、研究者が今以上に存在していないと難しいと思います。もちろん批評家の方からの批判は歓迎します。なにも言ってもらえないと寂しいですし。ただ申し訳ありませんが私達が解析した文芸作品が少量すぎて、広範な読書をされている批評家の方が腕を揮えるスペースが小さすぎる。スペースがもっと大きくなったらタコツボになっている私よりも、批評家の方の意見のほうが有益になると思います。

ベテラン税理士ですとバランスシート一瞥しただけで経営状態だいたいわかるそうで、その感覚は実際の経営者や会計担当者より上のはずです。ただ現状、外国文学ですとジョイス、プルースト、カフカ、フォークナーといったあたりにさえ我々は手が出ていない。勉強いただけるほどのバランスシートの束を当方が用意できていない状況です。

話変わって黒井氏のショウペンウハウアーの件ですが、
私も大昔読んだだけなのですが、ショーペンハウアーの理解が私とちょっと違います。
私はこんな感じで理解しています。再読しないとわかりませんが。

耳と目

大多数の人は中間意見を持ちます。

また話変わりまして、物語は、「物自体」を探求できるものではなく、
世界を自分に引きつけてスムーズに理解するためのもの、と考えています。最初っから頑固なエゴバイアスかかっていてそのバイアスの除去は不能だろうと。しかしある程度バイアスを緩和するために、物語のコツコツとした理解が必要なのだろうと思っています。なんか割り切れない話ですが。

人間は究極的には自分にしか興味がありません。他人は自分の延長線上にしか存在しません。
物語が思想哲学に比べて人気があるのは、自分の行動を記述するからです。他人の行動を記述していても、読者は自分の行動と理解します。エゴを仮託した人物に行動をさせて疑似体験をし、世界を理解してゆく、それが物語の根源的な欲求だと思います。自分に当てはめると把握しやすいですから。
「物自体の探求」ではなく、「物自体への興味のなさ・自分に対する濃すぎる興味」が物語を発生させる。ひどい話ですが。

暗記方法で「体に配当して記憶する」ってのがありまして、「ノート→耳」「鉛筆→人差し指」とかイメージ該当させると覚えやすいそうですが、それの時系列バージョンが物語だろうと思います。記憶方法の一種とも言えそうです。

ただその物語も、先程の表の「耳と目」の枠の外に出れるわけではなく、
風景描写中心の物語もあれば、会話中心の物語もあります。
その中で自分なりのポジションを見つけて文学探求をするのですが、
私の場合は目が弱いので、耳よりのポジションになります。すると陰謀論になる。意思としての世界になります。でも人にそれをすすめる気はありません。ピアニストの辻井さんみたいな、全盲かつものすごく耳のいい人だと私以上に陰謀論になると思いますが、インタビューしてみないとわかりません。

耳と目2

先程の図を少し拡張してみました。耳に偏る人と、目に偏る人が居ます。中間は存在します。それが大多数です。しかし両者の間を取り持つ決定的な真実が存在すると、私は考えていません。再現性のある理系実験系は別にして、人文的な見方はついに同一にならない、てゆうか全盲だと見方は一生獲得出来ない、聞き方は獲得できても。

そしてこれは、「物語」にたいしてだけでなく、物事全般に言えることだと考えます。つまり「意思と表象としての世界」あるいは「デュオニソスとアポロン」という対比がなされる以上、思想でもこの個人差は解消できない。人間社会には全盲も全聾も存在し続けるからです。

となると、そもそも思想なるものの優位性はあるのかとの疑念が湧きます。私の見解では、物語固有の頑固なエゴバイアスにもかかわらず、思想は物語に対してさほど優位性がない。無論思想の良いところもありますが、勝敗は本屋の棚で表現されていると考えます。思想の本も並んでいるが、物語、コミックのほうが圧倒的に量が多い。

そしてさらにこれを物語解析に反映すると、「物語解析に特に思想は必要ない」となります。ではなぜ文学系は思想を参照するのか。それでわかりやすくなる部分も若干はあるのだろうと思いますが、大部分は格好をつけるため、美麗な包装用紙としての利用だと考えています。きれいな包装用紙を丁寧に剥がして再利用するのは良い習慣ですが、文芸関係は少々包装に凝り過ぎではないでしょうか、なんぼなんでも。(終わり)

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