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OH!へんろ。親子の88か所巡り(43番札所):源光山 明石寺(愛媛県)

わたしが、子どもたちと決めた今回のお遍路ルールは一つだけ。納経所で御朱印をいただくのは子どもたちの役割ということ。ちゃんと挨拶をして、御朱印をお願いし、最後はしっかり御礼をする、です。

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今日の煩悩:

「個人」を単位とする社会というのは、今の時代を生きる私たちにとっては当たり前にも聞こえるけれど、実は当たり前でもない可能性もある。

一橋大学名誉教授だった故・阿部謹也さんによれば、西洋的な「個」も人々が様々な地域から都市に集まり、共通言語的にラテン語で学ぶようになってから意識されるようになったと仰っていました。つまり、「個」も所与のものではなく創られた概念だろうと。

そういう意味では「個」から構成される理論合理的な社会と言うのも、いくつもある仮説のひとつかもしれないということです。

ただ、近代的な「発展」と「個」は相性が良かったのでしょう。色々なものやひとを「個」にすることで、計算が適応できます。西洋合理性を産んだ西欧社会の考えが、「発展」と共に注目されてきた所以でしょう。

一方で「個」にも難しさがあります。例えば、高々と掲げられる宣言や目標、大義名分のもとに「個」の自由や利益や権利を主張する場合、現実世界においては、その人の「個」の要求を叶えるために、周りの人が奉仕しなければ成り立たないようなことが起きるわけです。

夫の趣味や自由な選択を叶える為に妻が見えないところで、地道な日常の交々を行っていたりします(逆もあるでしょう)。

以前にある人が「社会は神の見えざる手でバランスが取れていて、家事や育児や介護のようなケアについても、それを好きな人がやれば大丈夫」と言うのを聞きました。これらのことは「好きな人」に任せて、その人たちに払う代金も含めて自分は稼ぐことに専念すればよいのだそうです。

確かに合理的に聞こえるのですが、世の中は実はそんなシステマティックな分業体制になっていないところもあります。

「好きでケアしている人」というのも、「向いている人」も中にはいるでしょう。でもね、「そうでない人」であっても、目の前にケアされない子供やお年寄りがいたら、放っておけないと感じて、思わず助けてしまっているという場合もあるのですね。

ケアすることが嫌いじゃないまでも、自分のことをさておいてまでケアが好きという人ばかりではないと思うのです。

そして当たり前のように、「好きでやっている人に任せればいい」と言い放つ人ほど、その対価で払う「料金が高い」と言います。自分が苦労して稼いだ給与から支払わなければならないなんてと不満気です。

つまり、自分が得る収入よりも劇的に安い料金でケアを代行して欲しいというようにも聞こえます。「放っておけない」という人の気持ちにかなり甘えることになります。

色々大変な世の中です。「個」から成り立つ世界は、周囲の人への依存のほかに、システムへの依存も高まりますが、システムを運営するにも、それを運営する国や自治体にお金や人がいなくては出来ないですね。先日、介護業界の先生の話を聞いたところ、ケアする人材も不足している中で、たとえお金を支払われても、ケアする人が嫌な思いをしないようなお客さんじゃないと、継続して良い人が付いてくれないと言っておりました。

話しを聞いていた私に与えられた先生からのアドバイスは、「性格の良い、かわいいおじいちゃんを目指してください」と。一朝一夕にはいかないそうです。50歳。ひねくれない様に頑張ります。

御詠歌:

聞くならく千手の誓いふしぎには 大盤石もかろくあげ石

本尊:

千手観世音菩薩

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創建:

六世紀前半

真言:

おん ばざらたらま きり そわか

歴史:

6世紀の前半、欽明天皇(在位532〜71)の勅願により、唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされているそうです。弘仁13年(822)に、荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上して勅命を受け、諸堂を再興したとのことです。

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所在地:

愛媛県西予市宇和町明石205

駐車場:

無料


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