前回の記事で、『社会契約論』第二篇第十一章が「美しい」という話をしました。今回は、なぜあの引用箇所が「美しい」のか、を見ていくことにします。
前回の記事はこちら
というのも、前回、
と言ってルソーの引用をしたのですが、その引用直後に、
とまさかの「説明なし」のまま、ただ美しさを讃美するだけで終わっていたからなのです。今回は、しっかり説明します。
美しいルソーの文章
・・・ね。美しいでしょう?(デジャブか!)
自由と平等
エッヘン。気を取り直して、何が美しいのか、について、ようやく説明に入ります。注目してほしいのは、「自由」と「平等」の関係性です。
再度引用しましたが、この箇所で、「平等は自由の条件である」ということが明記されます。
さて、この「平等は自由の条件である」という点に、私たちの感覚とのズレがあることに気が付きますか?
私たちは一般的に、自由を推し進めると、平等がないがしろにされてしまう、と考えます。例えば、私と友人が2人で過ごす部屋に、お菓子が2つ置いてあるとします。私はその2つとも食べたいと思っている。でも、友人ももしかしたら食べたいと思っているかもしれない。この場合、私が2つとも食べてしまえば、友人はお菓子にありつくことはできなくなってしまいます。つまり、自由に食べることで、平等が阻害されるのです。
一方、平等に1つずつ分け合って食べる、という平和的な解決を選ぶとします。その場合、自分が自由に食べられたはずのもう1つのお菓子は、友人の胃袋の中にあり、自分の自由が今度は阻害されたことになる。
このように、「自由と平等は両立しない」という考えが、日本ではごく自然に通用しているように感じます。
しかし、ルソーはそう考えていない。むしろ、自由と平等は切っても切り離せないものである、と軽々と言ってのけるわけです。
この美しさ、少しは分かっていただけましたか? 納得がいった人も、いっていない人も、ぜひ実際のルソーの著作に触れ、「自由」を愛したルソーの息遣いを感じてみてください。
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本文中に〔 〕で示した脚注を、以下に列挙します。
〔注1〕Rousseau, Jean-Jacques. Du contrat social, Œuvres complètes, III, Éditions Gallimard, 1964, p.391.
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