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不換通貨論 ~忘れられた日本銀行券の正体~ #001(1章-01) はじめに/日本銀行券の正体

このシリーズはAmazonで販売中の不換通貨論を紹介していきます。
KDP専売電子ブックとは一部内容・編集等に差異があります。


はじめに

1973年2月14日、日本銀行券は名実ともに「不換(ふかん)紙幣」となった。

しかしこの事実が持つ大きな意味について、日本社会は50年以上もの間、理解することなく、いつしかその事実さえ忘れてしまったかのようである。

およそ誰にとっても、生活のほとんど中心にあって非常に重要な問題となっている「貨幣」および「通貨」について、我々はほとんど学ぶ機会がない。それどころか、この通貨を管理すべき財務省や日本銀行でさえ、その性質を全く理解していないように見える。

あなたは、経済について疑問をお持ちではないだろうか。なぜ世界各国は財政赤字を問題視しながらも成長し続けているのだろうか。なぜ世界最大級の経済規模を誇った日本が、いまや一人負けの様態でこれほどまでに衰退してしまったのだろうか。そして日本が再び豊かな国に戻れる可能性はあるのだろうか。

本書は、歴史的事実や法律を根拠として「通貨」の理解を深めてもらうことにより、読者がこれらの疑問を解消できるように書かれている。

本書はいわゆる「経済の本」ではないので、経済に詳しくない人にも分かりやすく、日本がいつどこでなにを間違えたのか、その答えを理解できる本にしたいと考えている。

この本を書き始めた2022年12月、日本は長い不景気の原因を解明することもできず、インフラ老朽化、地方の過疎化、少子化、高齢社会、就職氷河期世代、長時間労働、労働者不足、防衛まで様々な問題を抱え、世界に類を見ない経済衰退によって国民は苦しみ続けている。

日本についての明るい話題を最後に耳にしたのはいつだっただろうか。若者は日本が豊かだったことを、もはや遠い過去のこととして忘れかけている。

このような衰退は、まるで「成熟した社会では当たり前に起こる、避けがたい現象」であるかのような主張が長年広く信じられてきたが、日本以外の先進諸国や、日本よりも貧しかったはずの発展途上国が、日本を置き去りに成長している現実を目の当たりにしては、この衰退には日本独自の原因があると考える方が妥当であろう。

この原因を見つけて正さない限り、日本はこのまま衰退し、近いうちに消滅する。

そんな中で、社会で語られている多数の経済議論を聞くうちに、政治家や官僚、マスコミ、一般の日本人の多くに「通貨の認識」について非常に重要な欠落があると確信した。

そこで本書では読者にまず兌換(だかん)紙幣(兌換通貨)と不換(ふかん)紙幣(不換通貨)の違いを明確に理解してもらい、通貨の性質、そして日本の貨幣の歴史を再確認してもらいたいと思う。

第一章 不換通貨と兌換通貨

日本銀行券の正体

第一章では、本書が最も伝えたい点、つまり「通貨には複数の種類があり、とくに『不換(ふかん)通貨』と『兌換(だかん)通貨』という通貨があって、それらは全く異なる性質を持つこと」を解説しながら、通貨とは何か、という事を知ってもらいたいと思う。

説明は我々の生活の中心にある日本の通貨のことから始めよう。

現在、日本の紙幣の正式名称が「日本銀行券」であることを知っている人は多いだろう。

この日本銀行券を発行する「日本銀行」は、明治初期、西南戦争後に起こった物価の高騰を止めるために設立された銀行である。

江戸幕府から明治政府へ政権が移っていく時代に、経済を発展させるため、戦費の調達のため、西洋の銀行制度を参考にして、様々な銀行や政府が紙幣を発行していた。それら多種多様な紙幣によって起こっていたとされる物価の高騰を解消するため、明治15年(1882)に「物価の安定」と「金融システムの安定」を目指して日本銀行が創設された。

明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発し、大量の不換政府紙幣、不換国立銀行紙幣が発行されたことから、激しいインフレーションが発生してしまいました。
そこで、明治14年(1881年)大蔵卿(現在の財務大臣)に就任した松方正義は、不換紙幣の整理をはかるため、正貨兌換の銀行券を発行する中央銀行を創立し、通貨価値の安定を図るとともに、中央銀行を中核とした銀行制度を整備し、近代的信用制度を確立することが不可欠であると提議しました。
こうして、明治15年(1882年)6月、日本銀行条例が制定され、同年10月10日、日本銀行が業務を開始するに至りました。

日本銀行ホームページ 日本銀行について「教えて!にちぎん」より

これ以降、日本国内で紙幣を発行する銀行は日本銀行のみに一元化されている。

こうして生まれた日本銀行が発行する紙幣は、2度の名称変更を経て、現在の日本銀行券になっている。最初は「日本銀行兌換(だかん)銀券(ぎんけん)」、次に「日本銀行兌換券(だかんけん)」、最後に現在まで続く「日本銀行券」へと変化している。

日本銀行兌換銀券

最初に明治18年(1885)に発行された「日本銀行兌換(だかん)銀券(ぎんけん)」から見ていこう。

まず、紙幣には「兌換(だかん)紙幣」と「不換(ふかん)紙幣」の2種類があるとされ、日本銀行兌換銀券は兌換銀券の名が示すように兌換紙幣である。

「兌換」という言葉は聞きなれないだろうが、「兌」という文字は、抜き取って差し替えるという意味の文字なので、「兌換」は交換と同じような意味と考えてよい。辞書では「とりかえること。ひきかえること」、「銀行券や政府紙幣を正貨(せいか)と引き換えること」と説明されている。

つまり兌換紙幣とは「交換券」のことなのだ。

この兌換紙幣と引き換えに渡される「正貨」とは「額面と同じ価値をもった貨幣」のことを示している。つまり、日本銀行兌換銀券という名前が表しているのは「日本銀行が発行した、同額の価値の銀貨と交換できる券」という意味である。

実際にこの日本銀行兌換銀券には「此券引かへに銀貨〇圓相渡可申候也」(この券と引き換えに銀貨〇圓を渡します)と明記されていた。

そのため一圓紙幣は単なる紙切れではなく、一圓銀貨と同等の価値があった。

ある特定地域の人々が、ある特定の銀行業者の財産、誠実さ、慎重さに深い信頼を寄せていて、自分の約束手形をいつなんどき提示しても、この銀行業者がつねに要求に応じて支払ってくれる用意がある、と信じているとしよう。その場合にはこの手形は、それと引換えにいつでも金銀貨が入手できるという信頼から、金銀貨と同一の通用性を持つようになる。

アダム・スミス 「国富論」

今でも日本人は通貨を呼ぶ際に「おカネ(お金)」という言葉を使う。しかし「カネ」は日本の古い言葉(大和(やまと)言葉)で金属全般のことをあらわす言葉である。お寺の鐘も大きな金属だからカネと呼ばれていた(正式名称は「梵鐘=ぼんしょう」)。

ではなぜ金属製の硬貨のみならず、紙でできた紙幣までもおカネと呼ばれているのだろうかというと、やはり「経済学の父」と呼ばれるアダム・スミスが言うように、紙幣が金銀貨と同一視されていったからだろう。

たとえばコーヒーの引換券をプレゼントするときに「コーヒーをあげる」といって差し支えないのと同様に、金貨や銀貨と交換できる兌換紙幣を「おカネ(金属)」と呼ぶことにも合理性があった。しかし不換通貨となった今、金貨や銀貨との兌換は行われないのであるから「おカネ(お金)」という言葉は廃し、「通貨」と改めるべきであろう。

日本銀行兌換銀券が発行された明治18年(1885)当時は、法令「貨幣条例」で一圓の価値が定められていた。一圓銀貨には実際に銀が使用されており、その価値を一圓とすることが法律で決められていた。

品質:銀九分銅一分 (銀90% 銅10%)
直径:1・5インチ (3・81センチ)
重量:416ゲレイン(26・9563グラム)

つまりわかりやすく言えばこの時代の人々は、銀貨、あるいは銀貨の引換券を利用して日々の取引を行っていたというわけだ。賃労働の対価(給料)を銀で受け取って、これを「賃銀(ぎん)」とよんでいた。そしてこの銀を商店に渡して米や味噌を買っていたということになる。

当時、日本銀行兌換銀券は、百円、十円、五円、一円の4種類が発行されている。

明治18年(1885)と言えば、巡査の初任給が6円だった時代である。それから135年経った令和2年(2020)の大学卒警察官初任給は21万5401円(参考:令和2年地方公務員給与実態調査)で、比較すると3万5900倍になっているので、1円は現代の3万5900円ほどの価値だと考えられる。

ちなみにいま我々が使っている硬貨は「正貨」やその「補助貨幣」ではない。『通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律』によってその名称を「貨幣」と定められている。

硬貨、あるいは金属貨幣と呼ばれるコインのなかでも、正貨を除いた「補助貨幣」と「貨幣」は、あまり価値のない金属で作られ、表示金額と価値が異なっていることが普通だ。

たとえば現在の1円硬貨の金属としての価値は0・3円程度で、最高額硬貨の五百円硬貨でも5・2円程度の価値しかないと推計されている。

日本銀行兌換券

つぎの「日本銀行兌換券(だかんけん)」は、明治30年(1897)に銀貨を正貨にする銀本位制から、金貨を正貨にする金本位制に移行したことで発行されたもので、名称から「銀」という文字が削除されている。なぜ兌換「金」券と変更しなかったのかは不明だが、何と交換できるのか判らない名前になってしまっている。

しかしこれは引き続き「兌換紙幣」であり、金の「正貨」と交換できる紙幣であった。当時の日本銀行兌換券には次のような言葉が明記されていた。

「此券引換に金貨〇圓相渡可申候」(この券と引き換えに金貨〇圓を渡します)

そのため日本銀行兌換券は単なる紙切れではなく、金貨と同等の価値を持っていた。

当時の『貨幣法』の第二条に「純金ノ量目(りょうもく)二分(にぶ)ヲ以(もっ)テ価格ノ単位ト為(な)シ之(これ)ヲ圓(えん)ト称(しょう)ス」(純金の重さ二分=0・75グラムを価格の単位として、これを圓と呼ぶ)という条文があり、純金0・75グラムの価格を一圓とすることが定められている。つまり当時の「圓(えん)」は金の重さを表す単位であったと言える。

こういった事情から、「金一圓」という表現が生まれる。現代でも契約書などに「金〇圓」などと書かれるのはこの名残である。

これは「布一反(いったん)」や、「米一俵(いっぴょう)」などと同じ表現で、対象物とその量を言い表している。

兌換通貨の時代、「圓」は金や銀の重さを示す単位だったのだ。一圓は「金0・75グラム」の意味だった。したがってこの時代は、日本で流通する通貨「圓」は「金」そのものであり、人々は給料を「金」で受けとり、「金」を支払って暮らしていた。

日本銀行券

最後に今現在も我々が利用している「日本銀行券」が昭和17年(1942)に登場する。

昭和4年(1929)に始まった世界恐慌の中で、日本国内からも正貨(金貨)の大量流出が起こった。通貨が不足するということは、言い換えれば貨幣がなかった時代の不便さに近づくということでもある。貨幣なしには、社会は原初的な物々交換の経済活動水準しか維持できない。

日々の様々な取引が通貨の不足によって困難になると、通貨の希少化で通貨の価値は上がり、物価が下落する。これが「デフレ経済」という不景気を招いてしまう。

企業は売り上げを得られず経営不振になり、失業者が増加する。世界恐慌によって日本も深刻な恐慌に陥ることとなった。

しかし日本政府はこの時期にも緊縮財政をつづけ、クーデター未遂事件も発生し、このような状況に社会不安が大きくなっていた。

昭和6年(1931)に犬養毅内閣は、金の流出・物価の下落、不景気を止めるため、金兌換を停止した。大蔵大臣高橋是清は、内閣発足直後に金輸出を禁止。さらに紙幣の金貨兌換を停止し、国債を日銀が引き受けることによって政府支出を増額させ、国内で不足した通貨を供給することで世界恐慌によるデフレから日本を世界最速で脱出させた。

その後、昭和17年(1942)には法的にも管理通貨制度へと移行し、それに伴って正式な「不換紙幣」として「日本銀行券」が発行されることとなった。

このときいよいよ紙幣から「兌換」という言葉が削除された。つまりこれは紙幣が「兌換紙幣(交換券)」ではなく「不換紙幣」になったことを表している。

そしてもう一つ紙幣から削除されたものがある。それは「此券引換に金貨〇圓相渡可申候」(この券と引き換えに金貨〇圓を渡します)という文字だ。もしも、その代わりに何かを記載するならば「この券と引き換えに金銀貨は渡しません」とでもなるのだろうか。

何も渡さないという事が記載されていない事に、それほど違和感はないかもしれない。何とも交換しないのだから、交換するという説明が無いのは当然だ。しかし、それによって我々は、この券の正体が何だったのかを理解する手がかりを失ってしまった。

そこに何が書かれているかではなく、何が書かれていないのかを知る必要があったのだ。

こうして1942年以降は、金とも銀とも兌換してもらえる約束がない、ただの「紙」を渡しあって生活するようになった。

ちなみに、金銀との兌換を行わない日本銀行券では「取り付け騒ぎ」は起こらない。

取り付け騒ぎが起こるのは、自分が預けている金銀を返してくれないのではないか、という不安が広がった場合であり、通貨でそれが起こるのは兌換通貨の場合に限られる。

日本銀行兌換券は金の引換券、債券だったので、兌換券と引き換えに渡す「金」が通貨の発行者である日本銀行の手元に存在していなければならない。

ところが不換通貨では、なにも渡す物はないのだから取り付け騒ぎの起こりようがないのだ。

しかしこれとは別に、日本銀行以外で通貨を預かっている者、たとえば市中銀行が倒産すれば、現在でも「普通預金」の一千万円以上は保護対象外なので、引き下ろそうと殺到する事態が起こる可能性はある。

しかしこの場合も当座預金や決済用普通口座は保護されているし、またその他の金融商品の取り付け騒ぎなど、資金を預かっている事業者の取り付け騒ぎは起こり得るが、これは日本銀行に対する兌換取り付け騒ぎとは全く別物である。

日本銀行券(金・ドル本位制時代)

敗戦を経て1948年、「1ドル=360円」として価値が固定された日本銀行券は「間接的な兌換通貨」へと切り替えられることになった。戦後の国際社会は経済秩序の回復のためとして、アメリカドルを基軸とした間接兌換通貨制度、いわゆる「金・ドル本位制(ブレトンウッズ体制)」を開始した。

これにより、世界中の通貨はドル(金兌換通貨)とのレートが固定され、間接的な兌換通貨となった。当然、日本も政府の意志で自由に通貨を発行することはできなくなった。

なぜなら円は日本国内での法的な立場としては不換通貨(不換券)のままであったが、国際社会から見れば「1円=360分の1ドル=金12600分の1オンス=金0・0025グラム」という価値を持った「金・ドル兌換通貨」になっていたからだ。

法的には「不換通貨」でありながら、実質的には「金・ドル兌換通貨」というねじれ状態になったのは、日本は連合国側の事前協議(ブレトンウッズ会議)に参加することなく、敗戦によって強制的に組み込まれることになったからであろう。

この時期、日本を含めた「ブレトンウッズ協定参加国」の人々は、間接的に「金(ドル)」を通貨として生活していたという事になる。

日本銀行券(ニクソンショック以後)

ねじれ状態にあった日本銀行券であったが、1973年2月14日、円は再び「不換通貨」に戻されることになる。アメリカによる金兌換が終了し、各国の通貨が不換通貨へと変化したためだ。

日本円は再び、名実ともに不換通貨となった。

こうして日本銀行券は、その名称を「日本銀行券」のまま、不換通貨から兌換通貨、そして再び不換通貨へと変化した。

しかしこれらの変化が日本の意思による能動的な変化でなく、敗戦によるブレトンウッズ体制への加入、そしてアメリカによる金兌換の終了という、国際的通貨制度の変化により受動的に巻き込まれた変化であった点が、日本の通貨(貨幣)に関する理解を阻害した一因であろうと思われる。


本書はこれから、こうした兌換通貨と不換通貨の入れ替わりがもたらす影響について分析していくこととする。

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