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まずは「自己との対話」としてnoteを始めることにしました #01てつがくする教師による自己紹介

このnoteを訪れていただき、ありがとうございます。
初めまして。神谷潤と申します。公立学校での教員生活を経て、現在は、とある国立大学附属小学校で働いています。現職に就いてから、気がつけば10年以上の月日が流れ、時間が経つのは早いなと感じる今日この頃です。

ある程度の経験を積み重ねてきたとはいえ、まだまだ教師としても人間としても半人前の私ですが、noteというステキなプラットフォームを活用させていただき、このたび、教育について自分が考えていることについて少しずつ表していくことを決意しました。
noteはかなり前から読者としてかかわらせていただき、さまざまな方の発信から多くのことを学ばせていただいておりましたが、自分が執筆者側になることについては、やってみたいという思いがありつつも今年度を迎えるまでずっと悩んできました。
そんな私がなぜ今さらになってnoteを書くことにしようと決めたのか、まずは自己紹介と合わせて初投稿させていただこうと思います。以下、目次をつけましたので、目次だけでもおおよその内容がわかるようにしてみました。もしご関心がありましたら、関心のあるところだけでも読んでいただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。


簡単に自己紹介 理論と実践の間に立ち、教育について考える

まずは、簡単ではありますが、私がどのような人間であるか、どのようなことに関心を持ち、日々教育実践研究に取り組んでいるのか、紹介させていただきたいと思います。

簡単なプロフィール

  • 妻と3人の子どもとの5人家族

  • 自分が受けてきた学校教育に疑問を持ち、教職の道へ

  • 国立大学附属小学校教諭

  • 教科教育研究の担当は主に体育(学校における体育科の授業は嫌いでした)

  • 修士(学術)シティズンシップ教育の根幹を検討すべく、ハンナ・アーレントの政治理論に基づく教育思想を研究

  • 一般社団法人未来の体育を構想するプロジェクト代表理事

教育に関する研究の関心(詳細については次回以降に)

  • シティズンシップ教育

  • てつがく対話実践

  • 体育のカリキュラム研究

  • 関係づくりとしての教育実践

私は、人生のほとんどを「学校」で過ごしてきました。自身が小学校に入学してから大学を卒業するまでは教えられる側として、その後まもなく教職に就き、現在に至るまで教師として学校にかかわり続けているので、今振り返ってみると人生における割合は相当なものだなと感じます。
でも、こんなに長い間学校で過ごしているにもかかわらず、正直未だに学校が「良いところ」だと思えるようにはなれていないように思います。長くなってしまうので、この話はまたどこかで触れていきたいと思いますが、私は、小学校時代の頃から学校に対してポジティブな感情を抱いたことはあまりありませんでした。それが、ある意味で現在の教育研究の土台となっているようにも思います。
学校教育は、日本に住むほぼすべての人が経験したことがあるものであって、だからこそおおよそお分かりの方も多いかと思いますが、何十年という月日が経ってもあまり大きく変化することなく現在に至っています。つまり、私からしてみれば、何十年も前に受けてきた教育と現在の教育はそんなに大差を感じることがありません。制度や方法が変わっても、教育そのもののあり方が変わっていないのではないか、そのように感じることが多いです。情報が溢れる社会の中で、オルタナティブな学校や教育内容・方法、教育改革を推進する人たちがいる一方で、たとえそれらの情報を受け取ったとしても、自らのあり方を問い直すことなく、伝統的な学校教育を遂行する現場が多い印象を持っています。印象論としか言いようがありませんが、そのような現実をたくさん目にしてきました。
この現実に対して、まだまだ未熟ではありますが私なりに自らのあり方を問い直し、現在も今自分自身にできる教育実践や教育研究を続けています。幸い、様々な研究者や理論研究に出会う機会に恵まれ、経験則に基づく教育実践にとどまらず、理論と実践を結びつける研究環境に身を置くことはできています。その環境を大切にして、理論と実践の間に立ち(この意味についても今後どこかでお伝えできればと考えています・・・)、自らの教育実践や学校教育のあり方について問い続ける日々です。

このnoteはあくまでも自己紹介なので、具体的にどのような実践や教育研究に取り組んでいるか、私がどのようなことを考えているかは、次回以降に少しずつ書き進めていこうと考えています。

noteへの執筆を悩み続けてきた理由1「誰かのために発信する」ということへの疑問

noteを書こうと決めた理由を述べる前に、なぜこれまで書くことを悩んできたかについて書いていこうと思います。言い訳みたいになってしまうかもしれませんが、同じような悩みを抱えている方もいらっしゃるかもしれないので、あえて書いておこうと思います。

私が執筆を悩み続けてきた理由の一つは「誰かのために発信する」という考え方に対する疑問があったからでした。書くという行為は、誰かに自らを現す行為の一つですが、その現れは、論文などのように研究成果を明らかにするようなものからSNSのように自分の考えを発信するものまで様々です。
最近では、情報は嫌でも勝手に自分のところに届くことが多いため、教育系の書籍やSNS、ブログなどたくさんの情報が私のもとにも届きます。
それらの発信から多くのことを学ばせていただくのですが、1点個人的にとても気になっているのは、「発信する方々はなぜその発信をするのか」ということでした。自分自身が発信者となるには、他者が発信する理由や意味をどのように考えて発信しているのかを見て学ぶ必要があると考えていたからです。発信される様々なコンテンツや文章には、その発信者の思いやスタンスが透けて見えることがあり、自分が発信者になるということは、他者からもそのような見方で見られるのだということをいう自覚を持って発信することが求められるだろうということも同時に感じていました。
そのような視点で、様々な発信者のプロフィールや発信の理由などを調べてみると、よく見かける言葉は「◯◯のために」という言葉でした。ここに当てはまる言葉は、この業界であれば「若手教員(初任者含む)」「困っている人」「子どもたち」など、発信者側からすると、自分が助けたい人、指導の対象としている人などといった「指導者」としての視点から考えられた言葉が大半を占めています。私だけが見たことがないのかもしれませんが、私の知る限り「ベテラン教師のために」「大学教授のために」「教育長のために」という発信は拝見したことがありません。つまり、「◯◯」に入る対象は、発信者から見ての「弱者」であり、上記のような「◯◯のために」発信する方々の発信は、あくまでも自分が指導者であるという立場をとっているのではないかと考えるに至りました。
この「◯◯のために」という言葉は、聞こえがいいようで非常に危険な言葉だと私は感じています。学校では特に「子どもたちのために」という言葉が飛び交うのですが(現場の皆さんどうでしょう、飛び交っていませんか?)、私はこの言葉を聞くたびに自分は思っていたとしても口にはしないように気をつけようといつも自分に言い聞かせるようにしています。
なぜ、「◯◯のために」という言葉が危険なのかというと、すでにここまで読んでいただいた方はお察しのことと思いますが、特に学校現場で教師から出てくる「子どもたちのために」という言葉の多くは教師が子どもたちに向けて一方的に考えているケースが多いからです。もちろん、教育というのは、目の前の子どもたちを対象に行われる活動なので、教師が自分の教育思想に基づいて子どもたちにかかわることは大切ですし、同じ言葉であえて表現しますが、「子どもたちのために」取り組む活動ではあります。しかし、教師がかかわる一人一人の子どもも一人の人間であり、教師と同じように自分の考えや思い、感情などを有しています。教師が良かれと思って「子どもたちのために」と取り組んでいることの多くは、きっと子どもたちにとって大切な教育活動なのだと思いますが、その一方で、教師のエゴによって子どもが傷ついたり苦しんだりすることもあるのではないかと思います。これまでの教師人生で、私は教師が公然と「子どもたちのためだ」と言って取り組んでいることを受けている子どもたちの様々な表情に出会ってきました。本人から「辛い」という声を受け取る経験もたくさんしてきました。そして、その子どもの状況を変えることができなかった悔しい思いもたくさんしてきましたし、自分ももしかするとそうしたことに加担してきたのではないかと考えることもあり、今も日々悩みながら過ごしています。

少し話はそれましたが、発信者が「◯◯のために」という「弱者」に向けた発信をしていることの意味として、一例として「子どもたちのために」をあげるとするならば、教育において子どもたちは発信者の発信を拒否することが困難であるのに対し、情報は受け取る側が受け取らないという判断をすれば良いだけなのかもしれません。
しかし、発信者側の視点から発せられる言葉として「◯◯のために」という言葉を用いることは、発信者がたとえそう思っていなくても、受信側には弱者向けに指導しているという発信に受け取られかねないのだと思うのです。

私が、自分自身の考えていることや教育実践研究について発信することを検討しているときに、「誰かの役に立ちたい」と思うこともありました。確かに、もしかすると結果として自分の発信によってそう思っていただける方も現れるかもしれません。しかし、私が発信する行為において、「◯◯のために」とした瞬間に、きっと上記のようなことが発生し、私はきっと自分自身のことを見失ってしまうのではないかと思います。
「誰かのために」という発信は、どこか自分をおごり、自分自身の学びを、研究を阻害することにもつながると考えています。たとえば、「自分自身の経験を初任者の先生に伝えることで初任者の先生の役に立ちたい」と考えたとします。しかし、私のその経験は、初任者のその人よりも優れていて、初任者は私の実践よりも劣っているという見方が働いてしまいます。これは、初任者の問題というよりも、私自身がその初任者よりも優れているという考え方を持った瞬間に、私は自分自身の実践を問い直すことができない身体になってしまうことにつながってしまうのです。私も一教師として現場に立って、「本当にこれで良かったのだろうか」と日々自分の行為を振り返り、自分をみがき続けているという自負だけはあります(どれだけ熟達しているかは疑問ですが・・・)。そのように考えている私が「誰かのために」発信するということは、結果として自分自身の歩みを止めてしまうことにつながってしまうのではないか、自身の視野を狭めてしまうことになってしまうのではないかと思うのです。教育と発信は少し違うのかもしれませんが、どちらも私はそのような怖さがあり、これまでなかなか発信に踏み切ることができずにいました。

noteへの執筆を悩み続けてきた理由2「他者を評価する文化」に晒され続けてきた

もう一つの理由は、ある意味で自分への自信のなさも関係してはいるのですが、何よりも「他者を評価する文化」にずっと晒され続けてきたということが挙げられます。
私の経験してきた学校という現場には、ほとんど隙間のない「評価」の網の目が存在していました。正直、今もそれは変わりません。先にお断りしておくと、「評価」という言葉は、日本語だとこの言葉に一括りにされてしまいますが、英語では様々な表現があります。

assessment(アセスメント):多角的な視点から多様な資料を収集すること。
evaluation(エヴァリュエーション):アセスメントによって収集した資料をもとに目標に照らして達成度を価値判断すること。

田中耕治(2008)『教育評価』岩波書店より

そのほかにも、いわゆる評定をつける行為はこの二つとは異なりgrading(グレーディング)と言います。これは、エヴァリュエーションとは異なり、ある基準に基づいて「3・2・1」と数値化(値踏み)することです。

学校現場には、こうした様々な「評価」が行われています。
教師という職業は、ある意味で評価ということを仕事として取り組まなければならない現状にあります。残念ながら、制度上、grading(グレーディング)もしなければなりません(しかし、本来、教育評価の目的は学校や教師による教育活動がどれだけ達成できたかを評価するものであって、子どもを値踏みしてランクづけするものではないことを強調しておきます)。子どもをめぐる評価の問題はまた別の機会に述べるとして、しかし、教師は、他者を「評価」することが常態化し、日頃からグレーディングをしてはいないまでも、エヴァリュエーション(価値判断としての評価)をしている場面を数多く見ます。
「◯◯先生の授業は良い」「◯◯先生は全然仕事しない」「◯◯先生は・・・」と様々な声が飛び交います。これらは、何らかのスタンダードに基づくものではなく、評価者による価値判断と言えるものだと考えます。私自身、こうした「評価」に晒される日々を過ごしてきました。時折振り返り、私も気をつけないといけないと思いますが、このような「他者を評価する文化」に晒される日々に疲れます。

発信も同じくそうです。多様な人々による価値判断としての評価に日々晒されている私は、自分自身が発信することで、別の誰かが「評価」されているのと同じように、私自身も「評価」されてしまうのではないかと、そのように思うのです。
しかし、この連鎖は止めることはできません。よって、おそらく私が書いたことは、誰かによって「評価」され、たくさんのご批判、ご批正をいただくこととなるでしょう。ですが、そのご批判ご批正などがあることによって何も書けないということでは、表現することの意味が失われてしまいます。表現することはこうした苦しい部分もありますが、一方で他者からの意見をいただくことで自分自身をみがく機会をいただくことになります。
研究も同じだと考えます。論文を書いて発表することは、誰かの「評価」を得ることになります。ただし、研究は「あなたはダメだ」とその人自身を否定することにはなりません。研究の発展に向けて議論を交わし合います。また、研究を発表する側も発表することを通じて「現時点での成果」を学術的に述べつつ課題や新たな問いを明らかにすることも含まれるため、誰かを「評価」することからは少し距離を置くことが可能になります。先ほどの理由1とも関連しますが、研究発表は、「誰かのために」ではなく、研究の発展が主な目的なので、立場に上下関係が発生しにくくなるのではないかと思います(学会や大学にはそういった上下関係がないことを願います)。

悩んだ末にnoteを書くことに決めたのは書くことを通じて「自己との対話」をして理解(understand)すること

ですので、私は、考えた末、発信を「誰かのために」するのではなく、「自分自身に向けて」始めることにしました。「何でわざわざ発信するの?」「自分に向けてであればわざわざ発信なんてする必要ないのでは?」と思われる方もいらっしゃるかと思います。確かにそうなのかもしれませんが、私が発信する目的は、「書くことを通じて自分の理解に向かう」ことなのです。「他者に認められたい」とか「誰かのために役に立ちたい」ということではありません。
私が大学院の時に研究していたハンナ・アーレントは、書くという行為について以下のように示しています。

私にとって重要なのは、「私は理解しなければならない」ということです。私の場合、書くことも理解することに属しています。書くこともまた、理解のプロセスの一部ですから・・・
書いているときこそ、はっきりと決まった事柄が確定されているわけです。もし仮に、考えたことを本当にすべて覚えておけるような記憶力をもっていたとしたら、それが何であるにせよ、何かを書きとめるようなことを私がしていたかどうかは疑わしくなります。自分の怠け癖を知っていますから。私にとって大事なのは、思考の過程そのものなのです。何かを考え抜くことができたとき、私としてはとても満足なのです。そして、書くことのなかで適切に表現できたときにも、同様に満足を感じます。

ハンナ・アーレント(2002)「何が残った?母語が残ったーギュンター・ガウスとの対話」『アーレント政治思想集成1』みすず書房より

アーレントのいうように、書くことは、理解のプロセスでもあります。自分が考えていることや理解しようとしていることを文章に表そうとするとき、言葉に表すとどのような表現が適切なのかを何度も推敲しながら考えることになります。また、自分自身が書く事柄について、書く行為を通じてどれだけ理解しているのかを知ることができます。
ちなみに、アーレントがいう理解とはunderstand「under(間)にstand(とどまる・立つ)」という意味があります。アーレントの場合の理解は、過去と未来の間にとどまるという意味もあり、この点についてはまた別の機会に書きたいと思いますが、アーレントに寄せていうならば、私は書くという行為を通じて自分の思考を深め、自分が思考していることについて理解することができればと考えています。
また、アーレントは、思考について「two -in-one(一者の中の二者)」という表現を用いて、思考は「自分の中にいるもう一人の自分との対話」であると考えます。まさに理解するとは、「自己との対話」を通じて行われることであり、私の中にいるもう一人の私と対話しながら、書いて表してはまた対話して・・・ということを繰り返していくことなのだろうなと思います。

主に書く内容は、「学校教育の問い直し」と「教師の学び」

このnoteでは、日々学校現場に務める私が学校現場に浸かりながらも時折メタ的に学校教育を見つめ考えてきたことについて書いていきたいと考えています。自己との対話、理解に向けて書くため、テーマはやや抽象的になるかと思います。私自身がそもそもそういった実践を通じた理論研究を重要視しているからかもしれません(そのうち書くことを通じて、なぜ私がそのようなことを書こうとしているのかも考えてみたいと思います)。
私のことをご存知ない方には伝わりにくいかもしれませんが、初めの方に書かせていただいたように私は学校教育の様々なことに疑問を感じて今まで生きてきました。現在、教師という仕事を続けているのも、この疑問が原動力になっています。ですので、書く内容としては「学校教育の問い直し」に関することや「教師の学び」に関することが中心になるかと思います。
読者の方々の「ために」書くわけではない以上、私がここに書くことを読むことがどれだけの意味があるか分かりませんが、お時間のある時にお読みいただき、一緒に考えてくださる方がいてくれたら嬉しいです。

毎月1日に発行できるように頑張ります!よろしくお願いいたします!

ということで、自己紹介と言いながら、初回から長々言い訳のように私がnoteを始めることの意味について書いてしまいました。上手にまとめられず失礼いたしました。自分の理解のために書くと言いつつも、読者の方にとって読みやすい文章になるように書いていきたいと思います。
しかし、日々の多忙さや自分自身の文章力の無さから、初めは月1回の定期発行を目指すのが精一杯かもしれません。継続することを重視して、あまり無理はせず、とりあえずは毎月1日に発行できるようにし、あとは書けるタイミングを見つけて発行するというスタイルで進めていこうと思います。

今後ともよろしくお願いいたします。

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