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三島由紀夫『小説家の休暇』

4月から新しい手帳を買ったのだが、毎日書き続ける習慣がどうも身につかず結局2日ごとにまとめて書くような使い方をしている。生活の中で書き留めておくべきことも思いついたこともあったはずなのに紙とペンを手にすると何となく手が進まなくなってしまう。頭の中で無事だったアイデアも外に出せば消え去ってしまうこともよくある。

そう考えてみると小説家や思想家が遺した日記やメモがいかに偉大なものかよく分かる。出版を念頭に置いていなかった文章もあれば、ある程度読まれることも想定していたものもある。しかしいずれにせよ日常的に書いた文で人の心を惹きつけるというのは並大抵のことではない。


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三島由紀夫は何度か文章の書き方について論じているが「まずは毎日文章を書くこと」というのが一つのアドバイスだった。三島はこれを裏付けるためにある画家のエピソードを例に挙げている。彼は芸術を学びにフランスへ行き、帰国後は見違えるように絵が上達していた。ところが話を聞いてみると、フランスには馴染めず独りで一日中絵を描くくらいしかできなかった。結果的に「仕方なく」絵が上手くなったということだったらしい。

地道な練習を推すだけあって三島自身も日記の形をとった作品を発表している。そのひとつが『小説家の休暇』である。これは題名の通り、三島が小説家として世間に受容され、戯曲など他の分野にも進出していた時期の記録になっている。

「休暇」という題がつけられているものの、この文章で繰り広げられる議論はむしろ激しく核心に迫ろうとするものが多い。その日の出来事に触発されたのだろうと明確に分かるものもあるが、読み手からすると少々唐突な話題の時もある。しかしこれこそ一種のひらめきというものなのだろう。

気に入っているものはいくつかあるが、そのひとつは同性愛に関する部分である。現代では「多様性」の名の下に社会的になった概念だが、芸術の分野では独特の形態を古くから保っている。三島が触れているのは主に男性同士の場合である。

男女関係でも、女が極度にまで能動的であり、男が極度にまで受動的であることが、少なくない。男色では、つまりこうした倒錯が二乗されるわけである。男色それ自体が一種の倒錯であるから、これにそうした倒錯が加味されると、正反対の二つの結果が生ずる。つまり倒錯が二倍になるか、あるいは逆にほとんど正常に近づくかである。ここに男色関係の数学的な神秘がある。

『小説家の休暇』

面白いのは三島が男性同士の関係を「どちらがより男であるか」のような男女関係のアナロジーで考えることを否定している点である。同性愛への理解がかつてよりは進んだといえる現代でも上のような考え方は存在している。

三島は「男色とは男が男を愛するものだ」ということを平凡な主題としている。確かに一見当たり前なように思える一文だが、女性的、男性的という概念を持っているとやや混乱する。もちろん三島も「女性的な男性」の存在を認めてはいるが、むしろその背景にあるいくつも折り重なった倒錯の方に関心があったらしい。

この他にも注目すべき点は多い。例えば文学作品に対しての批評はそれも面白い。内容の読み込みも素晴らしいが、単純に自分も読んでみようという気にさせるところが流石と言ったところだろう。これは詩や映画についても同様である。

日記の中で取り上げられている話題は分野も内容も幅広いところからとられていると言ったが、どこか共通点も持っているようにも感じさせる。他の作品でも見られる、人間の肉体の持つ固有の存在感や行為についてなどといった主題はここにもしっかりと根を下ろしている。ただこの文章から「本音」を読み取れたと思うのは誤りだろう・

随筆や論説に比べると、小説に含まれる思想というのは飾られたものだと思われがちである。露骨に表現するようなことはせず、登場人物に上手く反論させたり、情景描写を交えて間接的に結論を出すこともある。例えば上にあげた同性愛についての考えは『禁色』に含まれていたそうである。もちろんそれだけが主題と言っては差し支えがあるが、これも小説の中では女性や異性愛の観点など様々な面から描かれており、態度も様々である。

論説の形式では基本的にひとつの立場を取らざるを得ない。小説では全員が同じ考えではおかしいから、逆にいくつかの意見も他に設けることになる。この「他者」にどんな人物を選ぶか、またどんな立場を取らせるかというところは作者の自由である。

明確な反対者を出しても良いし、内心で反発するだけの人物でも構わない。あくまでこれは登場人物の「考え」についてなので、彼らの思想を裏切るような事件を展開させてもよいのである。こう考えると、小説からは論説だけでは知ることのできない微妙なニュアンスを受け取ることができる。

日記といえど完全に自己開示しているわけではない。三島は『仮面の告白』という題名の小説も書いているが、「告白」が本当に内心を吐露しているものとは限らない。むしろ着飾ったような口振りの時に本音が出ていることもある。ことによるとそれは自分でも気づかないものなのかもしれない。個性とは自覚するのとは違った形で世に出ているものなのだろう。

日記帳に空欄が多いままであったとしても、である。


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