見出し画像

何万回読んでも、いい本

枕頭の書、ということばがある。読んで字のごとく枕元に置くほどに何度も読み返すほど気に入っている本ということである。さて自分にとっての枕頭の書とは何ふだろうか。

以前の記事で自分の読書遍歴を公開したことがある。教養をひけらかすように思われても仕方ないが、後悔はない。自己犠牲だと腹をくくった。

掲載している本に関してはそれぞれ記事を書く予定である。それは自身の整理のためもあるし、それを機に原書を手に取ってくれる人が増えてくれれば、との思いがあるからだ。

しかしなかなか記事が書けないものがる。それは内容がどうという話ではなく、自分に影響を与え過ぎているため、かえって改めて考えるのが難しいからである。それについて執筆することは一種の自己告白に近い。

私にとってはこれらが「枕頭の書」であ流。とはいえ全く触れないというのも無理ふがあるから、今回はそんな本たちをあえて簡単に紹介していきたいと思う。

『ツァラトゥストラ』 ニーチェ

読んだことのない人でもその題名は知っているであろう有名な本である。他の哲学書とは違い、論文でもなければ対話篇でもない独特な形式の一冊である。

ニーチェの文章というのは、良く言えば若々しく、悪く言えば未熟なところがあるとよく語られる。水木しげるもこんな指摘をしていた。しかしこの雰囲気がやはり魅力なのである。ユーモアや弱さがたまにのぞくような文章の方が読んでいて楽しい。

多くの訳が存在するが、私が選ぶのは手塚富雄訳である。これは中公文庫より出版されていて、文庫でも一冊にまとめられている。解説や注釈はもちろん訳者の手塚と三島由紀夫の対談も載っているのでお得である。

『人間の条件』 ハンナ・アレント

著者は映画化をされた人物だが、日本ではそこまで有名ではないかもしれない。しかし『全体主義の起源』という本や「アイヒマン裁判」、「凡庸な悪」といった内容については聞いたことのある人も多いのではないだろうか。

全体主義研究もアレントの功績の一つである。ただ本人はより広いところを目指していたらしい。その一端が伺われるのがこの本であり、著者の他の本に対する序章の役割も果たしている。

人間の行うことを「活動」、「仕事」(「制作」と訳出されることもある。)、「労働」の三つに分けて議論していく内容は今こそ見直されるべきものである。もっとも、その分類分けは当時とはかなり変わってしまったらしい。この変化については訳者解説で実感することができるのでぜひそこまで読んで欲しい。

『自由と社会的抑圧』 シモーヌ・ヴェイユ

小難しい題名だが、これは元々が論文だったためらしい。シモーヌ・ヴェイユはフランス出身の思想家の女性である。本人はかなりの行動派で、労働者の実像を探るためにわざわざ工場で働くことを志望したくらいである。

ただし体調面で大きな壁が立ちはだかり、多くの活動は志半ばで中断されてしまった。この生涯は劇的なのだが、もし万全の状態であればこのように思想を書き残す暇もなかったかもしれないと思うと複雑である。

後期は神秘主義的な面もあるのだが、初期に書かれたこの本はそれがなく読みやすい。しかしその本分はこの頃からしっかりと保っている。この本を読むたびに、自分は著者のように、考えと行動の両面で初志貫徹できるのかと自問自答する。

『氷川清話』 勝海舟

幕末の英雄、勝海舟が語ったさまざまな談話をまとめたものである。さまざまな人物から歴史的事件の実像、いざというときの心持ちまで内容は多種多様である。


今でも世間で偉人とされているような人に向かって文句を言っても許されるのはこの人だけだろう。当時はなかなか難しいところがあったらしいが、それでもことばのひとつひとつには実感と明晰さが色濃く残っている。

西郷隆盛におけるこの本と言ってもよい『西郷南州遺訓』を読んでも思うことだが、やはり英雄というものは器が大きい。見習いたいものだが、人物というのは一朝一夕では完成しないものなのだろう。これらを読んで日々反省するばかりである。

さいごに

今回は特に選りすぐりの本を選んだ。これらは記事を書こうとすればかえって混乱するほど感銘を受けたものである。本と違って人間は変化するので、印象や感動も変わってしまうかもしれない。それでもこれらは依然として「枕頭の書」であり続けるだろう。

新しい本を探すのも楽しいが、時折こういった本を読み返すと違った発見がある。とはいえ、内容が変化するわけではないから、自分が変わったということかもしれない。どちらにせよこういった新鮮さも一興である。この記事も、誰かが枕頭の書を見つける助けになれば幸いである。

いただいたご支援は書籍の購入に充てたいと考えています。よろしければサポートよろしくお願いします。