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善助漂流記(その2)

(あらすじ)日本人で初めてメキシコに漂流した紀州周参見すさみ生まれの船頭善助は、我が家のご先祖様だった。

( 物語 その2)
 今から180年前の天保12年8月23日(1841年10月7日;以後西暦表示)、神戸港を永寿丸という千石船が出航した。まだ21歳の若き船頭善助をはじめ乗組員は総勢13名。永寿丸は酒・砂糖・塩・綿・線香などの商い品を満載して奥州南部藩の宮古に向かった。

当時の千石船。
永寿丸もこんな感じの船だったと思われる。
(出典;すさみ町立郷土資料館より)

 ところが、同年11月に千葉の犬吠埼沖ですさまじい暴風雨に襲われ永寿丸は難波。帆柱が無くなったボロボロの船で、善助たちは太平洋を漂流することになってしまった。

 米を食べ尽くした後は、積み荷の酒や砂糖をみんなでチビチビ舐めながら命をつないだ。また船の釘を釣針にして魚を釣ったり、船に付いた藻も食べたりもした。創意工夫しなければ生き延びることができない。
 聞くところによれば、あのジョン万次郎たちが漂流した時は空を飛ぶ鳥を捕まえて食べたという。善助たちがそうしたかどうかは分からない。

 水については、雨水を貯めて飲んだ他に、驚くべきことに、海水を蒸留して真水にして飲んだという。当時の船乗りは今でいう「海水淡水化技術」を知っていたのだ。

 太平洋上をさまようこと約4ヶ月。メキシコに向かう途中のスペイン船エンサーヨ号に発見され、やっとのことで全員救助された。

スペイン船エンサーヨ号に救助される永寿丸。
確かに帆柱が無くなっている。
(出典;(善助の報告を紀州藩がまとめた『東航紀聞』より。)
エンサーヨ号の救助ボートが永寿丸に近付いているところ。
(出典;『亜墨新話』四国大学 凌宵文庫より。)
(『亜墨新話』は永寿丸乗組員初太郎の報告によるアメリカ物語)

 それから約2ヶ月後の1842年4月30日頃、善助を含む7名がエンサーヨ号から浜に降ろされた。場所はメキシコのカリフォルニア半島の最南端のカボ・サン・ルカスという所である。他の6名は別の所で降ろされたという。
 ともかく、乗組員13名全員が生きてメキシコに上陸できたことになる。

 ところで、スペイン船エンサーヨ号のなかで、日本人たちは手厚く保護介抱して貰えたのだろうか?

 とんでもない。エンサーヨ号は密貿易船だったのである。スペイン人は船長ら2人だけで、船上で肉体労働を強いられた船員20数人はすべてフィリピン人だった。船長は救助した善助たち日本人を過酷な労働に駆り立て、約2ヶ月の間死ぬほどこき使ったのである。一難去ってまた一難とはこのことだ。
 
 善助たちはこの危険な「命の恩人」からまさしく命からがらメキシコにたどり着いたのである。

サン・ホッセ村の役人に挨拶する善助たち。
「お役人さま~」。
みんな洋服を着ている。どれが善助だろう?
(出典;善助の報告を紀州藩がまとめた『東航紀聞』より) 

・・・次回に続く

(注)
ここに掲載した図版は全て、
(佐野芳和『鎖国 日本ハポン 異国 MEXICOメヒコ 難船栄寿丸の13人』
メキシコ・シティ発行、1999)のページを西岡が写真撮影したもの。


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