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悲しいことは無い方がよいにきまっていますが、そうはいっても、それを感じる能力を持てたことで、ヒトは芸術や文化に親しみ、共感できるのかもしれません。

ヒトの進化は、コミュニティのメンバーとの助け合いや、人の為になる発明や技術の開発、コミュニケーション、そして、多様性を生むための敢えて寿命を設けるなどを通じて発展してきました。

私はしあわせについて少しだけ研究しています。今の研究テーマは、人は次世代、遠い将来の子孫たちのことを想像して行動することが、ヒトの幸福度を高めること、異なる考えや人に対する好奇心と寛容さが、ヒトが次世代や将来の子孫のことを考えるようになるうえでどのくらい重要かについてです。下はまだ査読中のワーキングペーパーです。

私の研究にもインスピレーションを与えてくれる本に出合いましたので、ところどころ引用させていただきながら、紹介もしたいと思います。

小林武彦さんの『生物はなぜ死ぬのか』は、「死ぬのは嫌だけれど、たぶんヒトの戦略的にセッティングされていることなのだろうな、だからいいとかいやの問題ではないんだけれど、おかげで何かを美しいと感じたり、それを共感したいと思ったり、子どもをかわいいと思ったり、お節介にも色々教えようとしたり、いい歌だなあと思ったりできる能力をオマケとして得ることができた。ありがたく、楽しませてもらおう!」と、日頃考えるようにしている私の心にフィットする内容が多々盛り込まれていました。

すべての生物はターンオーバーし、生と死が繰り返されて進化します。生まれてきた以上、私たちは次の世代のために死ななければならないのです。(小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』講談社現代新書 203頁)
死ぬこと自体はプログラムされていて逆らえませんが、年長者が少しでも元気に長生きして、次世代、次々世代の多様性の実現を見届け、そのための社会基盤をつくるための雑用を多少なりとも引き受けることは、社会全体にとってプラスになります。
(小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』講談社現代新書 178頁)

大人たちは子どもたちを既存の枠にとらわれないように出来るだけ多様な選択肢を与え、個性を育てていく必要があります。そのためには、親以外の大人の存在が非常に重要になってきます。

複雑な前頭前野を育む必要のあるヒトの子どもが社会のフルメンバーになるためにはとっても手間暇時間がかかることは以前お話しした通りです。

今日のように、ここまで個人主義化、メリットクラシーが進んだ社会になると、自分の子どもを受験塾、ピアノ、水泳などに通わせることや、(本当にそうなるのかは知りませんが)有名な大学を出て高い所得を得る。「自分が投資して得た能力が生み出した富は自分だけのもの、うっしっし」と考える向きも新自由主義経済の中では普通になってきましたが、やはり、学びはコミュニティーのメンバー、次世代のメンバーの育成のために還元するというのが、幸福のメカニズムから見ても妥当な考え方という気がします。

自分の子どもがいなくても、自分の子どもでなくても。社会の一員として教育に積極的にかかわることは、親にもできない個性の実現に必須です。 (小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』講談社現代新書 176頁)

最近はAIなどの技術に注目が移ってきています。AI自体は上手に活用すればすごく役立つものだと思います。一方で、感情豊かに発達したヒトの脳が持つ、共感や同情などは、ヒトの戦略として必要だから進化の過程でゲットしたものと思います。しかし、近年は、なんとなくロゴスよりも感情を低く見做す人たちが増えてきたように思います。社会学者の宮台真司さんが「感情が劣化した損得マシーン」と表現している人たちはその代表例かもしれません。

自分だけが生き残ればいいという利己的な能力よりも、集団や全体を考える能力の方が重要であり、選択されてきたのです。
(小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』講談社現代新書 164頁)
すべての生物はターンオーバーし、生と死が繰り返されて進化します。生まれてきた以上、私たちは次の世代のために死ななければならないのです。(小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』講談社現代新書 203頁)

AI自身は喜びや悲しみを実感できないかもしれませんが、「ヒトって、こういうのに反応するんでしょ?」と言って、電気信号やホルモンを利用して、人間が反射的に喜ぶことやゲームへ誘い、また社会のシステムに沿った行動に無意識に誘導させられるかもしれません。

「ヒトが人である理由をしっかり理解する」ことで、はじめて科学技術や経済開発が真の意味で役に立つようになるのでしょう。そうしないと、ヒトが人たる条件を自ら捨て去るという矛盾に満ちた行動をしてしまいかねません(もう、してます?)。人工知能の発達によるシンギュラリティのような話や人間の脳の情報をクラウドに上げて永遠に記憶を活かすようなお話や研究について聞きます。やがて、それらは「人格」を持つのでしょうか。しかし、「死なない人格」と「死ぬ人格」が同じところで暮らし共感することは生易しいものではない気がします。

「他人のために喜べるヒト」、「失恋、離別、死別で悲しんでいるヒト」を見て、「死なない人格」は「何をそんなことで悩んでいるんだい。理解できないね」と言い放つかもしれません。ヒトの感情は、人類をより安全・安心に未来につなげていくためのメカニズムに付随して生まれているように感じるときがあります。

さて、悲しみは嫌ですよね。嫌なことが悪だとすれば、悪を取り去りたくなるかもしれません。そうですね、たぶん外科的にヒトに喜びや悲しみを共感しにくくさせたりすることは可能なのだと思います。でも、悲しいことは、嫌なことで、無い方が良いと思いますが、それでもそれを感じる能力を持てたことで、ヒトは芸術や文化の良さを共有・共感できるのかもしれませんよ。

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