ルソー『エミール』を読むために
皆さま、こんにちは。前回までの「ルソー『社会契約論』を読む」は、とても抽象的な議論であり、かつルソーの「主著」と言われている書物なだけあって、号外も含めると全部で17回にも及ぶ解説記事となって、ついに前回の記事をもって完結したのでした。
毎度読んでくださった方には、改めて感謝を申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。
さて、今回からは『社会契約論』を離れ、別の本に移っていきたいと思います。その名を「ルソー『エミール』を読むために」と言います。書名が違うこと以外で、今回の記事のタイトルには、「ために」という文言が新たに付加されたことにお気づきでしょうか。というのも、『エミール』は教育に関する「論文」というよりも、どちらかといえば教育に関する「小説」に近いので、「解説」するというスタンスを取るのは、少し違うのではないか、と私は考えたのです。つまり、『エミール』は、それについて解説したものを理解して、納得する、という方法で接するのではなく、実際に読んでみて、魅力を実感し、味わうように触れていただく方が良い、と思うのです。
のちの時代に、有名な逸話があります。哲学者イマニュエル・カントは、散歩が日課でした。いつも決まった時間に決まったコースを歩いているので、街の人々は、カントの散歩を見て時計を合わせた、と言われています。しかし、たった一度だけ、カントが散歩に現われないことがあったそうです。なぜか。体調が悪かったからでも、散歩に飽きてしまったからでもありません。それは「『エミール』に夢中だったから散歩の時間を忘れていた」からだったのです。
だからこそ、ぜひみなさんにも、カントのごとく、何もかも忘れるようにして、『エミール』を読んでほしいのです。
そこで、読む「ために」必要な前提知識や『エミール』の面白さを読む前に紹介し、皆さんが実際に『エミール』を手に取って読んでみたいと思ってもらう「ために」記事を書こう、と思ったのです。
したがって、今回の記事では、あえて直接『エミール』の本文には言及することなく、『エミール』の魅力を「紹介」する、ということを試みます。『エミール』を紹介するには、『エミール』の中身に触れる必要があるだろう、と思われるかもしれません。ですが、思い出してください。まだ読んでいない漫画の結末を友人に告げられたときのことを!そうです、ネタバレされたくないでしょう?
だからぜひ、この記事を読んで『エミール』を面白そうだと感じたら、書店でお買い求めください。
また、興味が湧かなかった方も、それは私の紹介の仕方が悪かっただけですので、やはり買ってください。(強制)
さらに、買った後は、『エミール』を10人に紹介してください。そうすれば、あなたにはきっと幸せが・・・(いや詐欺か!)
冗談はこの辺にして、さっそく、皆さんを『エミール』の世界へとご案内致します。
『エミール』の出版後
と、その前に、『エミール』出版後の状況を少し見ておきます。今でこそルソーの『エミール』は教育論のバイブルのような扱いを受けていますが、出版当初からそのような扱いを受けていたのではありませんでした。
パリ大司教であったクリストフ・ボーモンは、「『エミール』はキリスト教の根底を覆す危険な書物だ」として『エミール』を批判する「教書」を出します。そして、『エミール』はパリとジュネーブで「発行禁止」の処分を受け、そればかりか「焚書」にもなって、ルソー自身も迫害を受けることになります。もちろん『エミール』を素晴らしいと評価した人もいましたが、圧倒的大多数は、今とは真逆の反応を示したわけです。「この人、やばくない?!」と。
このボーモンへ、ルソーが宛てた手紙があります。いわばこの手紙は、自分を云われなき罪で弾劾し、批判するボーモンへの「逆批判」の手紙で、そこには「『エミール』がどれほど素晴らしい書物か」ということが書かれているのです。
さて、その手紙の中の一節を、少し長いですが見てみましょう。
それぞれの文章を、細かく見ていきます。
『エミール』が明らかにしたもの
ルソーは、「私がそれを証明したと信じているように」と始めます。何を証明したのでしょうか?それは、続く「もし人間が生まれつき善良であるとすれば、その結果として、人間は外部から来る何ものかが人間を変えない限り善良なままにとどまることにな」るという箇所です。
ここでルソーは、人間は生まれつき「善良」である、という立場に立って、「善良」な人間は、外部から何ものかが人間に介入しない限りは「善良」であり続けることができるはずだ、と述べているわけです。
「彼ら」とはルソーの『エミール』に対して批判を向ける人々のことで、手紙を受け取るであろうボーモンに限りません。そして、その「彼ら」は、人間が「邪悪」であると見なしている。
だとすれば、その邪悪さは、ルソーの考えに従えば、「よそから」人間の内に侵入してきたものだ、ということになるでしょう。だからこそ、
というわけで、その方法が、ルソーいわく「消極的な教育」なのです。だから、
と自信をもって言うのですし、反対に
と、人々の常識が間違っていることを喝破するのです。しかも、ルソーが信じる「消極的な教育」の正しさと、彼らが信じる「積極的な教育」の誤りは、
といいます。つまり、私が『エミール』で示したように教育を展開すれば、必ず私が信じる「正しさ」に皆がたどり着くことができるはずだ、なぜならば、そのように「正しい」と言い得る「理由」をその都度示しているからだ、ということになるわけです。
では、ルソーは何をもって「積極的な教育」と呼び、また「消極的な教育」と呼んでいるのでしょうか。
「嘘をついてはならないのだよ」だの、「太陽は東から登って西へ沈むのだよ」だの、その内容の価値が分からない年齢の段階で、あれこれと教え込むこと、これが「積極的な教育」です。一方、
知識を与えるのではなくて、知識が真の意味で必要になったときに、知識を理解できるような「心技体」を準備しておく、そのような教育を「消極的な教育」といいます。
一見すると、消極的な教育は、積極的な教育に比べて「何もしていない」ように思えます。しかし、
なぜでしょうか。それは、
あれこれと教えない代わりに、「教えたせいで」間違って理解してしまったり偏見を持っしまったりすることを防ぐことができます。
例えば、「○○はダメな人たちなんだよ~」と教えるとしましょう。この○○に、殺人者が入ったらどうでしょう。まあ、これは間違っていませんね。しかし、この○○に、黒人、女性などが当てはまっていた時代がかつてあったではありませんか。今となっては、こんなことを言っている人がいたら、よほど「どうかしている」のですが、昔はそれを「まともに」信じていた人が大勢いたわけです。だから、こうした「悪徳」を、消極的な教育は防ぐことができる、というのです。なぜなら、そうしたことを、一切教えないのですからね。悪徳や誤謬に陥ることにはならないはずなのです。
そうすれば、「積極的に」善へ向かうことにはならないかもしれないけれど、悪にはならないはずだ、とルソーは考えているのです。
いやいや、でも「教育」って、善いものへと人間を導かないと意味ないじゃん・・・。と思った方は、既にボーモンの思考に冒されています。
だって、考えてみてください。ルソーは、人間は元々「善良」な存在だと考えていたはずです。社会が「善良な」人間に「悪徳」を吹き込んだのでした。
だから、悪を正すための教育、善に向かわせるための教育、と言う時点で、それは、人間が「邪悪」である、というボーモンたち批判者の意見と何ら変わりない立場に立っている、ということになるのです。
何もしなくたって、人間は元々「善良」なのです。だから、
そうすれば、しかるべき時期に、子どもたちは、自分の個性を存分に輝かせることができるのだ、というのが、ルソーの「教育論」なのです。
『エミール』を買いましょう
『エミール』、面白そうではありませんか?もちろん、すべて正しいとは私も思いません。しかし、子どもを授かることを前提に将来設計を考えている方、いま子育て真っ最中の方など、いろんな方を刺激する本なのです。こうした魅惑的な本こそ『エミール』なのです!!ぜひ、読んでみてくださいね。
※次回の記事の内容は未定です。『エミール』かもしれませんし、そうではないかもしれません。
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