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20代の読書論 - 「自己投資」か「幸福」か

この文章は一種の「読書論」と言えるかもしれません。すでに読書についての記事や本は多くあります。ショウペンハウアーの『読書について』や、最近だと読書猿さんの『独学大全』が有名ですね。(余談ですが、このふたつは対照的な態度が見られると思います。)

上に述べたように偉大な先人の著作があるのは重々承知ですし、それらの恩恵もかなり受けているのですが、今回自分なりに考えをまとめておきたいと思います。読者の方々の考える素材にしていただければ幸いです。

読書の定義

ここで一度「読書」の定義をしたいと思います。以下で読書にあたる行為とするのは文字を中心としたものを読むことです。マンガ、オーディオブックは含みませんが、逆に文字が中心ならば電子書籍はでも読書の範疇とします。

本自体の内容は今回は問題としません。怪しげな本でも読書することはできますが、どんな傑作でもオーディオブックなら読書とはみなさないということです。あくまでも文字を中心にしていることに注目します。

ところで、この定義からもわかるようにここ数十年、または数年で読書と比較されるようなものが増えたことがわかります。よく考えてみると、もし単純な情報媒体としてのみ考えるなら本は決して優れたものとは言えません。

動画やマンガなら、文字より視覚的な印象を与えることができますから、単純な情報量は増えていると言えるかもしれません。オーディオブックなどは他のことをしながらでも聞くことができます。

それでも本が、読書に意義があるというならばそれは一体どのようなものなのでしょうか。

「自己投資」としての読書

おそらく最近よく聞かれるものとしては、読書は自分の能力を高める、「自己投資」であるから推奨されるべきであるという主張です。

確かにこの主張は魅力的です。自分の能力を気にかけていない人などいませんから、実質全ての人に当てはまることです。また、収入などといった生活面にも関わる話ですから現実的にも思えます。

この主張の特徴は効用を用いて説明を行うところです。「自己投資」という表現からわかる通り経済をモデルとすることができますから、そこが解説も理解もしやすくなっているところだと思います。

しかし知識を増やすという効用に注目するなら、別に動画やオーディオブックでもいいはずです。単純な情報量ならそれらの方が勝っていることもあります。まさに本の要約動画なるものはこのような疑問から生まれたものではないでしょうか。

もちろん情報の質や専門性を持ち出してこの効用論を擁護しようとすることはできます。ただ、「『効用』の効用とはなにか」というあの反論に突き当たることになります。

さらにこの理論では小説や詩はどうなるのでしょうか。果たして『カラマーゾフの兄弟』は「自己投資」になるでしょうか。もちろん文学作品を低いものとするのにためらいがないならよいですが、読書全体の意義を考える上では不十分な考え方だと言わざるを得ません。

「幸福」のための読書

もうひとつよく目にする意見としては、読書は幸福をもたらしたり人生を豊かにするものであるから好ましいというものです。この意見は先述の「自己投資」説を資本主義的とみなす人に好んで用いられる意見です。

なるほど、これなら先ほど不当な扱いを受けていた小説や詩もその地位を取り戻すことができます。この説はどんな本にも適用できるという特徴があり、大変有力に見えます。

読書によって人生が豊かになったという素敵なお話はたくさんありますし、「自己投資」説などより、よほど人間的な説だと言いたくなります。

しかし、幸福という点で言えば別に読書以外でも得られるはずです。他に幸福を感じるようなものがたくさんあるなら、特に読書に取り組む必要はないはずです。単なる「好み」の問題になってしまいます。

読書ならではの楽しみがある、といってもやはりそれは他のものも同じになってしまいます。スポーツや音楽演奏、ゲームだって幸福を与えてくれますし、人生を豊かにできるはずです。

先程の「自己投資」説における比較対象が能力を高めるものに限られていたのと比べると、この「幸福」説は比較対象が増えてしまっていると言えます。

つまるところ、この「幸福」説は「自己投資」説への反論という枠組み内では成立しても、それ単体ではずいぶん頼りないものです。

読書の孤独

では改めて読書の意義を考えるために、他の多くの行為と比べた時の読書の独自性について考えてみましょう。読書でしかできないことがあればそれこそが読書をする意義となるはずです。

読書の他の行為と大きく異なる点のひとつはその孤独にあります。もちろん読後に感想を言い合ったりすることはありますが、読書中は基本ひとりです。

黙読でも頭の中で何らかの声で音読しているように感じるということもありますし情景が浮かぶこともありますが、オーディオブックや動画と違ってそれらは自分の内面から発生したものです。

文字のみがある時の強みはここにあります。例えば、ある物語における登場人物を考えてみましょう。「その人はとても美しかった。」というとき、映像であれば文句をつける人も出てくるかもしれませんが、文字であれば読む人が自分で想像することができます。

言い換えれば、こうして浮かんでいるものは極めて主観的です。先程の人物の例で言えば、映像なら背丈や身のこなしに至るまで、さまざまな側面が客観的に与えられます。

しかし、文字ではそこまで精密に描写するのは難しいですからいかに写実的なものでもいくらかは想像で補うことになります。そしてその想像とは自分のみの内面的で主観的なものであることは言うまでもありません。

読書の他者性

一方読書には、登場人物のいない評論のようなものでも、読んでいる本の作者という他者が必ず存在します。しかしこれも他の媒体とは異なった在り方を示します。

まずは文字であるということから、その人自身の印象はかなり削ぎ落とされます。声や身振りが文章の内容に強い印象を与えるものでなければ、俳優という職業は成立しないでしょう。

もちろん文体というものもありますが、それでも文章である以上は客観性が重視されます。書き手の客観性を目指す態度と文字の持つ客観性の2つが関係していると思いますが、例えばこの客観性がなければ古典を読むのは困難です。

我々は確かに『源氏物語』を読むと理解できない部分が多くありますが、価値観には何となく共感できるところがあります。しかし少し離れた世代の人でも会って話すと価値観の違いに驚くということは多いものです。

以上のことから、読書の特徴と言えるものは2つです。ひとつは自分ひとりだけとなる主観的で孤独な行為であるということ。もうひとつは極めて客観性の高い他者が存在するということです。この2つは矛盾しているように感じますが、実は同じ矛盾を抱えた行為があります。

「思考」という営み

思考がどのようなものか厳密に定義していては本一冊では到底足りませんし、私がそれをするのに適任かは疑問です。なので今回は簡単な議論にとどめさせて頂きたいと思っています。

思考は内面的なものですから、独りで行うものです。話し合いや対話というものは、ソクラテスが行ったように思考を促しはしても、やはり思考そのものは自分自身だけで取り組むことになります。

また、感覚が読み取るもの、「現象」からは遠ざかろうとするという特徴を持っています。プラトンの「洞窟」の寓話はそれをよく表しています。洞窟の中の「影」は現象として捉えられたものです。

以上のような特徴からハイデガーは次のようなことを述べています。

思考は科学のように知識をもたらしはしない。
思考は役に立つ人生訓を作り出しはしない。
思考は宇宙の謎を解きはしない。
思考は直接行為への力を与えるわけではない。                

さらに付け加えるなら、純粋な思考には批判能力というものが元々備わっています。なぜなら、私たちの常識や慣習といったものは、「たくさんの人がそう言っていた」というような感覚的なものであることがほとんどですが、まさに思考は感覚的なものから離れることが原則であるからです。

そう考えると、いわゆる「批判的思考」なんて表現は冗長であり、これを無批判に用いるのは控えるべきかもしれません。

ともかく、現象からは離れるということは確かです。他者というのも感覚で捉えるひとつの現象ですから、思考における孤独とはここにも現れていると言えます。

「一者の中の二者」

思考は以上のように孤独な営みであるということは納得してもらえたのではないかと思います。ハンナ・アーレントも『精神の生活』の中でこのような孤独を指摘しています。

しかしアーレントは思考の「一者の中の二者」が生じる過程にも言及しています。
そこでは主にソクラテスについて言及しながらこのように述べています。

意識は思考と同じではない。意識の活動は感覚経験と同様に「志向的」であってそれゆえ認知的活動なのであるが、それにひきかえ志向する自我は何かを考えるのではなくて何かについて考えるのであり、対話的[弁証法的〕なのである。つまり、暗黙の対話という形で進行するということである。自覚という意味での意識がなければ思考は不可能である。
(※太線部は原文ではイタリック体です)

日本語で言えば、自問自答ということばがこれに近いかもしれません。アーレントはいわゆる西洋哲学からこのような考えを導いていますが、中国や日本の思想からこの問題を検討することもできます。

特に、自問自答は日本由来の四文字熟語といわれていますし、禅における「無言」の自己認識なども示唆を与えてくれます。ただ今回は思考の「一者の中の二者」はこのように文化を問わず存在しうるということのみに留めたいと思います。

思考とは自ら問い、自ら答えるという意味での他者性を想定したものであり、それこそが他の内面的活動とすら違う特徴と言えます。

読書と思考の類似

孤独を原則としながらも、特殊な形で他者が存在するような状況にあるという点で読書と思考は類似しています。

孤独が共通していることは言うまでもありません。どちらもそれを行なっていると言う状態になるには少なくとも自分一人になる必要があります。

「一者の中の二者」という視点ではどうでしょうか。ここで私が指摘したいのは読書とは常に自分の「声」で行うということです。

いつも本を読むときは音読という人はあまりいないとは思いますが、この時はもちろん自分の声で作品に触れることになります。

黙読であっても心の中で文章を読み上げるというような作業は、読書において必ず生じることです。自分の内面的な「声」に耳を傾けるということ、まさに「一者の中の二者」に近いものであることがわかると思います。

思考の道標として

また、思考は基本的に何も痕跡を残さないものですが、本はそれが一部残されているもの、残そうとしたものだと考えることもできます。もちろん作者の思考を完全に移すことは不可能ですが、少なくとも私たち自身の思考の助けや見本にはなってくれます。

思考は内面的で表現されづらいため、きっかけを与えるようなものは多くても、このようにして道標になりうるようなものは貴重です。

冒頭で挙げたショウペンハウアーの『読書について』では「読書」ばかりで「思索」をしない態度を批判しています。「思索」をこの議論における思考と捉えるならこれは納得できることです。

読書もひとつの活動である以上、思考と同時にはできませんからやはりこの二つには明確な区別はつけていくべきです。ただ、先程の批判的思考の例のように、現代では今回のような意味の思考が見失われているような印象を受けます。

ショウペンハウアーの批判は思考の存在を自明としていますから、私たちはその批判を受ける前に取り戻すものがあるのかもしれません。

まとめ

私の考える読書の意義とは、思考の似姿であり道標になるということです。これは読書以外には当てはまらないようなものです。また、もちろん詩や小説についても言えることです。

今回は読書そのものの意義について考えてきました。読書への態度というものも当然ここから考えられることですが、この文章はひとまずここで終わりたいと思います。

この拙い文章を最後まで読んでくださった方はきっと読書を大切にしておられる方だと思います。そのような方に少しでも意味ある文章だと思ってくだされば光栄です。


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