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妻はゼミ生9:権力は「個人が自由に使える資産」でも「自分を強くするための資源」でもないのよ

妻はゼミ生を18年くらいやっています。もちろん、本当のゼミ生ではないですよ。私のくどい話を聞き続けて18年ということです。そして、「国際援助機関っていつ役割を終える見込みで活動しているの?永遠に援助が必要でなくなる時代はやってこないの?」という話しが本当にしつこいと思った時は、「オレンジピールの入ったチョコレートが食べたいな」と返してくるのです。
これが出たらね、ゼミは終了です。そして、「ブラックサンダーも美味しいよ」という返事をしないと、その後、一週間口をきいてもらえなくなるという地獄を味わうことになります。

さて、今回は「功績」と「権力」に溺れる旧世界のエリートに注意せよ、です。

人類をすごーく遡って、小さな集落で暮らしている頃を想像してみましょう。そして、ある時私は、すごく大きなイノシシを「運よく」捕まえて帰り、そして、狩りに出られなかった高齢者や子どもを呼び、「さあ、食べよう」、「オバー、その美味しいところあげるさー」「キッズ。こっちの方が大きいよ。かめーかめー(もっと食べなさい)」と、皆が狩りの貢献度に関係なく食べる。その様子を見て、私は嬉しいと思うでしょう。それでよいように思います。その様子を見たことが「ご褒美」であり、受けた「評価」であると思うのです。

しかし、近・現代の世の中は、そうはいかないらしいです。獲物を持ちかえる貢献度が評価され、貢献度が大きい者が沢山の分け前と名誉を獲得するらしいのです。そして、狩りに貢献できない者は、分け前にありつくことが出来ず、いつも大きな獲物を捕ってきたり、食糧などの蓄えを持つ者は尊敬を集めるようです。そして、出来る奴、持っている奴が偉い奴になり、この功績によって良い待遇を受けることが当たり前で、出来ない奴、努力しなかった奴、持っていない奴は良い待遇を得られないのも「自業自得」と言い放つのでしょう(メリトクラシー&自己責任論)。

そんな価値観がいつの間にか、デフォルトになりつつあるけれど、皆がこの序列の制度に対して本当に同意署名したのでしたっけ、ということは振り返る必要があるのじゃないかなと思います。社会やコミュニティに対する貢献のあり方は多様であるし、獲物を捕ってくるだけでなく、道具をつくったり、留守番する高齢者の世話をする役割もあるはずです。それに、生きていてくれるだけで有難いという人だっています。労働市場や資本市場で付加価値があるものだけが価値があると考える人がいる、いわゆる「キャピタリズム」な社会も、よくよく考えれば、偏った仕組みかもしれません。

「獲物を多く捉えてくる奴」は「偉い」ということを、集落のみんなが「流石、おめえだ」と褒めたたえてなでなでしてくれるだけでは飽き足らず、何者かに「評価」してもらわないと気が済まない者が現れると厄介なのです。「評価」ってなんだろう。「俺の(私の)銅像をつくれ」という評価なのでしょうか。いずれにしても、(たとえ本当は他の人の支えがあっても)個人の活躍は個人の利益と考えないと気が済まない個人主義が登場するわけですが、これによって近代合理性に支えられた社会の発展が起きたのは間違いないと思われるけど、同時にこの行き過ぎ(損得マシーンの誕生)はおそらく人間社会の終焉への秒読みに繋がっているとも感じてしまうわけです。

そもそも、人に「評価」してもらうということは、何者かに「承認」してもらうことです。「誰」によって承認してもらいたいのでしょう。「何者かの偉い人」に承認をしてもらわないと心の安寧がやってこないということでしょうか。文豪の夏目漱石は文部省が自分に文学博士の称号を送る計画があると知り、なんでわざわざ自分のワークを文部省の役人に評価されないといけないのか、と憤ったと言われますが、一方では、評価してもらいたくてしょうがないという人もいるということでしょうね。

偉い人によしよしと「評価」されたいだけならば、まだかわいいですね。「子どもの時に親に褒められないで寂しい思いをしたのね、よしよし」と評価してあげるのもあるいはよいのかもしれません(成熟している人は必要以上にそんな評価を喜ばないかもしれませんが)。これに対して、かわいくない場合がありますね。それは、その「自分にとって好ましい評価の枠組」をいつの間にか社会全体(あまり関係ないと思っている人)に広げようとする動きである(「社会の学校化」と言っても良い)。

例えば、その「評価」をされたい人物が持つ学歴、資格、職業、地位、名誉、財産などを、いつの間にかつくった序列マップで測定しだすわけです。マイケル・サンデルが(「The tyranny of merit What's become of the common goods」)で 言う功績主義(メリトクラシー)ですね。「有名大学の学歴や学位を持ち、良いポジションの仕事に就いてきた人は社会を統治する側の人間として好待遇を受けるのは当然だ」というロジックがよく使われます。そして、いつのまにか、学歴や資格にさほど関心のない(さほど、必要性を感じていないない)有用な仕事をする人たちが、メリトクラシーの体現者の引き立て役に位置付けられてしまうわけです。単なる引き立て役だけならば、まだましですが、いつの間にか謂れのない劣等感を植え付けられかねません。

古めかしい学者ですが、ヘーゲルやデュルケムに従うと、「労働市場は社会のニーズを効率的に満たすシステムというだけでなく、それ以上に、承認のシステム」という意味を強調したいようです。このシステムをありがたがる住人は、自分のワークに対して「所得による労働対価を得るだけでは満足できずに、各人の働きを『共通善』への貢献としてオフィシャルに褒めたたえられるべき」だと主張しがちです(何らかの賞や、彼らが名誉あると信じるポジションなど)。そもそも、その共通善も独善的になりうる可能性があるわけですね(だって、メリトクラシーも既に独善的だし)。

共通善は設定が難しいですね。そこで、サンデルが述べるように、ヘーゲルは同業者組合やギルドが共通善に貢献できる技能や知識を決めて、それに邁進したひとにギルドが評価を与えるという形態を望んだようです。例えば、大学や学会はまさにギルドのような仕組かもしれませんね。これがギルドの中で同業者同士が労をねぎらい努力をたたえ合っている分には問題はないわけですが、厄介なのは、このギルドに直接関係ないほかの社会の構成員に対しても、皆が共有するべきという共通善を根拠に、この序列を援用しようとするわけです。

同人誌を発行するような小さな学会の権威を、水戸黄門の印籠のように使われても困るのですが、この水戸黄門システムは良くできていて、黄門さまが自分で印籠を出さないことが意味を持つわけです。

つまり、なんだかわからない越後のちりめん問屋の隠居だった爺様が「わしは天下の副将軍じゃ」と言ってみたところで、悪者たちは「何を分けのわからないことを言っているんだこの爺様は、者どもやってしまえ!」となるのが落ちです。ここで、お付きの助さん、格さんが「控えおろう」と言いつつ印籠を出すわけですよ。そして、同じ価値システムの中で末席を務める地方の代官は「ははー」とひれ伏すわけです。すると、それを見ていた副将軍の存在なんて知らないチンピラも「お代官様が平伏されている」のでとりあえずひれ伏すのですね。

これと同じです。自分には馴染みのない人だけれど、学会と言う組織がお墨付きのような評価を与えた、そうすると、一般の人は「自分では良しあしを判断できない」けれど、さらにマスコミ(新聞やテレビ)が取り上げることで、一般の人も「周りの人が言うんだから偉いんじゃね」と考え、よくわからないけれど一目置いて見たり、いろいろ許してしまう。ディレクターに「ハイ拍手!」と言われて、場を盛り上げるエキストラにさせられてしまう。

デボラ・グル―ンフェルドが『スタンフォードの権力のレッスン(Acting with power)』(ダイヤモンド社)で面白いことを言っています。

彼女は自分の研究から言えることとして「人生の成功や影響力、満足をもたらすのは権力の大きさではないし、人からどれだけ権力を持っているかと思われるためでもなく、その権力を使って他者の為に何ができるかである」と。

しかしながら、私たちは権力を「個人が自由に使える資産」であり「自分を強くするための資源」だと考えるようになってしまった。そして、「権力の獲得が、いつのまにか自己目的化してしまった」と。そして、

目標を達成するためには権力が必要で、どれだけの権力を持っているかで人間の価値が決まるという神話を信じている。高い地位に就き、常に優位に立つための努力しなくてはならないと考えている。成功の鍵は大きな権力を、何としてでも早く獲得することであり、大きな権力を持った者が勝つという古い考えに縛られているのだ。(同上書、13-14頁)
その考えは、ただ間違っているというだけでなく、悪い結果を招きさえする。(同上書、14頁)

そして、彼女は続ける。社会科学が伝える真実は、

集団の中でだれが最高の地位に就くかを決めるのは、個人の主体的行為(パーソナル・エージェンシー)や競争力、勝つか負けるかが前提の競争的態度ではない。実際はその逆だ。(同上書、14頁)

現代社会の私たちの努力は、サンデルが言うような「功績主義」とグル―ンフェルドが言うような、功績主義により(自己目的化した)権力を志向する古い権力者をかぎ分けるセンサーを研ぎ澄ますことかもしれないですね。





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