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【短編小説】自殺幇助士

※この物語はフィクションであり、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。

  


  
 特大テレビの映像は16Kの高画質。画一的な規格によって大量生産されたであろう映像は美麗だ。
 
 テクノロジーの進歩は著しく、僕らの視力が追い付けないほどに解像度は上がっていくというのに、「多様性」。こんな解像度の低い抽象的な言葉によって、人類は自ら本質を見抜く能力を落としている気がしてならない。
 
 容認すべき事柄の増したダイバーシティとかインクルージョンとかいう十字架を背負った現代。あらゆることを否定せず、人類は何が正しくて何が正しくないのかという境界線の解像度までも落とし、ぼかされた世界はテクノロジーと反比例した史実を描いていく。
 
 ただ、僕はこの「多様性」という言葉が嫌いじゃない。
 
 水にもなるし油にもなる。時には車輪にだってなるし正義にもなる。つまりは万能素材である。
 
 にもかかわらず多くの様々な人間、皮肉にも多様な人々はこの言葉を吸収することに苦慮している。
 
 彼らは新しい価値観に嫌悪感を抱くという遺伝子が騒ぐので、それに対抗する処世術を心得ていないだけ。さながら骨董人こっとうじんとでも名付けよう。
 
 映る特大テレビでは今日もコメンテーターたちが自殺の是非について論じていた。
 
 なぜメディアはまだこんな低画質を演じるのか。為政者の美辞麗句びじれいくは言語のルッキズムを助長し、反本質主義者を増加させる。これもひとつのプロパガンダなのだろう。そりゃ骨董人にウケるはずだ。
 
 さらに街では未だに自殺法について反対を表明してデモ隊なるものを結成し、闊歩かっぽしている者たちもいる。
 
 そんな時代の流れに取り残された骨董人たちもまた、多様性によって認められるべきであって、彼らが僕をひどくバッシングしようとも、僕は彼ら骨董人を容認するくらいには多様性を受容できているつもりだ。
 
 僕の職業には実に多様な通称が付けられている。そのひとつに「死神」というものがある。揶揄しているにも関わらず、僕は「神」と言われることに誇りすら感じているから面白い。だって神ですよ、神。だから、最初にこの名を提起した人へ輝度きど高めに賛辞を返してやりたい。
 
 柔らかい通称を抜粋すれば、「お見送り人おみおくりびと」。優しすぎて、ちょっと嫌いだ。
 
 むしろ死神くらいに言われていたほうが、僕としても矜持が保たれる。いかに自殺幇助じさつほうじょといっても、人を殺しているという感覚はあるのだから……。
 
 正式名称は「自殺幇助士じさつほうじょし」。
 お国柄このような強い言葉を使うときには横文字で曇らせるとか、「自殺」なんて凶暴な単語は避けそうなものだが、この安直な名が、ことさら自殺反対派を煽っているように思えてならない。
 
 どういった意図があって自殺幇助士と命名したかは解せないが、僕としては誰でもできるような仕事ではないことを、せめて世間にも知ってほしいと願っている。
 
 以前から死を望む人間は一定数いたが、自殺は禁忌的で極めてグレーな扱い。法治国家である本国でさえ、自殺そのものを処罰する法は存在しなかったのだ。とはいえ自殺教唆じさつきょうさや自殺幇助は明確に関与した生き人を罪に問うてきた。そしてこの度自殺を忌みする慣思想を改め、我が国日本はある条件下に限り自殺を容認すると新たに法律を制定したのである。
 
 引き続き自殺教唆や自殺幇助は罪として成立するが、例外として自殺幇助の専門的な知識を有する国家資格保持者、「自殺幇助士」の下で自殺を遂行することが認められた。
 
 その背景には、電車のダイヤが乱れたり、地主や大家さんへの被害を最小限に抑えるなど意図あってのもの。要約すれば、迷惑かけずに死ぬなら許す。という国からの通達だ。
 
 そして僕は今日、またひとりの自殺志願者の元へ向かう。
 
 四方を囲むやたら堅牢そうな桂垣。その中にそびえ立つ豪勢な館が依頼人の住居である。
 
 自殺志願者である独居老人は快く僕を迎い入れ、見たことのないような高い天井のリビングへ僕を案内した。
 
 老人がソファへ腰掛け、僕も対面のソファへテーブルを挟んで浅く座った。
 
「それではまず、カウンセリングから開始します」
 
 自殺幇助士は、手順を間違えると自殺志願者の遺族から訴訟されてしまう恐れがあり、慎重にことを進めることが重要である。過去の判例で、自殺幇助サービスを展開する民間事業者が、国のマニュアルに従い遂行していたにも関わらず敗訴した事例もあり、リスクの高い職種であることは周知されている。
 
 その分高いリターンも約束されており、たった一年従事するだけで通称になぞらえて送り人が億り人になるとも。それもそうだ。死者に金なんていらない。財布の紐が緩くなるとかいう次元を通り越して、彼らは金庫の鍵ごと差し出す。
 
「他の依頼人は君へ最後になんと言い、この世を去ったのかね?」
 
 自殺志願者の老人は言った。
 
 わりとこの手の質問は多い。死の岬へ至ってなお、他人の動向を気にするところが初めは理解できなかったが、最近ようやくわかりつつある。おそらく人間の付和雷同ふわらいどうの精神が、この言葉をつい口にしてしまうのだろうと。
 
 自殺志願者は内実、自殺という選択を取ろうとしている淵でも、人として“普通ではない”“画一的ではない”自分を遠ざけるのだ。人間とは多分そういう仕組みで出来ている。
 
 残酷だと思う。でも僕はこう言うしかない。
 
「秘密保持の観点から申し上げることかないません」
 
 自殺を望む人が最後自殺幇助士へ何と告げるのかを世間は知らない。【自殺者の最後の言葉たち】なんて本を元自殺幇助士が出版したら売れるかもしれないが、退職後であっても業務上知りえた知見を公表することは禁止されている。
 
 本当は秘密保持契約なんて無視してこの老人にも教えてあげたいし、きっと老人の意思を肯定することに繋がると信じている。もし叶うならば、老人の中に存在する自殺という罪の意識をスッと軽くしてあげることもできるだろうに。
 
「ならば、質問を変えよう。君は私が最後になんと言うと思うかね」
 
 自殺志願者は比較的穏やかな気質の人が多く、そして、賢い。
 
 この老人もまた、これまで見送ってきた自殺志願者と同様に賢かった。僕が秘密保持によって話せないというポジションを即座に把握し、僕が喋りやすいよう配慮したのだが、法の穴を突いたような行為も自殺幇助士として答えてしまうのはリスクが高い。
 
「そうですねぇ、今答えを言ってしまうと、最後自分がなんて言うのかって楽しみが減るでしょう。それは自殺冥利に尽きないのでは」
 
「ハハハ、面白いね君は」
 
 老人の皺だらけの笑顔を見て思うことがある。死期を自ら定めることができるというのは、もしかしたら最高の幸福なのかもしれないということ。
 
 本来死はゆっくりと訪れるし、急襲することもある。準備の猶予はそう多く残されていないことが常なのだから。
 
「この薬であなたは楽になれます」
 
 安楽死の錠剤。自殺幇助士のみ持つことが許されている死神の介錯。
 
 老人は突きつけられた錠剤を一目見やり、想い馳せるように宙を見上げて言う。
 
「君はー……最初に詠まれた和歌を知ってるかい?」
 
「知りませんが」
 
 老人は、テーブルに置かれたメモ用紙へボールペンを滑らせる。
 
八雲立つやくもたつ 出雲八重垣いずもやえがき 妻籠みにつまごみに 八重垣作るやえがきつくる その八重垣をそのやえがきを
 
「どういう意味ですか?」
 
「私はこの歌が好きでね。スサノオノミコトが妻になる女性へ詠んだ歌だ。現代風に言えば、おまえを一生守ってやるよ。と、少々乱暴な訳し方だがそんなところだよ」
 
 老人には愛する妻がいたらしいがもう他界した。子供はおらず孤独の身だと言う自分史を一〇分程度語った。
 
「ところで、そのレコーダーは切ってもらえないのかな」
 
 老人と僕の間のテーブル上に置かれたボイスレコーダーを老人は指さす。
 
「申し訳ありません。法令によって僕とあなたの会話は全て記録する必要があります」
 
「そうか」
 
 言うと老人は口元に手をやって、わしゃわしゃと髭の感触を確かめながら唇を触る。
 
 老人がまだ語るべきことを語っていないということは、急に和歌の話しを始めたところから薄々察していた。
 
 その証拠に老人は口元に手をやっている。これは今にも喋りだしたいが心理的に戸惑っている証である。
 
「じゃあ、日本で最後に読まれた和歌を知ってるかね?」
 
「最後なんて、わかるはずないじゃないですか。だって今なお続いて――」
 
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
 
 老人は僕の言葉を遮り悠々ゆうゆうと詠んだ。
 
「これが最後だよ」
 
「なぜそう言い切れるのですか?」
 
「私が今詠んだから。今この時、この瞬間をもってして最後とは言い難いがね。少なくとも私が詠んだ時点では最後に詠んだ和歌だよ。最初にして最後の和歌。こんなことすら世の道理として成立してしまう。美しくないか?」
 
 言葉遊びに過ぎない。だが、老人は僕からどうしても「最後に自殺志願者はなんと言うか」について知りたがっているのだろう。しかしこんな回りくどい言い回しで僕から引き出せるとでも考えているのか。あるいは何か他の狙いがあるのだろうか。
 
 続けて老人は、「私には妻がいてね。彼女は苦しんでいたよ」と話すが、それはさっきも聞いた。老人とは何度も同じ話しをするのが好きらしい。特に昔話は決まって好物である。
 
 そう思った矢先、先ほど辿ったはずの史とは別の道へ傾き始める。
 
「……もう二十年も昔のことだ。――私が彼女を消した理由」
 
 そこから語られた昔話は、面倒な話しではなく、僕は冷や汗を搔くほどの物だった。
 
 老人は賢い。この話しを僕にしてしまったらどういう未来が訪れるかということをわかっているはずだ。
 
 それなのに、饒舌じょうぜつに語る口は止まらない。
 
 僕は知っている。自殺志願者は生への渇望と死への欲求を往復するのだ。死にたいと望んでいても、どこかでまだ死んではならないという本能が働く。そしてまた死にたいと願っては生への執着がくっついて離れない。その繰り返し。
 
 要するに老人の生きたいという制御盤がその口を稼働させている。動物としての本能が死を拒む。
 
 自殺志願者の実に七割が、カウンセリングを行った結果死なないという選択を取ることをご存じだろうか。普通は死への恐怖を克服できない。
 
 老人もまた、普通。であったということだ。
 
 ただし、
 
 妻の自殺幇助をしたという一点を除けば。
 
 だ。
 
 それゆえ老人は普通に成り得なかった。
 
 語るに老人は、自殺願望の強い妻を改心させようと何度も説得した。そして…………諦めた。自殺することで幸せになれるのなら、妻の意志は尊重されるべきであると感じたからだと言う。
 
 多様な価値観を尊重するのは結構だが、自殺法成立以前の自殺幇助は立派な犯罪であり、老人の独白はしっかりとレコーダーに記録されている。
 
「あなたはわかっていますか? 今僕にこの話しをしたということを」
 
「ああ、全てわかってるよ。警察にでも私を連れていくかね」
 
 老人も僕と同様に自殺幇助経験者。その末路もまた、自ら死を選択するというのか。
 
 未来の僕。そう自分と老人を重ねずにはいられなかった。
 
 自殺幇助士は自殺志願者に訊いてはならない質問がある。そのひとつが、
 
「ところで、あなたはなぜ自殺をしようと?」
 
 これだ。
 
 こちらから自殺志願者に対して自殺する理由を訊いてはならないという鉄の掟があるが、僕は訊いてしまった。が、老人は眉を歪ませてこう返す。
 
「すまないが、死ぬ理由より先に生きる理由の方を君から語ってくれるかね」
 
 この問いは盲点だった。
 
 愛する人のため? 贅沢な暮らしをするため? 幸せになりたいから?
 
 老人が言う通り、生きることに理由を見出すことが僕はできているだろうか。
 
 裏を返せば僕も生きるという選択を取っているわけではない。つまり選択していない。惰性で生きているだけという事実だけが僕の胸の内でころころと転がっていた。それを拾い上げ、ひとたび思考に浸れば解はそれに記してあった。
 
 消去法として生きるを消した場合、必然的に死ぬという選択肢が浮かび上がる。
 
 僕は頭の中で生きる理由を並べて整理してみても、この老人を前にして話せば薄っぺらい代物ばかりになりそうで、口ごもる。
 
「ほら、君も説明できないだろ。私の死ぬ理由もそんなところだ」
 
 老人の言葉の質量は大きい。若輩に量る術はない。
 
「このことは墓場まで持っていくなんて考えていたが、どうやら君のおかげで重たい荷物をここに置いていけるよ」
 
 老人の自殺はもはや許されない。法によって裁かれるべき存在に成り代わった。今、僕の前にいる老人はもう顧客ではなくなったのだ。
 
「反対に伺いたいのですが、あなたが彼女を自殺幇助したとき、彼女は最後になんと言ってこの世から去ったのですか?」
 
 本来これもダメな類の質問だ。
 
 僕は法的に容疑者を自殺幇助してはならない。もはや僕が老人へ禁止された質問をいくらしようと、僕自身が罪に問われることはない。自殺幇助士としてあるまじき言動だとしても、今は興味の方が勝ってしまっている。
 
「さあ、なんだったかな」
 
 老人はもったいぶって僕の顔をチラッと見た。
 
「教えてくださいよ」
 
「そんな興奮しなさんな。どうだろう、取引しようじゃないか」
 
 老人は妻の最後の言葉を教える代わりに、僕が持つ安楽死の薬を渡せと言う。
 
 どう考えても割に合わない。
 
「それはさすがに……」
 
 にしても、僕と老人はなぜこうも最後の言葉を知りたがっているのだろう。
 
 仮説に過ぎないが自殺幇助経験者はどこかに「報い」を求めているのではないかと思う。
 
「君は、幸せってなんだと思うかね?」
 
 死の淵に立つ人間の人生観は思慮深い。到底僕ごときが答えれるはずのない質問ばかりが押し寄せてくる。
 
「なんだ。これも答えられないのか」
 
 老人はずっぷしとソファの背もたれいっぱい仰け反り腕組みした。
 
「よくそんな死生観や人生観で自殺幇助士なんて職業やってこれたな」
 
「……」
 
 一通り老人は僕を皮肉って満足したようで、不意に妻の最後の言葉を教えてくれた。
 
 思った通りというか……その言葉は聞きなれたもので特に驚きもなかった。
 
 いかに社会的マイノリティの自殺志願者とはいえ、最後に僕ら自殺幇助者へ述べるのは、感謝。
 
 多様性なんてない。画一的でいて平凡。常識的で普通。
 
 この日老人は警察へ出頭した。僕はレコーダーを全国自殺幇助士協会に提出し、ことの顛末をレポートにして提出した。
 
 しかし翌週、僕はまた老人の前に座っていた。先日と同じ立派な桂垣、いや先にそびえる豪邸。老人宅のリビングで。
 
 ああそうか、きっと老人は妻を深く愛していたのだろう。
 
 なんとなく最初に詠んだ和歌と最後に詠んだ和歌について、老人が言った意味がわかったような気がした。
 
 そして驚くことに老人は罪に問われなかったらしい。理由は知らないし、老人を問いただすこともしない。
 
 今僕の目の前にいるのは自殺志願者の、いち顧客であり、僕はいち自殺幇助士であるからだ。余計な詮索は原則禁止だ。
 
「それではまず、カウンセリングから開始します」
 
「また、初めからやるのかね」
 
「規則ですから、これが終わればあなたの自殺幇助をします」
 
 マニュアル的に卒なく質問を続け、いよいよその時は近づく。
 
「では、死に場所はあなたの自由です。もちろん薬を服用するタイミングもあなた次第です」
 
「ここでいい」
 
 老人は一杯の水をテーブルに置いて薬を要求したので、いよいよ僕は死神になる。
 
 そして人の終わりに相応しいであろう重たい空気感を演出すると、多くの自殺志願者はここで沈黙に身を委ね、目を閉じる。
 
 それを僕はジッと存在感を消して待つ。ただひたすらに当人が意思決定するその時を待つ。何時間でも、何十時間でも。
 
 老人も同様、しばらくはその時をいつに定めるか伺うように目を閉じ、最後の思考を巡らせているようだった。
 
 数時間後、その時が訪れ老人は言った。最後の言葉。
 
「ありがとう」
 
 僕はこの言葉に心洗われる。
 
 ありがとうという言葉、いつもは短絡的でいて日常に溶け込んでいるくせに、至っては美しい。
 
「どうぞ安らかに」
 
 老人は穏やかな表情でこの世を去った。
 
 この仕事がいくら法的に承認されようとも、社会的な反発はしばらく収まらないだろう。
 
 それでも、死によって報われる物があるのなら、誰かがそれに応える必要がある。
 
 そうでなければ、人々は自殺に対してネガティブな印象を払拭することはできないだろう。
 
 価値観の変容には時間を要する。
 
 あなたが消えることで社会はまたひとつ、画一性という概念も同時に消していってくれる。
 
 多様性というものが包括的に実現した社会は、そう遠くない地点に横たわっている。これを見た僕らは多様性のユートピアと呼べるだろうか。あるいは画一性のディストピアと呼ぶのだろうか。
 
 答えはわからない。でも、きっと“普通”に帰結する。

 
(了)

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