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#02伝わらなさを前提にして自分の在り方を問い直すーある子どもとの会話から

お忙しい中、このnoteを訪れていただきありがとうございます。

神谷潤と申します。国立大学附属小学校で教師をしています。
今回は、タイトル通り、「伝わらなさ」について改めて考えてみたいと思い、noteを書くことにしました。前回、自己紹介のnoteにて、他者による評価に晒されてきた私がnoteを書くことを躊躇してきたことを書きましたが、ある意味では今回の内容も「伝わらなさ」という視点から考えると、私がnoteを通じて考えていることとしては共通するところがあるかもしれません。もしお読みいただける方がいらっしゃれば、合わせてご覧いただけると嬉しいです。


ある子どもとの会話

以前、このような出来事がありました。
たまたま、休み時間に一人の子ども(以下、Aさんとします)と立ち話をする時間がありました。Aさんは、普段私とは全く話したことがないお子さんでしたが、急に私を見かけてこう言いました。

Aさん:先生は体育の先生?
私:そうですよ。
Aさん:私、去年はX先生、今はね、Z先生なんだよ。
私:そうなんですね。
Aさん:X先生はね、とても優しかったんだけど、Z先生はもっと優しいんだよ。
私:どうしてですか?
Aさん:X先生はね、授業にテーマがあって、選んで取り組めるから優しいけど、Z先生はテーマも決まってなくて、自由なんだよ。

このエピソードを少し補足すると、Aさんはある年の体育をX先生が担当してくださり、その次の年はZ先生が担当してくださったと言うことを言いたかったのです。
X先生の授業はおそらく動き(例えば「跳ぶ」)をテーマとして設定し、高く跳ぶ活動や遠くに跳ぶ活動などを自分で活動を選択して取り組むことができる授業を展開していたのだと思います。Aさんは、X先生がテーマや選択肢は決まっているにせよ、その中から自分で選ぶことができることが優しい、そう言いたかったのだと考えられます。
一方、Z先生はX先生のように、テーマや選択肢を設定することなく、子ども自身が活動を決めて取り組む授業を展開していた、というのがAさんの言葉から推測されます。Aさんは、Z先生がテーマなどで活動を制限することなく、自分で決めて取り組んで良いという授業にしていることに優しさを感じた、ということになるかと思います。
しかし、この話をX先生、Y先生にしてみたところ、どちらもご自身が意図したこととAさんが捉えていたこととの間には誤差がありました。X先生は、テーマや選択肢を提示することで活動を焦点化し、自身の動きの質を高めてほしいという願いがあるとのことでした。また、Y先生は「自分の体を知ろう」というテーマがあり、自分で何をするかは決めていいが自分の体について運動したことで得られた気づきを記録することが活動の中心だった、とのことでした。つまり、どちらの先生も子どもたちに対する「優しさ」として自己選択や活動の自由ではないことがわかってきました。

こうしてみると、Aさんと先生方の間には「ズレ」が生じていることがわかるかと思います。Aさんは、先生方が子どもたちに活動の自由を提供してくれていると捉えており、活動の自由度が上がれば上がるほど「優しい」と捉えていることからも、自分の思い通りに好きなことをしていい授業なのだという解釈をしているように思われます。しかし、先生方は活動の自由度は高いものの好き勝手に活動していいとは考えておらず、活動の目的や意図をもって授業づくりをしています。つまり、Aさんには、もしかすると先生方による授業の目的や意図が共有されていないのではないか。Aさんの発言からそのようにも感じ取れてしまうのです。
また、もう一つの「ズレ」は、「優しさ」という概念です。特にY先生は、活動の自由度が上がることは「優しさ」とは言えないのではないかとおっしゃっていました。活動の自由度が上がるということは、自分で考え、責任を持って取り組まなければならないので、むしろ活動が教師の指示通りに進める授業や教師が先を見通してレールを敷いて子どもがその上を歩くような授業の方が「優しい」のかもしれないと。「優しさ」とは何か、という概念はとても難しい問いですが、少なくともここでは受け取る側によって「優しさ」の捉え方は異なることがわかります。

このエピソードから、私たち教師が考えている以上に、子どもにとって教師の言葉の意図は伝わっていないことがわかるかと思います。教師は日々子どもたちに活動の目的や内容を伝え、共に活動しているように感じていても、子どもにとってみれば教師が考えているように活動の目的や意図を捉えているかは不明瞭であり、ただ活動の目的や内容を伝えるだけにとどまらず、伝えた後に本当に伝わっているのかを丁寧に確かめていくことが求められるのです。

なぜ伝わらないのかー言葉の意味を共通了解することの難しさ

では、なぜこんなにも教師の言葉は子どもに伝わらないのでしょうか。もちろん、教師と子どもの世代間のギャップ、生活環境の違い、語彙量の違いなど様々な要因があるといえるでしょう。しかし、まずは、そもそも言葉の意味が共通了解されていないがために起こる「伝わらなさ」があることを私たちは認識することが求められるのです。

これは子どもたち同士の例ですが、以前、2年生で「たんぽぽのちえ」という国語の教科書に掲載されている文章について話し合った際に起きたズレについて取り上げてみたいと思います。

そもそも、子どもたちは「知恵」という言葉の意味がわからず、知恵とは何かという言葉の概念を共通了解するまでにも時間を要しました。しかし、あまりにも感覚的な範囲での理解にとどまるような難しい言葉であったために、とりあえず子どもたちの間では、「ある人やものが持っている力や考え」という言葉で落ち着き、本文を読み進めていくことになりました。
タイトル通り、本文には「たんぽぽのちえ」が示されているため、子どもたちと「たんぽぽのちえ」にはどのようなものがあるのかを一つ一つ確かめていくことにしました。しかし、1つ目のちえを見つける際に、子どもたちの間で議論が巻き起こりました。問題となったのは以下の文章です。

花と じくを しずかに 休ませて、たねに、たくさんのえいようを 送って いるのです。こうして、たんぽぽは、たねを、どんどん 太らせるのです。

植村利夫「たんぽぽのちえ」『こくご 二 上 たんぽぽ』光村図書出版

この文章を読んで、多くの子どもたちは、1つ目の知恵は「花と軸をしずかに休ませて、種にたくさんの栄養を送ること」だと捉えていました。しかし、2、3名の子どもたちがそれに反対し、「種をどんどん太らせる、までが知恵だ」と言い出しました。
前者の考えとしては、「種をどんどん太らせる」のは「花と軸をしずかに休ませて、種にたくさんの栄養を送ること」によって得られた結果であり、太らせることは知恵ではないという意見でした。しかし、後者の考えは、太らせることを含めてたんぽぽの知恵であり、もしかしたら他の花は種を太らせないかもしれない、というのです。
そこで、次回の授業までに他の花は種を太らせないのかを調べてくることになりましたが、結果としては種を太らせる植物は他にも存在することがわかりました。しかし、その結果が分かったとしても、後者の意見はやはり太らせることも知恵に含むとして変わりませんでした。ここで次に話題になったのは、「たんぽぽのちえ」とは果たしてたんぽぽ「だけの」知恵なのか、それともたんぽぽのみならず他の花も持っている知恵なのか、という「たんぽぽのちえ」そのものの意味のとらえかたでした。ここで示されているのが、たんぽぽ「だけの」知恵であるならば、たんぽぽ以外にはない、たんぽぽ独自の知恵であり、他の花にはみられない知恵を指すものであるというのです。しかし、「たんぽぽのちえ」が「だけ」ではなく、たんぽぽを含む他の花とも共通する知恵であるとするならば、種を太らせることが他の花と重なりがあったとしても、それは「たんぽぽのちえ」であると言えるのだと。そこで、以下のように図示し、たんぽぽのちえの解釈のズレを整理するにしました。

こうして整理してやっと子どもたち同士の共通理解が少し進んだように感じました。少し、と留保したのは、もしかするとまだ子どもたち全員がこの違いを的確に捉えることができたのかはわからないからです。もちろん、今すぐに理解しなければならないということではないかもしれませんが、それだけ「伝わる」ということは簡単ではないのだということがこの事例からも明らかではないかと考えることだできるのではないでしょうか。

聴くことが伝わらなさをあらわにする

少し長くなりましたが、2つの事例を通して、「伝わらなさ」について検討してきました。自分では伝えたつもりでも、意図が伝わったことを確かめないと(もしかしたら確かめても)伝わらないことがあるのかもしれませんし、言葉の意味が共有されていないことで伝わらないということがあるのかもしれません。また、相手は自分自身が考えているように同じ言葉を使用していても言葉の意味理解が異なったり相手の受け取り方自体が異なる場合があったりして、思うように伝わることはなかなか簡単なことではないのかもしれません。

だとしたら、伝わらなさを少しでも解消するにはどうしたらいいか。私は、少しでも歩み寄り理解するのに必要なことは「聴く」という行為だと考えます。話し手は相手に向けて伝えるように話します。しかし、相手は自分が話したことをその通りに受け取るかどうかわかりません。なので、話し手は自分が話したことが伝わっているかどうかを確かめるように話しつつ、相手の反応を聴くのです。場合によっては、「伝わっていますか?」「私の話、理解してもらえましたか?」などと直接尋ねることもあるでしょう。ただし、毎度問いただされるのは相手もいい顔はしませんよね。ですから、自分が話した際に、相手の反応をうかがい、相手が伝わっているのかを確かめるように「聴く」(例えば顔色をうかがう、その後の行動をとらえるなども含まれる)のです。
また、その反対に、伝える・伝わるという関係には、話し手側からだけでなく、受け取る側、つまり聴き手側の行為も重要になります。話し手側の話に対して伝わっていなければ聴き手が質問をする場合があるでしょうし、聴き手が伝わっているかをあえて表明することを意識して聴くという行為に及ぶこともあるのではないかと考えます。
(※この「聴く」の話を書き始めるとさらに長くなってしまうので、また別のnoteに示そうと思います)
こうして、聴くということに着目していくことによって、「伝わらなさ」があらわになります。話し手と聴き手の双方が、この「伝わらなさ」を感受し、伝える側に伝える技術を求めるのではなく、「聴きあう」関係によって「伝わらなさ」と向き合っていくことが求められるのではないかと思います。

伝わらなさを前提に伝えよう・聴こうと努めること

ですから、私はまず教師がこの「伝わらなさ」を前提に「聴く」ことを疎かにしないこと、これが教育の場面において重要な役割を果たしていくように思います。
Aさんの事例に戻れば、教師はAさんとの話の中で、Aさんの思いを聴き、その真意を理解しようと努めることがまず求められるように思います。そして、Aさんに改めて教師が自身の授業で伝えようとしていることが伝わっているかどうかを確かめるとともに、Aさんとの関係において「伝える」ことについて考え続けることが求められるのだと思います。

劇作家の平田オリザさんの有名な著作『わかりあえないことから』には以下のように記されています。

教育関係の講演会ですると決まって「あ、金子みすゞですね。『みんなちがって、みんないい』ですね」という先生方がいる。私はそうは思わない。そうではないのだ。
「みんなちがって、たいへんだ」

平田オリザ(2012)『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書

そもそも、一人一人が唯一無二の存在であり、違うのだということが前提なのです。だとするならば、「伝わらなさ」は全ての他者とのコミュニケーションにおいて、当然のことだということです。
しかし、しばしば私たちはその意識を忘れがちになってしまいます。ですから、こうして時折、「伝わらなさ」について意識を向けて、他者とのかかわりを丁寧に見つめ直すことが求められるのだと思います。

書きたいことがまだまだあるのですが、5,000字を超えてしまいました。長くなってしまったので、一旦ここでとどめ、書き残したことは次回以降につなぎたいと思います。

このnoteは、自身のために記述するという趣旨で取り組んでおりますが、ここまでお時間をとっていただき、お読みいただきありがとうございました。次回以降も、少しずつ言葉を磨き、つむいでいきたいと思います。引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。今後ともよろしくお願いいたします。

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