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鮮やかな『今』を、見てみたい。

美しい心の状態のときには五感がフルで働き、いつもより感覚が研ぎ澄まされる。

最近読んだ本の一節に、そんなことが書いてあった。

たしかに、時々、私もそんな経験ができる。

いつもと同じ景色でも色が鮮やかに見えたり、それまで気にも留めなかった風の心地よさを感じたりする、あの感じだ。

この瞬間は、『将来』のことを悩むでもなく、『過去』を悔やむでもなく、ただ『今このとき』に集中しているのだろう。

ここでは、ネガティブな感情は、不思議と生まれない。

「帰ったら何をしなければいけない…」「今朝はこんなことがあった…」などと、過去や未来に思いを馳せて感情が掻き乱される、なんてことはない。ただ純粋に、今、目の前で起きていることを感じ、すべきことに没頭している分、喜びや感動を味わいやすくなる。

一方で、これとは対極の心の状態になることもある。

日常生活の中で、ふと怒りを感じたり、悶々とする気持ちがあったり、気分が落ち込んだり、焦ったり、不安になったり…。あるいは、別にそれといって苦しんでいる感じはないけれど、充実感や躍動感がなく、何となく時間が過ぎていったり。

こういうときは、ネガティブな感情が生まれやすい。人のせいにしてみたくなったり、八つ当たりをしてみたり、異様に1つのことに執着してしまったりしてしまう。

どれだけ成功して見える人でも、精神的にタフに見える人でも、苦悩を知らない人は、きっといない。なぜなら、人生には、どれだけ細心の注意を払っていたしても、課題や困難は訪れるからだ。

じゃあ、そのとき、自分はどんな心の状態で、それと対峙するのか?

おそらく、その心の作り方が、“分かれ目”になるのではないか、と私は考える。

苦悩の状態にいるとき、人は漏れなく「アイコンシャス」の意識になっているらしい。

アイコンシャス=I conscious 

conscious → 意識している、気にしている  という意味である。

つまり、I conscious とは、私を意識している・気にしている状態、自分が中心になった意識状態である、ということだ。この意識状態にいるときは、自分中心の考え方が、軸に据えられる。

この状態に長くいると、“ネガティブな気分の自分”が、自分のキャラクターとして、自分に定着され、そこから生まれる言動や思考も、ネガティブ化されてしまうのだ、という。

たまには、そういう時もあっていいかもしれない。いつ、いかなる時も、強くあろうとすることは、たぶん、過酷なことであろう。

ただ、この状態が長く続くと、もしかしたら、「何で自分が。。。」とか「アイツがわるい。。。」とか「環境さえ変われば。。。」と、自分にとっても、相手にとっても、快適値が上がりづらいような思考が深まってしまうかもしれない。

話は変わるが、小さい頃は、『1日』がなかなか終わらなかった。今日も、15年前も、1日の長さは、いつだって変わることなく24時間であり続けているはずなのに、体感時間が全然違う。

幼い子供たちを見ていると、子どもは心の底から『今』を生きているように思える。過去を悔やむでもなく、将来を憂うでもなく、今遊ぶことに一生懸命で、今目の前にあることに対し、五感をフルに使って体験をしている。

太陽の暖かさを体で感じ、転んで擦りむいた痛みを全身で表現し、地面を見つめながらアリとの出会いに心を躍らせる。

そんなときに、「今度ディズニーランド行こうねー!」と言ったところで、幼い子どもは、一瞬は喜んでくれても、次の瞬間には、目の前にあるおやつを頬張る。数週間後に行くディズニーのことを想像して過ごしたりは、しない。

え、じゃあ、いつ頃から『過去』とか『未来』を気にするようになったんだろう、、、?

と気になり、調べてみたところ、7〜9歳くらいになると、『過去』とか『未来』とかいうコンセプトが把握されてくるらしい。※もちろん、個人差はある。

鉄棒から落ちた痛すぎる過去の記憶もインプットされるし、誕生日プレゼントは何をお願いしようかと未来のことを考えながら時間を過ごしたり、テストがある日には学校に行きたくなくなったりもする。笑

こんな感じで、私達は色んな経験を重ねるにつれて、だんだんと『今』を生きる時間が少なくなっていくらしい。そして、『過去』や『未来』へ思いを馳せているうちに、どんどんと『今』が過ぎ去っていく。

つまり。

無意識に生きていると、『今』を生きることは、めちゃめちゃ難しいことなのだ。だからこそ、そんな自分に気付き、意識的に『今』に目を向けてみる。

そうすれば、もしかすると、いつもより五感が研ぎ澄まされ、普段の景色が、日常生活が、ほんのちょっとだけ明るい色に変わるかもしれない。

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