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一度読んだ本、あなたは読み返す?

私は一年のうち読書に当てている時間そのものは人より多いと思ってはいるが、「年間何百冊」と高らかに宣言している人の輪には入れない。なぜなら、気に入った本を飽きずに何度も読み返してしまうからである。

まず1回目は内容を理解できるように読む。当たり前のようだが全ての本が易々とこの最初の関門を通してくれるわけではない。注釈の多い本はそれを確認しなければ十分に理解することはできない。もちろんそんなの気にせず先に進むという豪快な読書もよいだろうが、私の性分としてどうしても注釈まで読み込んでおきたい。

注釈などの量にかかわらず、内容の難解さから苦労する本も多い。例えば社会学や心理学に触れているような本は専門用語も多いため何度もつまずくことになる。現代的なやり方として出てきた用語をすぐに調べてしまうこともできるが、著者独自の用法だったりするとその手も封じられ、さらに長い道のりになる。

哲学書は単語自体は易しい物が使われていることもある。専門用語というのは想像よりも多くない。しかし逆に日常的な単語に深い意味合いを見いだして使用していく場合がある。このまま複雑な議論を展開されるとついていくのに必死になる。それが楽しいところでもあるのだが、時間はどんどん過ぎてしまう。

小説は最初の読書がもっとも早く終わるジャンルである。よほど不親切なSF小説でもない限り、用語の意味で悩まされることはない。ただし感覚が物語に逆らうせいで時間がかかる場合がたまにある。ジャン・ジュネやバタイユを読むときがまさにそれだった。この状況に陥るには文化の違いと倒錯的な物語という両者が揃った時のみ起こるようで、円地文子の『女坂』を読んだときも似たような状態になったのを覚えている。後者はともかく、実感のない古い時代の日本が前者まで引き起こしたらしい。

さて何はともあれ読了したとする。数日間はその本の内容が頭に残っている。生活の折々で思い出すこともある。どういう内容がどこに書いてあったかという具体的な記憶が薄れていく一方で、その本が与えた漠然とした印象だけが定着していく。この差が大きくなると、自分の中の抽象的な考えが果たしてどう書かれていたかもう一度確かめたくなってくるのである。二度目の読書は再確認のためにある。

結論や結末を知っていると本から受ける印象も変わってくる。意外なようだが、この差は小説よりもむしろ哲学書の方が大きい。よい小説は起承転結があっても最後まで主題に向き合うための道筋が示されている。そのため二度目でも作者がいかに巧妙にその道を作っていたかがわかるだけで全体の雰囲気が変わってしまうことは少ない。

哲学書はこれと違い、道筋が示されているとは限らない。最初に読み終えた時に「これが主題であり結論だ」と思った概念が始めの方で既に語られたものだったこともある。意見順序よく進み最後に結論を持ってきているようだが、よく読むと全編を通して似た主張を繰り返しているような場合もある。ニーチェの『ツァラトゥストラ』もこのような部分がある。

読み通してみると「これは部分的に独立しているのではないか」と思うような箇所が見つかることもある。先ほども例に出した『ツァラトゥストラ』でいうと、基本的には生命の肯定と永劫回帰説が中心だが、「知的良心」などはそれと直接関連するかどうか判断しかねる。このような話題は要約書では削れてしまうこともあるが、決して無駄ではなく、他の著作で改めて詳しく触れられることもある。こう見ると作者の思想の推移がわかるようで面白い。

小説を読み返すときは物語の進行ではなく、表現や文体に注目する。プロットが劇的で唯一無二だというだけでは名作にはならない。そもそも斬新な展開はいくら昔でも数多く残ってはいなかっただろう。同じ状況、心境を時代や表現の変化によってどう描くかが肝心なところである。

最初に読んだ時に頭に浮かんだイメージが、何ということはない情景描写の一文に左右されていた、というような驚きも楽しむことができる。よい作家はさりげなく読者の心に入り込み、胸に描く風景を操作してしまう。本来ならば恐ろしいはずの火事が『金閣寺』で美しさと開放感を持って感じられるのは三島由紀夫の巧妙な仕掛けなのだろう。

何かと時短や効率化が叫ばれる世の中だが、アップデートもイベントもない本はその分じっくりと腰を据えて何度も楽しむことができる。この文章を読み終えたら早速お気に入りの本を読み返してみて欲しい。それが名作なら、何度読んでもきっと新しい発見があることだろう。


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