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読書録/クワイ河収容所

◼️クワイ河収容所 アーネスト・ゴードン著 斎藤和明訳 
 ちくま学芸文庫 1995年

 映画「戦場にかける橋」で描かれたことで知られる、泰緬鉄道。第二次世界大戦の最中、この地を侵略した日本軍が、タイとビルマを結ぶために建設した鉄道である。映画では日本軍の捕虜となり、その建設に駆り出されたイギリス人兵士たちの姿を描き、歴史に残る名作の一つに数えられている。
 原作は、フランス人小説家ピエール・ブールによるもので(他の代表作「猿の惑星」も映画化され大ヒットした)、悲惨な捕虜収容所を舞台にしながらも、作品そのものは実態とは異なる娯楽小説である。
 著者のアーネスト・ゴードンは、その映画の舞台となったクワイ河捕虜収容所で3年半を過ごした元イギリス軍兵士である。アカデミー賞を受賞した「戦場をかける橋」原作小説を読み、そこに、娯楽小説であるがために描かれた事実とは異なる虚飾があることに気づき、自身が体験し事実として知っていることを伝えたい、という衝動に動かされ、重い記憶の扉を開けて本書を書き上げた。

 ヨット好きのスコットランド人だったゴードンは、第二次世界大戦が始まると、大学を出て自ら志願し、陸軍大尉となり、東南アジア方面へ送られる。侵攻してきた日本軍が破竹の勢いでシンガポールを落とすと、あっという間に敗走を強いられることとなり、現地住民から買い入れた船で仲間とともにスマトラ沖へ出て友軍と合流しようとしたが、途中で日本軍の艦艇に発見され、捕虜として収容所へ送られることとなる。

 イングランドを出て戦地へ向かうときのことを、ゴードンは、世界の果てへ向かって下ってゆく、と表現した。その下り坂はそこでは終わらず、捕虜となって、さらにその下にある、極限状態に置かれてはじめて目の当たりにする人心の深淵にまで降りていくこととなる。

 戦時捕虜の扱いを人道的に行うために締結されたジュネーブ条約があるが、日本軍のそれは条約に違反した非道なものであった。「ライス」だけのとぼしい食事、不衛生で医薬品等もまったく与えられい環境で、捕虜となったゴードンらは、泰緬鉄道建設のための強制労働に駆り出される。飢餓と感染症、そして日本軍将校らの虐待によって次々に仲間たちが命を落としていく中、ゴードンもマラリヤ、アメーバ赤痢といった感染症により重篤な状態となり、もはや手の施しようがなく死を待つだけの者が送られる「死の家」に横たえられるまでになった。

 そこに至るまでにゴードンが見たのは、死んだ仲間の遺骸から必需品や金目のものを剥ぎ取る者、日本兵の残飯を漁るために仲間を押しのけてゆく者など、まさに餓鬼と化した兵士らの姿であった。人間性を奪われた人間の、見るも無残な実態は、書かれた文字を目で追いながらも、まさに目を背けたくなるような惨状である。

 しかし、本書でゴードンが最も「自らの体験」として描きたかったことは、その悲惨な実態もさることながら、そこではない。そんな悲惨な状況の中でもなお、人間性を失うまいと抗おうとする人の魂と、そこに働く神の力こそが、彼の最も伝えようとしていることなのだった。

「死の家」で死を待つゴードンのもとに、ある日、ダスティとディンティという対照的な性格の二人の兵士(捕虜)が訪れ、地べたに横たえられたゴードンの世話をするようになる。寝床を清潔にし、汚れきった体を拭き、ないに等しい食料からおいしい食事を作って持ってくる。彼らの献身的な行為により、奇跡のようにゴードンは回復していった。

 それまで、従軍して退役したら、どこかスルタン(イスラム世界の君主)のいる国で軍事顧問でもやって気楽に過ごしたい、などと世俗的な将来像を考えていたゴードンだったが、こうした収容所での経験と、そこで耳にした「友のために命を捨てる(ヨハネによる福音書15:12−13)」犠牲をともなった愛の実践により、この人間性が完全に失われた地獄のごとき場所で、一人ひとりの人間性を回復させ、希望を持って生きられるようにするためにできることは何か、を考え始める。そしてはじまったのが、収容所の一角の竹やぶでの「集会」だった。聖書をひもとき、神をほめたたえる賛美歌を歌う。そんな小さな集まりだった。やがてそれはカトリックやプロテスタント諸派などの垣根を飛び越え、収容所の捕虜たちが、自らそこの働く神の力を受け、隣人を愛する、という聖書の教えを実践する場となってゆく。壁もなく屋根もなく、講壇も椅子もないもない、その竹やぶ教会は、心の深淵にから人々を引き上げ、神を愛し人を愛することをあかしする奇跡の場となったのである。

 そんな彼らが、聖書の言葉で祈りをささげる中で、どうしても言葉に詰まってしまうところがある、というところに彼らの正直な思いを見る。
 それは、「わたしたちに負債のあるものをゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(マタイによる福音書6:12)という主の祈りの一節であった。彼らにとって、ゆるすべき存在は目の前にいる。日々彼らを植えさせ、殴りつけ、罵声を浴びせ、恐怖に陥れ、傷つけ、そして命をも奪う日本軍の兵士たちである。彼らのしていることを思うと、どうしても、この祈りの言葉の前で声を詰まらせてしまうのだった。言葉で唱えるだけではない、そこに感情が伴わなければ、ゆるすことはできないのである。

 しかし、収容所の「壁なき教会」の中で培われた信仰は、そうした心のわだかまりをも、ついに乗り越えさせてゆくことになる。戦況の変化とともに、ビルマの前線から貨車に乗せられ、日本軍の負傷兵が送り返されてくるのを目の当たりにしたとき、ゴードンらは、本当の敵は何者かをさとり、最大の隣人愛を実践することになるのである。

 彼らの状態は見るに耐えかねた。誰もが愕然として息をのんだ。私はそれまで、いや、いまもって、あれほど汚い人間の姿を見たことがない。戦闘服には、泥、血、大便などが固まってこびりついていた。痛々しい傷口は化膿し、全体が膿で覆われて膿の中からはむすうのうじが這い出ていた。・・・
 私たちは日本兵が俘虜に対して残酷であることを体験してきた。それが何ゆえであるかということを、いまはっきり見てとった。日本軍は自軍の兵士に対してもこのように残酷なのである。まったく一片の思い遣りすら持たない軍隊なのである。それならば、とうして私たち俘虜への配慮など持ち得ようか。(10章「最後の旅路」より)

 そしてゴードンとその班の将校たちは、敵である日本兵の列車に歩みより、自分たちに配給された食料や水を彼らに与え、傷口の膿をぬぐいとり、布を巻いてやった。日本兵からは、感謝の叫びがあがったという。
 その様子を見た別の連合軍将校は彼らをあざけり「そこにいる奴らは、おれたちを飢えさせた豚じゃないか。・・・おれたちの敵なんだ」と言うが、そんな彼に対してゴードンはその言葉を否定し、「敵を作るのは私たち人間だ」と言い返す。

「いいですか、好むと好まざるとにかかわらず、人間が敵を作る者です。隣人を失うものなのです。私の敵とは、実は私の隣人であるのです」

 日本人にとって、日本軍の戦争犯罪を克明に記録した本書は、読むのに辛いものである。しかし、それは無知のままでは済まされない、過去にあった事実である。それ以上に、伝わってくるのは「真の自己犠牲とは何か」といことである。日本では、戦時の自己犠牲は「お国のため」と称賛され、今もなお、国のために犠牲になった行為が称えられている。それは非難されるべきことではないが、ここでいう「国」とは私やあなたを含む人々の集まりとしての「共同体」ではあり得ず、当時の「国体」なのである。
 しかし彼らの聖書に基づく自己犠牲はそうではない。「友のために命を捨てる。これよりも大きな愛はない」とイエスが語った、その愛の発露であった。その言葉に導かれ、彼らは敵であった日本軍の兵士へも、駆け寄っていったのである。そして、そのことによって、読み手としての私たちも、彼らから、そして神ご自身からの言葉を受け取るのだ。

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23:34)

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