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感情の動き

前回、メンタルヘルスのことを書きました。
できるだけ客観的に自分を見て書きたいと思っていましたが、結局は自分のことなので主観的になってしまいました。
読み直すと自分自身としては不完全な内容だな。と感じているので改めて書き直していこうと思います。

・被災直後の感情

以前も書いたと思いますが、一言で言えば「躁状態」でした。
親戚、隣近所の安否が気になっていましたが、基本的には「なにかやらなきゃ」という感情が強く、同級生のグループLINEで流れてくる情報を熱海に向かってきてくれているボランティア団体に流したり、SNSで発信したりしていました。
「なにかやらなきゃ」
その感情が、逆にストレスになりました。
独り身ならフットワーク軽く動ける。でも家族がいる。自分が被災者ということは家族も被災者です。
家族が一番だけど、困っている人も助けたい。遠くから来てくれているボランティア団体の人達だっているのにその人達まかせにしていられない。
そんな葛藤がありました。
ボンジャスの人達から「家族を大事にしてやんな!それが一番」と言われ、そこでやっと気持ちが落ち着いたと思います。
彼らはあちこちの被災地で色々なことを見てきています。私と同じ感情を持った被災者も過去にいたと聞きました。
その人は「遠くから助けに来てくれてんのにほっとけないだろうが!」と奥さんと喧嘩を始めたそうです。だからこそ、私の気持ちがわかったくれたのだと思います。

・涙の種類


発災当初、流した涙は感謝と悲しみ、後悔でした。
友達や仲間、多くの人からの心配の声や協力に感情が動かされ、堪え切れなかった事が何度もあります。
悲しみ、後悔の多くは親戚の魚屋さんに対してです。
前の日に白身魚のフライをもらったのですが量が多く、翌日に食べようと残していました。
しかし翌朝、そのことをすっかり忘れてしまって食べることはありませんでした。それがずーっと心残りです。
魚屋さんへの感情が溢れ出たのは7日にカウンセリングを受けているときでした。
スーパーカブの音がすると魚屋さんかな?と条件反射で見てしまう。でも違う。6日の朝に亡骸を見て、いるはずないと分かっているのに。
心配で、受け入れられなくてたった1日なのに何度もそんなことがあって、自分自身相当堪えたんだと思います。

・メンタルの不調を自覚し始めた時

正確には覚えていません。ただ、仮住まいへの入居前後(8月後半)に決定的な事があったのは覚えています。
前述のカウンセリングは子どもたちを対象とした「スクールカウンセラー」の方でした。子どもたちを見ていても立ち直りは早かった。順応性なんでしょうね。
その後2回ほどカウンセリングを受けたと思いますが、妻は「もう子どもたちは大丈夫そうです」とその後のカウンセリングは不要とカウンセラーの方に伝えました。
まだその時は別々の生活をしていたので私の異変に気づいていなかったのだと思います。
私は「まだ続けたい」と思いました。児童生徒を対象としたカウンセリングでしたが、自分自身が危うくなってきている。と「続けたい」の感情で悟りました。
前の記事で書いたように事業所の移転で休めない、そもそも災害で休んだ分は有給扱いだったのでほぼ使い切ってしまっている。毎日忙しく相談機関を調べる余裕もない。
今思えば追い込まれていました。皆気にかけてくれてはいるが気付かない。かと言って自分から助けてと声を上げる程でもない(と思っていた)。

もう一つの決定的な出来事は、何の疑いもなく伊豆山の家に帰ろうとしたことです。
何の用があったか覚えていませんが家族で車に乗っていました。妻の実家に向かい、妻と子ども達を降ろさなければならないのにそのまま素通りし、伊豆山へ向かっていました。
「パパどこ行くの?」
「家に帰るんだよ」
「伊豆山?だって入れないし流されちゃったじゃん」
「あ、そーだった、ボーッとしてた!」
こんなやりとりだったと思います。
漫然運転をしていたわけでもない。災害のことを忘れた訳でもない。でもこの時は『家に帰る=伊豆山に帰る』だったんです。

・不調

今、思い返せば色々な不調がありました。
見えるものの色味が感じられない、音楽を聞いていられない、寝れない。
運転をしている時に前の車があまりにも遅く、あおり運転をやる寸前までなったこともあります。
平気なフリ、大丈夫なフリをしていたと思います。
2週間後に仕事に復帰してからは涙をながすような事も減りました。
涙にはストレス物質が多く含まれていると聞いたことがあります。結果的に溜め込んでしまったのだと、今は思えます。
私の仕事は機械の調整や修理です。そしてその内容は基本的に一機専任で他の人と会話をすることはありません。
そして事業所が移転してからは朝早く夜遅くなり、家族とも顔を合わすのは30分。という生活になりました。
孤独でした。助けを求めたくても求める相手がいない。
いや、上司には何度も求めました。ストレスチェックの結果も教え、会社に行くのが辛い、と何度も伝えました。しかし課長も部長も「もう少し頑張れ」と取り合ってはもらえませんでした。

思い返せば被災して気持ちが落ちるタイミングと事業所移転が重なったように思います。
あの移転が半年違ったら、2~3ヶ月休ませてもらえたら、メンタルの不調に自らちゃんと気付いていれば、きっと今は仕事ができていたと思います。

・自己肯定

今思うのは1年前の自分を「よく耐えてたな、必死だったな」と讃えてあげたいと思います。
それは自画自賛ではなく、労りです。あの時の私の辛さを分かってあげられるのは今の自分しかいない。なぜそう思ったのか。それは前の記事の厄年奉賛会でのことがあったからです。

先日今宮神社の例大祭が終わり、厄年奉賛会の活動もとりあえず一区切りつきました(任期は来年2月2日までですが)。
私は仕事を休んでいる事もあり日中事務所に詰め、夜間は仕事が終わって来た会員と交代する。というスケジュールで参加していました。
「あいつは夜いつも帰る」といった声があったかもしれません。実際にあったんだろうと思います。でも、終わってベロベロに酔っ払った私を介抱してくれた友達の言葉が残っています。
「お前は毎日朝から出てきて一人で他の奴の仕事もやって頑張ったよ。夜いなかった事がなんだよ、お前は十分やったと思う」
自分自身でも夜みんなが仕事終わりに来ているのに自分は帰ることを責めていました。
でもまた不眠になりたくない。という感情の方が強くいつも帰っていました。
それをその友達は最後に認めてくれたのです。
だから1年前の自分に耐えられなかった事を責めるのではなく、讃えてあげたい。
1年前の自分に今の自分の声が届くことはないけど、よく一人で耐えてたな。辛かったな。頑張ったな。って言ってやりたい。
あの時の辛さを一番知っているのは自分自身なのだから。

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