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三島由紀夫『不道徳教育講座』

子供のころ「道徳」の授業があった。他の教科と同じように教科書が1人ずつ配られて、たいていの授業はそれを読む形だったと思う。一応感想文のようなものを書いたはずだが、内容はあまり覚えていない。確か平和や差別についてなどさまざまな話題を扱っていたはずである。

頭に残っていないのは我々子供の不手際でもあるのだが、当時の素直な印象としては、先生方もその扱いに若干困っていたように見えた。算数などと違って明確に答えを出して答案で評価するわけにもいかないので当然だろう。

私の世代は一応は「教科外」だったらしいが2019年あたりには「特別教科」になったそうである。教育の分野には詳しくはないが区分がはっきりしたほうが便利なこともあるだろう。しかしやはり「道徳」を扱うのは難しい。

そんな中、書店に行けば堂々と「道徳」の文字を掲げている本を見つけることができる。それが三島由紀夫の『不道徳教育講座』である。これは分類で言えばエッセイ集にあたり、短編が詰まった形なのでその点では読みやすいものだと言えるだろう。

手に取りやすい姿をしているが、この本の中身はなかなかに過激である。ざっと目次を見ただけでもとんでもない章が見つかることだろう。例えばこんなものがある。

  • 知らない男とでも酒場に行くべし

  • 大いに嘘をつくべし

  • 女から金を搾取すべし

  • 弱いものをいじめるべし

  • 死後に悪口を言うべし

  • 日本及び日本人をほめるべし

  • 子持ちを隠すべし

などなど。

当時が今より寛大だったかどうかは一旦置いておくとしても、もし現代で出版したら大騒動になりそうな内容ばかりである。読者は恐る恐る読み進めていくことになるのだが、三島の巧みな文章によってなんとなく納得したような、一旦は腑に落ちたような不思議な気分にさせられてしまう。

一例として「弱いものをいじめるべし」を見てみよう。今まで聴いてきたどの道徳にも反するような内容だが、実は三島がいう「弱い者」とは「弱さををすっかり表に出して、弱さを売り物にしている人」のことなのである。

確かにこういう人は多い。やたらと愚痴を言ってきたり、同情を求めたり、何かと被害者のような態度をとるような人物だ。こうした相手の始末に困った時、三島が進めるのが「いじめる」という案なのである。

例えば振られて落ち込む友人に辛辣な言葉をかけてしまう。三島自身はこの実例を相手が平気な顔をして帰っていくという皮肉めいた結末で終えているが、これは決して横暴というわけではないかもしれない。

「弱さを売り物にしている人」は無自覚なことも少なくない。同情を得ることで知らないうちに
満足してしまい、肝心の問題が解決していない。それならばいっそ自分が悪役となってでも欠点を指摘してやろうというのは、むしろある種の親切といってもよい。こう考えていくと「弱いものをいじめるべし」というのも否定しにくくなる。このように何となく言いくるめられていくのがこの本の魅力である。

また、「不道徳」を並べ立てるのは簡単なことではない。試しに自分で現代版の「不道徳」を探そうとしても、元になるはずの「道徳」が曖昧になっているとうまくいかないのである。つまり逆説的ではあるが『不道徳教育講座』に向き合うには「道徳」について考え抜いておかなければならないということになる。

上のように思い描いている道徳を乱暴にひっくり返されるこの本は、その題名に反して正しい道徳についても考える機会を与えてくれるのである。

近代において道徳は一瞬でひっくり返ってしまうと指摘したのはニーチェであり、その実例は彼の後に数えきれないほど出現することになった。この本の中で取り上げられている内容も、現代においては印象の違うものも少なくない。

道徳が絶対のものではないということには、もちろん古い価値観が変化し誤った抑圧が無くなるという良い点もある。しかし逆の場合は恐ろしい。

現代はむやみやたらと価値観を押し付けられるようなことは少なくなり、ある程度は多様性も認められるようになってきた。その反面「道徳」という言葉は日常からは姿を消し、学校の教科として細々と生き残っている。

これからの子供達は「道徳」を「特別教科」として学ぶことになるのだから、大人である私たちもそれに向き合い直す必要があるのかもしれない。とはいえお説教は勘弁してほしいという人にはこの『不道徳教育講座』はまさに最適の本だろう。


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