見出し画像

感情ってやつは

わたしは人前で感情を見せるのが苦手だ。

それは物心ついた時から自覚がある。小学1.2年生の頃、国語か道徳の授業で先生から指され順番に1つの物語を句読点の「まる」で区切る「まる」読みをする時間があった。みんながただ順番に回ってきた1節を読むだけだ。特に感情を込めてなどとレベルの高い読み方を要求されている訳ではない。しかし1人の女の子は毎回指される度に教科書を持ったまま泣き出してしまう。わたしはその女の子とは放課後たまに遊んだりもする仲だったが、毎回授業中泣き出してしまうその子に「なんで?みんなが待ってるし先生も困ってる、何しろ時間を止めて泣くほどの事だろうか?みんなが困っているよ。。」と人前で泣いてしまう程ツライのであろうその友達の事よりも周りの戸惑っている人たちの心配をしてしまうのだ。

心配されている対象が自分の場合もそうだ。ドッチボールをしていてある男子の投げた強めのボールがわたしの顔面にヒットしてしまった事がある。もちろんみんなはわたしを心配して駆け寄り「大丈夫?!」の嵐が巻き起こる。もちろん痛いし鼻に直撃した事により意と反して涙目にもなる。でもその時のわたしはヘラヘラ半笑いをして当ててしまった男子の申し訳ない顔と攻め立てられ困惑している顔を心配している。

何故だか分からないが感情をストレートに出し、誰かが困っていたり迷惑がっている様子を見たくないと無意識に思い、自分の感情をすぐにしまい込んで隠してしまう。なのでわたしはいわゆる人前ですぐ泣く女や「具合悪い」が口癖の人。舌打ちやあからさまなため息など、誰かにどうしたの?と言われ待ちの人が苦手だ。本人はただの独り言だよ!と思ってるかもしれないが苦手だ。

そのせいかいつの間にか負の感情、喜怒哀楽で言えば「怒哀」この感情を嗅ぎ取るのも得意になっていた。会社で自分には直接害のない問題が部署内で起きていた時、その渦中にいる同僚や上司の不穏な表情や声色を見て取り無駄に空気を読みすぎて不安になっていたりする。

最近は悲しい事件や凄惨な事故のニュースが重なっている。言ってしまえば赤の他人だ。その人の素性も生きてきた歴史も知らない。なのにニュースを見て朝から1人で泣いたり怒りにワナワナしているときがある。そんな自分を俯瞰で見たとき思う、同じような事故や不幸が我が身に、大切な人たちに降りかかった日には耐えられる自信がないと。



何が言いたいかというと、冒頭でも話した通りわたしは人前で感情をストレートに出す事が苦手だということ。しかし振り返ってみると1人で感情を露わに泣いている夜は多かった。人並にツライ出来事も悲しすぎる失恋もあった。そのたびに感情ってやつに振り回されココロが引き裂かれ、深いキズを負って、完治出来ず消えない痣になりじんわり痛みを残している。

わたしは負の感情を露わにしている人が苦手なはずだ。だから自分はそれを隠して今まで25年くらい生きてきた。それが正しいと思っていたから。でもその反面人一倍感情的に生きていた気がするとも思うのだ。感情と行動が矛盾している。

だから最近考える。このままではこの先およそあと30年ほど生きるとして、きっと歳を重ねるごとにココロが弱っていくだろうと。更年期を迎え、体にガタがきて足腰がいうことを効かなくなってきた時、ココロまでボロボロだったらもう見た目はゾンビのようになっている想像しかできない。笑

今も残るいくつかの痣はふとした時にぶわっと大波になって襲いかかってくる。当時と同じくらいの痛みをぶり返してくる。こんなにもあの時の感情を忘れられていない自分に驚く。その時ツラかった感情を思う存分吐き出していたら、親友や家族にしつこいくらいに愚痴っていたら、今もこの気持ちをこんなにも持続して持ち続けていたのだろうかと。



何となく最近、負の感情を消化せずにいくつも持ち続けてることがばかばかしくなってしまった。あるいは疲れてしまったのかもしれない。だからこーやってnoteを始めたのかもしれない。今まで自分の体中に溜まってしまった負の感情を少しずつ吐き出させて欲しかったのかもしれない。対人間へぶつけるにはきっとまだまだ難しい。だからまずはここで文字に起こして少しでも感情を吐き出すことに慣れ、浄化できたらいいな。という期待を込めて。

ダラダラとまとまりの無い始まりになりましたがよろしくお願いします。


この記事が参加している募集

恋愛や仕事あらゆることに感情的にのめり込んでしまう性格。 しかし感情を表現するのが苦手で人生苦戦続き。笑 30代になりこんな自分を打破したいと思いnote始めてみました。 よろしくお願いします◎