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罪の声

タイトルの小説、ご存知ですか?グリコ森永事件(本作ではギン萬事件)をモチーフにした小説です。
内容はとあるテーラーの店主が自宅からギン萬事件に使われた音声テープと英語で書かれた手帳を発見し、その声の主が自分だと知ることから話が始まります。
同時期に新聞社で事件当時から35年という節目の企画で事件の記事を書くために取材を始める…というストーリーです。
映画も観て、大抵いつもは「小説のほうが濃くて面白いな」と思うのですが、映画も良かったです。
小説の内容を端折られることもなく、それでいて2時間に収められている。
脱線してますが、小説や映画のことを書こうと思っているわけではないんです。ひとつ、災害と関係のあることをここまで書いています。
 取材 です。
被災して色々な取材を受けてきました。それまでインタビューを受けたことは何度かあるものの多くの記者に囲まれて話す、何度も取材を受ける事はありませんでした。
今回は取材について書いていこうと思います。

・なぜ書こうと思ったのか

前々からこの事は書こうと思っていました。それは取材されている記者の方も色々な方がいたからです。
罪の声の映画の中で新聞記者の阿久津英二がテーラーの曽根俊也に独白するシーンがあります。
正確に覚えていませんがこんなセリフです。
「大阪から東京に転勤して社会部の記者になり、子どもが殺された事件で親にこう聞くんです「お辛い中申し訳ありません、お子さんとの思い出を聞かせて頂けますか?」そうやってエピソードを聞いて「それはいいお話ですね、ありがとうございました」と記事にする。それが嫌で大阪に戻ってきて芸能部です」
受けたばかりの心の傷に踏み込んで話を聞いて、それを記事(飯の種)にする。阿久津の良心はそれを良しとしなかった、と言うか耐えられなかったんでしょう。
災害や社会的に大きな事件が起きると必ず聞かれる言葉がありますよね。「マスゴミ」って。発災約2週間後に東京オリンピックが始まって、確かにその時さーっと記者が引きました。自分も「やっぱりな」と思いました。
でも引き続き取材してくれる記者もいた。主には県内の新聞社・TV局でしたが、そこにはマスメディアとしての使命感を感じることもありました。
恩返しってわけじゃない、でもそんな記者の方々の事を残しておきたいな。と思ったのがきっかけです(悪いことも含みます)。

・スタンス

先に話しておかなければいけないことがあります。私は取材を受けることや自分がTVに映ることにあまり抵抗がありません。これは人それぞれの感覚だと思います。
「なんでそんなに取材を受けるの?」と問われれば逆に「なぜ取材を受けないの?」と思います。
自分が受けた取材の記事で、VTRで誰かの記憶に引っ掛かってなにかの災害のときの助けになれば。と思っています。
「そんな事は専門家に任せなさい」と言われたことがあります。でも自分は机上の論理より1つの体験の方が大きいと思います。
だから取材を受けて多くの人に知ってもらったほうがいいと思っています。

・急な取材、放送されず

発災から数日経つと既に何度か取材を受けていました。
あるTV局から「週末の番組でインタビュー動画を放送したいから今日明日で時間を作ってもらえないか」と連絡がありました。「夕方のこの時間であれば」と受けたのですが、放送前日に確か九州地方での豪雨がありそれに差し替えになったため結局放送されず。
自分はそれは仕方のないことだと思います。日付はちゃんと覚えていないのですが発災から2週間程度のこと。日々情報が更新され、それによって思っていることも変わってくる。あの頃は1週間も経てば心境は変わっているのは当然のことと思います。
だから1週間後の番組で放送されても微妙に思っていることは違う。予定が変わって使われないのであれば放送されない方がいい。

・囲み取材

避難所のホテル前で囲み取材を受けました。それは敢えてやったことです。
SNSで「マスコミが登校中の小学生まで追っかけている」と投稿があり、それをさせないように事前に連絡をもらっていた記者さんを含め他のメディアの方たちにも子どもが登校するタイミングで声をかけて受けました。
(この頃の登校は図書館で勉強する、ということです)
その後何度か囲み取材を受けましたが、正直しんどいです。このときは朝でしたがクタクタになりました。
慣れもあるんでしょうが政治家や芸能人はタフだな。と思ったりもしました。
1対1で取材を受けているときは自分の言った言葉に対し「こういう意味ですよ」と後から伝えて、言い方は悪いですけど言葉尻をとらえられないよにしていましたが、囲み取材では次から次へと質問されて自分の意図と違う伝わり方をしてしまわないかと注意していました。
囲み取材で一度、行政への批判の言葉が欲しいのだろう。という質問をされたことがあります。
災害が起こった原因、被災者への対応、それぞれで行政(特に市)に批判が多かったのは確かです。でも現場レベルで一生懸命やってくれている職員もいて、一括りに批判はしたくない。
自分はそこで言いました「盛土の経緯はわからないし、自分はそのことについては話さない。市も混乱している中被災者への対応や支援物資の仕分け等で大変だと思う、感謝している。自分は役所に同級生や後輩、知り合いもいる。彼らが今頑張っている姿を見ているのに自分は批判する気にはなれない」
木を見て森を見ず、なのは重々承知です。本質が見えていないのもわかっています。
でも過去にやらかしたことと、上で決めたことの尻拭いをさせられている末端の職員の事を思うと批判することなんて出来なかった。

脱線しましたが囲み取材のときは言葉のチョイスに気をつけて、自分の意図と違う伝わり方にならないようかなり気を使いました。

・留まってくれた記者の方々

大体1ヶ月程度でしょうか。それぐらい経つと記者の方もだいぶ減った記憶があります。
オリンピックが始まって減り、8月に入って減り、という感じですかね。
それでも静岡県内のローカル局、新聞社は残って取材を続けてくれました。
「全国紙は全国紙の仕事が、地方紙には地方紙の仕事がありますからね」と話してくれた覚えがあります。
全国紙、キー局の方々の顔は覚えていませんが、地方紙、ローカル局で取材を続けてくれた人たちとは顔なじみです。だけど最近は見かけないかな。
やっぱり災害から1年という節目は取材が多かったです。そういったタイミングでの取材はやっぱり全国よりも残り続けて取材を続けていた地元の記者の方が話は聞きやすかったんだろうな。と思います。
逆に自分は「その日は取材しないで、何もしゃべらないから」と伝えておきました。
NHKも取材を続けてくれました。一番長く密着して取材してくれたと思います。
他にも残ってくれたわけではないですけど時間が経ってから現状を取材したいと連絡くれた方や個人的に熱海に愛着があり、復興していく姿を取材したいと言ってくれた方、1年経って心境の変化や1年間の事を聞きたいと連絡が来たり…

災害発生時はやっぱりセンセーショナルだし、数字の面からでも取材が多く入るのは理解しています。それ故にマスゴミなんて言われ方をしてしまうのも。
熱海に出入りした報道の人たちそれぞれが、どんな気持ちでいたのかは分かりません。
でも被災地に心を寄せて取材してくれる方もいる。
風化は致し方なし。以前にも書きましたが私の考えはこれです。でも熱海に思いを馳せてくれる記者の方、記憶に残る取材をしてくれた記者の方がいれば完全に忘れられてしまうような風化は起きないのかな。と思っています。

近い将来、伊豆山に戻ったときにまた取材をしてくれると嬉しいなと思っています。

・紹介

最後に1冊紹介です。
静岡新聞が総力を挙げ取材をしてくれた記事が冊子になっています。
ぜひ多くの方に読んでほしいです。


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