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妻はゼミ生12:持続可能性って、突き詰めれば、世代間の継承ですよね。消費行動から考える。

家族消費のシステム

妻が購入し、リビングに置きっぱなしになっていた本をパラパラと読んでみる。山田昌弘さんの『新型格差社会』でありました。読んでいくと、何年か前に内田樹さんが別の書物の中で述べていた言葉を思い出して、自分の書架を探してみるのでした。たぶん、いろいろなところで話しておられるだろうからどの本かは特定が難しかったのですが、『街場の共同体論』のなかに近い話がありました。

私の中でも、格差の問題は共同体の問題という意識もあったので記憶していたのかもしれません。だって、助け合いの動物ホモ・サピエンスの社会で自助ー共助ー公助のうち、自己責任論の自助が膨張し、親族や地域共同体や職場の共助はやせ細り、支援制度のメニューだけは多いのに、予算も人も十分に付けられない行政の公助という状況の中で、商品としての教育を自分の為に購入する消費行動、私の努力のたまものは私のものという猛烈な「個」の社会が日本にやってきている気がします(欧州は歯止めをかけようとしている気がしますが)。

山田昌弘さんも、内田樹さんも、日本の消費のスタイルが家族消費から、個人消費に移行したことを題材に、「共同体のため」から「自分のため」への変化について述べています。

家族消費の特徴は、第一に、ほとんどの人がこの物語を共有でき、誰もが同一のものを目指せていたことです。
山田昌弘『新型格差社会』朝日新書、178頁

家族消費とは、家族全員で一緒のものを買うという消費形態です。そして、例えば、高度経済成長の草創期に、地方から都市に出てきた男女が世帯をつくり、核家族(夫婦+子供2人)という核家族モデルを収容するために「2LDK」というスタイルの集合住宅が開発されたわけです。

物やサービスを買うことで幸せに「なる」もしくは「なれる」システムが、社会的に共有されていたわけです。
山田昌弘『新型格差社会』朝日新書、179頁
高度経済成長期には、「このような生活が幸福な家族をもたらす」という物語とともに、新商品が次々と提示されてゆきます。
山田昌弘『新型格差社会』朝日新書、179頁

学歴も同じです。

親が子どもを自分より高い学歴に自分より高い学歴にすると、社会的な評価を得られます。ですから、家族が一団となって子どもの教育費に多額のお金をかけて、大卒の学歴を求めるのです。
山田昌弘『新型格差社会』朝日新書、180頁

おそらく、家族の中に男子と女子の子がいた場合で経済的な支出に制限がある場合には、いろいろな要因もあるでしょうが、家計の戦略的に男子に教育費を使ったであろうことも想像できます。このあたりも、ジェンダー格差につながる問題をつくった原因の一つかもしれません。

かつてこのような幸福システムが社会的に稼働していたのは、ほとんどの男女が結婚し、離婚が少なかったからでもあります。

そして、専業主婦という期間限定の特別なライフスタイルの中で、幸福をもたらす「地位財」を少しずつ買い揃えていく「期待感」が家族消費のシステムを支えたわけです。

それは家族内で合意が形成されない限り、消費行動が始まらないということです。特に高額な家財の購入の場合には家族全員の合意が求められる。

例えば、臨時のボーナスが入ったという時に、パパは「車の買い換え」を提案し、ママは「冷蔵庫の買い換え」を提案し、祖母は「仏壇の買い換え」を提案し、子どもたちは「自転車の買い換え」を提案し、・・・というような場合に、家族内合意を形成するのはきわめて困難です。

結果的に、誰の提案も多数を得ることができず、臨時ボーナスは日曜の夜にみんなで回転寿司に行って、あとはとりあえず貯蓄、というのはよくある話です。消費単位が家族である場合には「そういうこと」が起こります。
内田樹『街場の共同体論』潮出版社、93頁

個人消費の台頭

さて、1980年代後半からこれまでの「豊かな家族生活」という物語が揺らぎ始めます。

家族が「家族の為に」物を買うのではなく、個人が「個人の為に」物を買うという時代の始まりです。
山田昌弘『新型格差社会』朝日新書、180頁

ブランド消費(バッグ、高級車、宝石、洋服=地位財)など、家族のための消費というよりは個人の承認や評価に関係するものに消費行動は向かいます。平成における「承認のための消費」は「アイデンティティ消費」と呼ばれるそうです。

「あなたが何者であるかは、あなたがどのような商品を購入したのかによって決せられる」。そのような消費者哲学に基づいて、現代人のアイデンティティは構築されています。
内田樹『街場の共同体論』潮出版社、95頁
個人消費の時代です。承認や評価の単位が個人個人に分けられ個別化し、幸福の持続時間は必然的に短くなっていくのがその特徴です。
山田昌弘『新型格差社会』朝日新書、181頁
「ネットオークションで前から欲しかったウルトラマンのフィギュアが50万円で出ているので、貯金を下ろしてこれを手に入れたい」というような要請が家族会議で合意を得る可能性はほとんどありません。
内田樹『街場の共同体論』潮出版社、96頁

学歴も同じです。

教育は個人消費の「商品」と考えられ、学費の高い予備校を経て、大学に通い、そこで得た学位や知識は自分のために使うものと考えるようになる。すると、この仕事、この資格、この年収は自分の投資と努力で得たものである、これが得られなかった人はこの投資と努力をしてこなかったという、「自己責任論」が当たり前になる。

ヨーロッパでは大学の学費は無料と言う国は多いですね。学生は、皆の協力で得た技術や知識はコミュニティや世界の為に還元しようと考える。一方で、日本の高等教育は、どちらかと言うと、ヨーロッパ型よりはアメリカ型に向かっているともいえるかもしれません。

持続可能な社会は自助で成り立つか

現代の日本は、自助ー共助ー公助のうち、「自助」が肥大化しています。これは、先ほどの「自己責任論」とも通じますね。そして、地方から都市に移動した人々はそれぞれの故郷の中間組織による共助などを失っていく。

私は子どもの頃を東京寄りの千葉で過ごしたが、典型的なベッドタウンの町だった。昼間は大人の男性は通勤電車で1時間かけて東京へ出勤する。その地域に昔から住んでいる人は「マイノリティ」のようになる。

子どもたちは公立の小学校で色々な家庭の子どもたちと知り合う機会はあるものの、大人の地域コミュニティと係る「時間」は衰退した。山田昌弘さんが述べる「その土地に生まれたら、一生そこに住み続ける」前提はもは失われてしまったのかもしれません。私はその町に帰っても小中学校の時の友達に会える自信がない。

思想家の内田樹さんは次のように言っていました。

バブルの頃は、家族がいなくても、地域社会が崩壊していても、要るものは全部金で買えるという話をみんな信じていました。家事も育児も老人介護も、全部アウトソーシングできるんだ、と。だから金さえあれば人手は要らない。家族の代わり、隣人の代わりは金で帰る。だから、とりあえず金を稼げばいいんだ、と。みんなそう信じていた。でも、何でも金で買える社会と言うのは、逆から言えば、金のない人間は何も手に入れることができない社会だということ。
内田樹『街場の共同体論』潮出版社、88頁

遠くの親戚よりも、隣の他人・・・・さえも、実現しなくなっているわけです。

親の代から続くご近所づきあい、自分がおしめを付けていた頃から見守っていてくれた大人たち、そういった人々から受け継がれた有名無形の「恩」を、今度は大人になった自分が次世代に与えていく。まさに、ジェネラティビティである。そういった社会では、コミュニティの高齢者への向き合い方は変わってくるだろう。

持続可能性って、突き詰めれば、世代間の継承ですよね。持続可能な開発と「個」から形成される社会って、両立するんでしょうか。


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