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共感はそこまで必要なのか

デザイナーである田中 一光の著作を読んでいたところ、「共感よりも芸術の啓蒙を」というような一節にぶつかった。デザインに関わらずどんな分野や場面でも共感を重んじる現代には物珍しく響く言葉である。逆に「啓蒙」の方はは久しく耳にしていない。

共感が重視されるようになったのは言うまでもなくインターネットの影響だろう。誰でも気軽に意思表明できると言うのは今までにない変化だといえる。今まで出版という関門を抜け出すことのできなかったものも世に出てくるようになった。

意思があちらこちらで表に出てくるようになれば無視はできない。むしろその力を借りるようにした方が賢いやり方だろう。これに失敗し反論が山ほど出てくるとなるといわゆる「炎上」になってしまう。たいていの場合は悪評の方が広まりやすいことを考えると難しいところである。

加えていうならば、同じ感覚の人がいるというのは人間に安心と快感を与える。同調する者の存在は彼らから自分への肯定に他ならない。独りで考えているうちは多少の疑念や反省もあるものだが、味方がいるならそれらも振り払ってしまうことができる。

啓蒙とは確かに共感とかけ離れたものである。啓蒙とは人々に教えて良い方向へ導くことであり、言い換えれば未知の領域へと踏み出させる教育である。新しい概念には反感が予想される。また知らないことにに対しては私たちは臆病である。

そもそも容易に受け入れられる考えならばそこに啓蒙は必要ないはずである。確かにここには一種の強制が含まれており、そこが共感とは一線を画す要因にもなっている。

それでは「共感よりも啓蒙」という考え方は現代では時代遅れかというと決してそうではない。新しいものを生み出すにはむしろ啓蒙が不可欠である。

共感を得ようとしたものは確かに成功を収めることができるだろう。商品であればよく売れるだろうし、作品ならすぐに支持される。しかし私たち大衆は今日を赤と言っていたものを明日には黒だと言いかねない生き物である。流行という文字通り、その変化は水の流れのように早く形を掴むことができない。その気まぐれに常に合わせようと動き続けるのは至難の業である。

市場の分野、いわゆるマーケティングの分野ではこの問題はすでに指摘されていて固定された人気を得やすい狭い領域から始めるべきだとされている。確かに一般大衆を相手にするよりは変化を捉えるのが簡単かもしれないが不確かな共感を探り続ける必要からは自由になれずにいる。

啓蒙とは流れを読むのではなく自ら導くものだといえる。先述の田中 一光の手がけた無印良品はその好例だろう。1980年代の日本は経済的な豊かさから豪華さや浪費を意識する趣があった。民藝論などの基盤はあれど「ノーブランドというブランド」という出発点は無印良品自身が第一人者となった考え方である。

共感を捨てて行動した例は歴史上にも多い。勝海舟は自分の言動が妻子にすら理解されなかった時期があった。しかしそれでも粘り強く実行に移し続けることで次第に支持者が増えていった。

これらは単なる斬新さや目新しさではない。世の中の逆を行うだけでその枠から抜けきらない誤魔化しとも違う。むしろ伝統に立ち返るような概念も啓蒙に当てはまる。重要なのはこうあるべきだという信念であって革新ではない。

自分から信条を見失わない限り流行を追うときのように振り回されることはないだろう。その分腰を据えて時勢に左右されない確固たるものを残すことができる。ただし理解されない状況や反感は避けることができない

この障害を乗り越える手段の一つが芸術やデザインであり、美しさである。美しさは否応なしに与えられるという点で強制的なものだと言える反面、それでも不快な印象を与えることはない。むしろ快く迎えられる命令である。意図して使いこなすのは難しいが強力な力になるのは確かだろう。

共感を得ることが利益や人気のための効率的な手段であることは事実である。しかし時代に左右されないもの、確固たるものを築きたければ啓蒙に目を向けなければならない。そして反感すらも乗り越えるために信念と美しさという美学を備えておく必要がある。

さてこの記事が共感してもらえたかはわからないが、参考くらいにはなれば幸いである。




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