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不換通貨論 ~忘れられた日本銀行券の正体~ #010(1章-10) 通貨を生んだ「お返し」の気持ち


通貨を生んだ「お返し」の気持ち

『返報性の原理』という心の働きがある。「お返ししたい」という欲求だ。助けられれば助け返そうとし、攻撃されれば攻撃し返そうとする。この心の動きは、人間はもちろん、犬、猫、猿、鳥、その他に至るまで持ち合わせている原始的な感情だ。

文字や数字を生み出す以前から、人間は「記憶」の中で「恩」と「恨み」をカウントしている。先に何かをもらったら、次は何かを与えようとする。先に何かを奪われたら、奪い返そうとする。

「すみません」が意味するもの

自然を相手にして日々の収穫量が変動する暮らしをしていると、意図せず予想外の収穫を手にすることが起こる。たとえば漁師が、いつも以上に多くの「食べきれないほどの魚」が罠にかかっていた時、腐らせてしまう前に近くに住む知人に分け与えようと考えることは自然なことだ。しかし受けとった側が都合よくお返しの品を持っているとは限らない。

たとえばまだ作物の収穫時期にならない農民に渡したときには、彼が即座にお返しを渡せないことは充分にあり得る。

そこで魚を受け取った農民側には、「すまない」という気持ちが生まれる。このとき、何が「済んでいない」のかというと、「恩返し」がまだ「すまない」のである。では、いつ、どうやったら「済んだ」ことになるのだろうか。それは、魚をくれた漁師に対して「恩返し」が出来たときである。たとえば農民が後日、収穫を漁師に分け与えることで、恩返しが「済んだ」ことになる。

ところで日本人が、感謝するときに「ありがとう」ではなく「すみません」と言って謝るのが不思議だ、ということを言う人がいるが、これは日本語への理解が不足している。この「すみません」は、「このままではすみません、いつかお返しをいたします」という、「お返し」の意志表明なのだ。その点で、なかなか遭遇できない、在り難い幸運なできごとに感謝して受けとる「ありがたい(ありがとう)」とは意味が異なっている。

(謝罪に使われる「御免なさい」は「お許しください」なので、これが日本語の謝罪の言葉だ)

また、日本人は一般的に恩返しを早く済ませたいと考えるようだが、お返しに適したタイミングは文化圏によってそれぞれ異なるようだ。たとえば漢族は、あまり早くに「お返し」をされることを快く思わないらしい。彼らは本当に困ったときに返して欲しいと考えるそうだ。

日本人にも理解できる感覚として、「手切れ金」を渡して関係を清算しようとすることに近いイメージなのだろう。急いで恩を返そうとすることが、両者の間にある関係を清算しようとするように受け取られるのかもしれない。

また日本では、対価を渡すことを「はらう」という。ここでは埃や汚れを「掃う」ことや罪や災いを「祓う」のと同じ音の言葉を使っているが、物を貰っておきながら対価を渡さないのは「盗み(罪)」となりかねない。一方的に貰うと気まずくなってしまう。

そこで自分がそれを受けとった代償を置いて「はらう」ことで罪を祓って清めるのである。

自分たちが受け渡す通貨にはなにか価値があるだろうという錯覚

こうして多くの人が、日々商品との交換品のようにして支払い、また自分が受け取ってもいる「通貨」には何かしらの価値があるのだろうと錯覚している。

「通貨を渡せば商品が手に入るのだから、通貨には商品と同じ価値があって、等価交換が成立するはずだ」とか、「通貨に価値を与えるためには、政府が受けとる必要性を与えなければならない」という考えは、通貨にはなにか価値がある、という前提に立った考え方だ。

しかし、恩返しの事例で見られるように、最初に貸しを作った漁師は、その時その場では農民から対価を得ていない。いやむしろ、自分のタイミングでおすそわけをする相手に対して、相手がその時に交換するものを用意できないことは当然予想できる。このとき漁師は即時等価返済を求めていないのだ。

これは現代我々が、商品や労働と引き換えにして「通貨」を受けとっても、それを市場で使用して自分が必要とする「財・サービス」を受け取るまでは、実際に何も手に入れていないこととよく似ている。現代の多くの労働者は、労働力を提供した約一か月後に報酬を受け取る。商品に交換するのはさらにその後だ。

通貨は即時等価交換を行うための引き換えに渡される「物品(物品貨幣)」ではなく、別の時、別の場所で恩返しを受けるために渡される、「感謝を数値化したメモ」に過ぎない。

通貨という尺度でどれくらいの「恩恵」を他人に与えたのかを証明するただのメモ用紙だ。そう考えると、「通貨(メモ用紙)それ自体には全く価値は必要ない」ことが判る。

そのメモを提示して受け渡すことで、同一の市場に属する誰かから、恩を返してもらうことができればよいのだ。

通貨は恩をカウントするための分散型の帳簿

私は「通貨」とは、財やサービスをやり取りする際に生じる「恩」や「借り」を、脳の外の世界に記録・具現化させたものだと考えている。だからこそ、そのものが持つ素材的な価値などは問題ではなく、その実体は「商品・サービス」の受け渡しに際して、受けた「恩」の量を計量できる尺度となれば何でもよかったのだ。

実際に文字が生まれる前の世界において、顔見知りたちの小さなコミュニティでは、さまざまな記録装置が生み出されて通貨となっていた。

紀元前3500年、メソポタミアでは小さな粘土玉「トークン」の受け渡しをしていた。また、文字を持たなかったインカ帝国では、ロープに作った結び玉の数でつけた「キープ」と呼ばれる帳簿があった。これは受け渡しを記録するためのものであって粘土玉や結び目それ自体に価値があるわけではない。

人間の行動範囲がそれほど広くない時代、たとえば郊外の大型ショッピングモールではなく、近所にある特定の商店で日用品の買い物を済ませていた時代には、この店に対して何を仕入れたか、何を受け取ったかの記録だけで事足りた。

昔、カナダのニューファンドランド島の漁師たちは商店に釣った魚を持ち込み、その金額をその場で通貨では受けとらずに、帳簿に「つけ」で貸し預けておいて、その貸しの額だけ必要に応じて商品を持ち帰ることで必要な品物を手に入れていた。

この事例では貨幣がなくとも、店主の帳簿だけで商品の交換が成立している。

コミュニティが大きくなり、使用場所と利用者を増やそうとするときには、こうした「1対多」での帳簿の管理ができなくなる。そこで相手に何かの「証」を渡しておき、それを持ってきた者に「見返り」を渡す「多対多」の分散型の帳簿、「不換通貨」にたどり着く。これは単なる帳簿の切れ端、メモ用紙に過ぎないため、この素材に価値は必要ない。

コミュニティから信頼されている発行者が、メモ用紙に相手が提供した価値を記入して渡す。ちぎり渡されたメモ用紙。それが不換通貨の正体である。

互いに顔を知らないことをいいことに、通貨を偽造する不届きものが現れる段階では、偽造がしにくく、かつ一定のサイズである自然物、たとえば異国で取れる珍しい貝(タカラガイ)や、クジラの歯、川で拾える美しい砂金を溶かし固めたものなども使われるようになっていた。

これらの一部はまた金貨・銀貨という兌換通貨に変化していく。

一方で、文字が進歩していけば帳簿付けがより容易になって広まっていく。サイン・印章などの発達で偽造を防止できるようになると、借用証書や手形がうまれ、これはまた紙幣へと進化していった。通貨はこうして不換から兌換へ、また兌換から不換へと社会に応じて発生し変化する。その順番は決まっていない。

物々交換による取引と信用による取引

「貨幣」を「物品」だと考えるとき、貨幣を支払うことは物々交換の一種と言える。物々交換を意味する英語「barter(バーター)」は古いフランス語の「だます」という意味の言葉だ。

つまり取引相手と何かの物品を「同時に渡しあう」のは、だまし合い、信用できない相手との取引で損をしないための方法なのだ。

信用できない相手との取引の反対は、信用できる相手との取引である。

その信用は英語で「credit(クレジット)」と表現される。クレジットカードの「クレジット」だ。店はクレジット会社を信用し、クレジット会社は利用者を信用する。その結果、我々は店頭で物々交換(貨幣の支払い)を行わずに商品を手に入れることができている。

交換用ではなく価値の尺度となった貴金属

また紀元前3000年ごろのシュメール人は、楔形文字で粘土板に帳簿を付けていた。農民が羊毛やビールを消費したら、対価は収穫期に相応の量の大麦を引き渡すことで支払われた。この対価の量、つまり価格は国が定めた「銀に換算した価値」を用いて決められていた。

それぞれの品の値段は、銀の価値(量)を中心にして定められていたものの、これはビール〇杯=銀〇グラム、銀〇グラム=大麦〇グラムのように価値の尺度として銀が使われていたにすぎず、実際に大量の銀貨が流通していたわけではなく、また通貨の裏付けとして銀を所有している必要もなかった。

つまり、銀本位制だったわけではないが、銀が価値の尺度(単位)になっていた。

通貨に、なにか価値がなければならないと考えるのは、近代の金貨など、通貨の歴史のごくわずかな部分を見ているからである。

通貨は「心」が、「恩」を記録するために発生したものだと考えれば、通貨自体に価値などなくとも取引を成立させてきたことがよくわかる。

通貨は、複数の商品の価値を互いに評価しあうための「尺度」にすぎない。

互いに疑い、奪い合う場面では価値ある通貨の「物々交換」を求めるが、敵を倒すために一体となるときや、世界大戦を越えて発展した世界の財が金の限界を越えたとき、価値は不要になった。

そう考えてみると、裏付けの存在しない「不換通貨」こそが、通貨の原始的で本質的な仕組みなのかもしれない。

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