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妻はゼミ生11:働きバチは思った、私は自分らしく生きる。蜜はもう集めないー社会的生物の生存戦略とリベラルとの葛藤ー

ハチの巣にリベラルの風が吹いた。働きバチは思った。「女王バチとその子孫の為に働きづめの生活はもう嫌!(自分も女王バチの子孫だけれど)」と。ある若い働きバチはせっせと巣の掃除や収集担当が持ち帰った蜜の確認や保管に勤しむ。またある若い働きバチはせっせと次世代女王バチ候補に食事を運ぶ。「ほーら、ロイヤルゼリーだよー」。そして、年配の働きバチは危険を顧みずに、天敵がいるであろう遠くの仕事場まで蜜を集めに行く。帰還できないリスクの高い仕事に若者は割り当てられない。その働きバチは、先輩からいつも話を聞いていた。「あなたは、それでいいのか。自分らしく生きなくていいのかと」

著作家の橘玲さんの言葉を借りれば、リベラルは「自分の人生は自分で決める」「全ての人が自分らしく生きられる社会を目指すべきだ」という価値観とも捉えられる。働きバチは「自分の人生は自分で決める」を選ぶことが幸せかどうかはわからない。

有名な「マズローの欲求の5段階説」に従えば、「生理的欲求」や「安全の欲求」が満たされた後には「所属の欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」などの高度な欲求の段階に移行していくわけなので、今日の「認められながら、自分らしく生きる」という方向性はヒト社会の想定内の出来事なのかもしれない。

この「認められながら、自分らしく生きる」という夢に押しつぶされるような圧力を「ドリームハラスメント」と言うそうだ。つまり、「大人」や社会が若者に「夢を持たせよう」とすること、「このまま変わらないでいいの?」と迫ってくることを、若者自身は虐待と感じているのだという。大人たちは、新自由主義の社会経済において、教育の「パイプライン」から零れ落ちてしまった若者に「夢を追い求めさせる」ことで、彼らがこれから直面するであろう「自己責任の社会を泳ぐこと」の意味付けを行う。

家庭や共同体などが強制する目標は「自分らしさ」を抑圧する。
橘玲『ムリゲー社会』小学館新書 30頁
誰もが「自分らしく」生きる社会では、社会のつながりは弱くなり、私たちは「ばらばら」になっていくのだ。
橘玲『ムリゲー社会』小学館新書 31頁

さて、幸福度を上昇させる要因として良好な人間関係があげられます。人間関係には、家族のような密接な人間関係に加え、地域コミュニティのルースからタイトな様々な人間関係(中間組織)、そして行政や金銭を出して購入するサービスに付随する人間関係もあります。家族は当たり前として、コミュニティのいろんな人間関係の役割は非常に重要だと思われます。それに、ヒトの子どもは親だけが育てるのではありませんね。

企業のサービスについては、マッチングしない場合に依頼する会社や人間関係を変えることも可能でしょう。もちろん、民間のサービスを購入するお金がある限りの話です。「お金があれば何でもできる社会は、お金が無くなると基本的なサービスまで受けにくい社会」となるかもしれません。

介護の世界ではお金があったとしても、性格に難があったり、可愛くないお年寄りは希望のスタッフを選べなくなっているという話も聞きます。お金は万能ではなさそうですね。お金を尺度にした社会の危険については以前に書きました。

恋人や家族の親密な空間がこれまで以上に意味を持ち、「社会関係資本的な地域や中間組織の力が弱体化し、行政やお金で買うサービスの領域が拡大している」ように見えます。これが進んでいくと、道で困っている人を見かけても「おい、誰か役所に電話してやれよ」という対応になってしまうかもしれません。

自助・共助・公助のうち、中間共同体が担う共助がなくなれば、あとは自助と公助しか残らない。
橘玲『ムリゲー社会』小学館新書 47頁

そのそも1990年代以降と比べても、税率は上がっても賃金は上がっていないという現象が見られる中で、必要なサービスは購入するというスタイルが持続可能かということは考えざるを得ません。家事や育児、地域コミュニティの活動にかける時間を賃金労働に変えて、それで得たお金で誰かからサービスを買う。税金を納めているのだから、行政に支援してもらってあたりまえという考えもよく耳にしますが、行政にしても、社会関係資本に変わるサービスをすべて提供するための人的、財政的な余裕はもうないでしょう。

前に「村十分」の話について書きました。要するに、地域コミュニティという中間組織のルールを破った人には、「村の10個の協力」のうち、2つを除いて提供しないというやつです。そうですね「村八分」のことです。上の議論をもとに見直すと、現代は自主的に村八分の世界を選んでいるようにも思えます。地域コミュニティがやってくれなくてもいいよ。お金を出して、民間のサービスに頼むよ。だから、地域の助け合いにも参加しないよ。という理屈です。

地域での対面のつながりは減りましたが、私たちはオンラインを使い、ヒトの脳のキャパシティ(150人)を超える人数とつながりました。しかし、その人の顔を思い浮かべ、心遣いをし、気持ちに寄り添うことができるように、もともとの脳のキャパシティ(150人)をアップグレードしたわけではありません。

そうなれば、私たちはつながっている人に対して、必ずしも共感したり、思いやったりしないで接することが出来てしまうのかもしれません。これを「ネットワーク個人主義」と言うそうです。多くの人とつながっていながら、全人格的につながる必要性は失われているので、ますます「孤独」を深めていくこともあり得るでしょう。

ひょっとしたら「孤独」が好きという人もいるでしょう。孤独礼賛の啓発本も人気だそうです。しかし、その孤独は「ソリチュード」に近い意味ではないでしょうか。ソリチュードは、基本的な人間関係で出来上がった社会の価値に拠りながら、「放っておいてほしい」「一人にしてほしい」、「みんなでなくソロでやりたい!」という感じかもしれません。

同じ孤独でも、問題は「ロンリネス」です。こちらはね、基本的な人間関係を享受していないので、身体的にも不具合が生じるようです。つまり、頭では「孤独」がいいと思っても、実際に孤独になると身体はちゃんとダメージを受けるということです。だからこそ、外国では健康課題に「孤独担当大臣」を配置するなどして、孤独対策に力を入れているわけです。

「孤独」を感じないヒトであれば、その人はよいのかもしれません。ただし、AIや特別な脳機能を持つ人は出来るかもしれませんが、一般的にはそれは難しいでしょう。閉塞感を感じている人にとって夢を持つことは元気をもたらすでしょう。夢を持つことは良いことでしょう。

しかし、何事もバランスが大切でしょう。夢の為に人々との関係性を極端に切りすぎて、制度やサービスやお金に依存しすぎる人が増えすぎると、「夢を実現した人」が集まりながらも、全体としておかしな社会が生まれるかもしれません(合成の誤謬)。

目の前の人を大切にする。自分にできることをして、周囲の人を安心させる、楽しくさせるというのも素晴らしい夢だと思います。桜やひまわりのようにあからさまな花でなくても良いわけで(竹原ピストル風に)。その延長として、世界にポジティブな影響を与えられたら尚良しというところではないでしょうか。

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