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いま『責任と判断』について考えること

責任は誰にあるのか。判断はどのようにされるべきなのか。これは世の中の問題についてよく問われるところです。政治についての記事なんかを読めば、この2語が登場しない時はないといってもよいでしょう。

現代では、さまざまな報道や情報発信が個人でもできるようになりました。それにともなって、無責任な言動や判断の甘さが指摘されることも増えています。インターネットの発展は、責任と判断を問うような状況を増やし続けているのかもしれません。

ハンナ・アレント

『責任と判断』という、まさにそのままの題名の本が存在します。この本は20世紀の哲学者、ハンナ・アレントによる本です。

アレントは全体主義に対す研究で有名です。『エルサレムのアイヒマン』や『全体主義の起源』といった著作は読んだことはなくとも、耳にしたことはあるのではないでしょうか。

実はこの本はアレントの死後に遺稿をまとめたものです。そのため、スピーチの原稿から講義録などさまざまな文章が元になっているのも特徴の一つです。

道徳について

プロローグ、責任、判断という三部構成になっている本ですが、内容的に見れば二つに分けることもできます。実際の事件に対して考察を行なった文章と、より抽象的な議論を試みた部分です。

後者は倫理的、道徳的問題について考えているという点で注目を惹きます。また、『エルサレムのアイヒマン』公開後の、当時の反応についても触れた上で議論を進めています。

例えば以下の文を読むと、『エルサレムのアイヒマン』において言及された「凡庸な悪」がアレント自身の予想外の受け取られ方をされたということがわかります。

まずわたしの著書『イェルサレムのアイヒマン』がまき起こした嵐のような議論について一言申し上げたいと思います。「ひき起こした」ではなく、「まき起こした」という語を使ったのは考えがあってのことです。というのも、議論の大半は、書かれてもいないことについてだったからです。

この「議論」の内容に関して少しだけ説明するなら、このようになります。つまり、人間は弱く、強制されたことで起こったような罪は誰も裁くことができない。逃れる道があったというのは後知恵だ、というものです。

これらに対する反論はこの本の中のアレント自身に任せたいと思いますが、このような主張は現代においてもたびたび見られるものではないでしょうか。本書の道徳に関する議論は世間の人々のこのような反応自体も下敷きにしているという点において、独特な面を持っています。

道徳についての議論の中で、カント、ソクラテス、イエス、ニーチェに至るまで、さまざまな人物の見出したものについて考察がされていきます。

アレントの議論は、道徳について提起される全てのことに対して結論を与えようと意図したものではありませんでした。文中の表現にもあるように「前進するための方法」を少しでも理解してもらうためのものです。

しかし一方で二つの危険性を指摘しています。「自己への無関心さ」と「判断の拒否」です。これらがなぜ道徳に対する危険になりうるのか、これは本書を読んでいただければ理解できることかと思います。

現実への適用

現実の問題について考えている部分も興味深いところです。その事件の、その後を知ることができるという点では私たちはより深い考察を試みることもできます。

具体的な問題を扱ったため、『エルサレムのアイヒマン』同様に批判もあったようです。しかし、事実関係の誤解はともかく、主張自体は未だその意義を失っていません。むしろ理論的な部分も含めて、改めて現状と見比べてみる必要もあるのではないでしょうか。

前述の倫理的、道徳的議論と合わせて読むことで、事件に対する意見の根底が理解できることもあります。いわゆる思索を現実にいかに即していくか、という参考としてみることもできるかと思います。

現代における意義

冒頭でも述べたように、さまざまな事件や出来事に接する機会が増えたのが現代の特徴です。また、逆に私たち自身が行動したり発言することも、比較的容易になりました。

以上のような点からは一層個人が影響を持ってきたということもできます。しかし個人の責任や判断の是非についても問われる場面が増えたことは明らかです。

裁く側にも、裁かれる側にも簡単になれてしまう状況において、このようなテーマについて考え直すということは大変意義のあることかと思います。理論と現実のつり合いも持ったこの本はその再考の手助けとなってくれるでしょう。

さいごに

道徳的問題は私たちひとりひとりに関わるものです。これを考えるにあたって、自分自身という存在はいかに関わってくるのか。それがこの本の主題の一つかと思います。

アレントは『精神の生活』という本を執筆中になくなりました。「思考」、「意思」という二章までを完成させ、「判断」を始めるというところでした。この書きかけの原稿は、検索すると実際のものを見ることができます。

「判断」に書かれるはずだった内容はもはや想像するほかありません。『責任と判断』の内容や題名は、この失われた章を意識したものでもあります。

道徳的問題は私たちひとりひとりに関わるものです。「責任」「判断」について、遺されたページの余白を埋めていくのは、現代の私たち自身の課題なのかもしれません。


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